ミヨちゃんのキャンバス

燈 歩

ミヨちゃんのキャンバス

「にいさんのキャンバスばっかり」


 おひさまの匂いが心地よい陽だまりの中に女の子が一人。ミヨちゃんはぶつくさと文句を言っています。


 おにいさんが使っていたアトリエの二階。リネンをかけられたキャンバスの森の中を、ミヨちゃんは渡り歩いて探しています。


 ふわりふわりと舞い上がる埃が、あたたかい光にきらめいてダイヤモンドのようです。


「もう、どこに置いたのかしら」


「ぼくはここだよ」


「ちがうよ、ぼくだよ」


「いいえ、わたしよ」


 ミヨちゃんの独り言に、キャンバスたちが名乗りを上げますが、ミヨちゃんは聞こえないのです。


「あら、この絵」


 ちらりちらりとリネンをめくっては次のキャンバスへと向かうミヨちゃんが足を止めました。


「懐かしい……」


「ありがとう」


 バサリと取り払ったリネンの下からは、夕焼けの橙が美しい一枚のキャンバスが現れました。


 沈んでいくおひさまが、まるでほんとうに輝いているかのような鮮やかな橙です。空の上の方は今紫に染まり、夜がもうすぐそこまで迫っているのが分かります。


「わたしはこっちよ」


「ぼくも見つけて」


「はやくはやく」


 キャンバスたちの声は聞こえません。ミヨちゃんは、ぼんやりと思い出を手繰り寄せているのです。微かな微笑みを浮かべているのに、物思いに沈んでいるようなミステリアスな表情はモナリザのよう。


「思い出してくれてありがとう」


 絵の具がひび割れパキリと音がしました。


 ふとミヨちゃんが我に返ると、そこには輝きの消えた一枚のキャンバスがありました。


「どこに置いたかなぁ」


 またちらりちらりと覗きながらの探し物です。


「よかったね」


「うれしいね」


 キャンバスたちの声は届きません。


「まあ、この絵」


「そうだよ」


 バサリと取り払ったリネンの下からは、草木の翠が匂い立つ一枚のキャンバスが現れました。


 描き取られた小さな池には金や朱や白の鯉が泳いでいて、こちらにふわりと浮かんできそうです。ゆりかごのように守り立つ木々には、優しさがあることがありありと分かります。


「思い出して」


「ここだよ、ここ」


「ずっと待ってたんだよ」


 キャンバスたちの声は聞こえません。ミヨちゃんは、あの日のことを八ミリフィルムの映像のように眺めているのです。幸福を外から眺めるかのような表情はヴェールの女のよう。


「またね」


 絵の具がひび割れパキリと音がしました。


 ふとミヨちゃんが我に返ると、そこには乾いた絵の具と埃の匂いのする一枚のキャンバスがありました。


「あるはずなんだけどなぁ」


 またちらりちらりと覗きながらの旅をはじめます。


「気がつくかな」


「もう知っているよ」


 キャンバスたちの声は拾われません。


「そう、この絵も」


「覚えているかな」


 バサリと取り払ったリネンの下からは、金糸雀色が目に眩しい一枚のキャンバスが現れました。


 風に吹かれてなびいている葉っぱが紙吹雪のようで楽しそうです。その生々しさも美しさも数日で終わってしまう儚さまで、ひしひしと感じます。


「楽しかったかな」


「寒かったかな」


「嬉しかったかな」


 キャンバスたちの声は聞こえません。ミヨちゃんは、思い出すまでもなく自動再生される記憶の中にいるのです。ときめきのような恐れのような相反する表情は耳飾りの少女のよう。


「大丈夫だよ」


 絵の具がひび割れパキリと音がしました。


 ふとミヨちゃんが我に返ると、ひび割れて裂けた大地のような一枚のキャンバスがありました。


「置いていかないで」


「ぼくたちは待ってたよ」


 キャンバスたちの声は響いています。


 そうやって一枚一枚リネンを取り払い、くすんだ白い森は徐々に色を取り戻していきました。どのキャンバスにも、ミヨちゃんは思いを馳せて、その度に慈しむような、それでいてどこか切ない顔をしていました。


「最後の一枚」


「ミヨちゃん」


 ミヨちゃんはそれまでよりもゆっくりと時間をかけてリネンを取り払いました。


 そこには紺碧の瑞々しい海が、半分だけ描かれていました。潮風がアトリエの二階に吹き込んだように感じられ、もう半分のまっさらな空白がおひさまの光を反射してぽっかりと浮かんでいます。


「ずっと待ってたんだよ」


 最後の一枚になったキャンパスは小さく声を上げています。穏やかで心地よい波の音のような、くすぐったい耳障りです。


「わたし、大切にするよ」


 ミヨちゃんはキャンバスに向かって言います。


「どれもこれも、わたしだけのたからものだもの」


「ミヨちゃんのなかで、ずっと生き続けるよ」


 最後のキャンバスをミヨちゃんはそっと抱きかかえます。愛しい幼子のように。生涯を共にする伴侶のように。消え去る温もりを忘れぬように。


「新しい絵を描くわ」


「ぼくは完成されているからね」


 ミヨちゃんは確かな足取りで、アトリエから出て行きました。


 半分の海が描かれた、キャンバスを持って。

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