第277話 汚れた手では茶は美味しく飲めない

 「余は......リア、お主の墓の前に立ったことが......無い」


 皇帝バーダン・フェイル・ボロンはその瞳に誰も映さず言葉を紡いだ。


 その声は国の頂点に立つ者とは思えないほど弱々しく、この場に居る誰もが聞いたことのないほど覇気が無かった。


 それでもバーダンは続けた。


 「立つ資格が無いのだ、余には。戦争を嫌い、暴力を拒絶するお主に、今の余を見せたくなかった」


 頭では理解している。眼の前の女は妻ではない。姿だけで、中身は娘だ。あの日、王国からの帰路の途中で命を断たれた妻が、この場に居るはずもない。


 それでも、バーダンは自然と口を開いてしまった。


 誰にも聞かせたことのない声音と本音を、眼の前の偽者に。


 「何が......したいのだろうな。結局、こうして弱音を吐いてしまった。なぜ......最後まで怒りに身を任せることができない」


 バーダンは拳を握り締めた。


 怒りからか、それとも別の何かからか、バーダンが纏う鎧が、身の震えに呼応するかのように、カタカタと音を鳴らした。


 「時が経つに連れ、余の中に葛藤が渦巻き......あの日の覚悟を鈍らせる。薄情な自分が情けない。ただただ意固地になって、復讐を果たそうとしているだけではないか」


 言うな。これ以上、たとえ偽者であっても、リアに向けて言うことは間違っている。


 そのはずなのに――バーダンは思いの吐露を止めることができなかった。


 「いや違うな......。余は怯えていただけだ」


 次第に言葉は、本音は......言った本人に気づかせた。


 「復讐を経て、怒りを鎮めたいのではない。失いたくないのだ。奪われたくないのだ。大切なものを......お主が愛した国を......娘を。何者にも奪われぬために」


 言葉は続くに連れて小さくなり、眼の前に居るロトルにさえ聞こえるかどうかわからない程であった。


 一頻り言い終えたことを察したのか、ロトルはバーダンの片頬に触れていた方とは別の頬に、そっともう片方の手を添えた。


 そして視線を足下に落としたままのバーダンの顔を少しだけ上げて、半ば強制的に自身の目と合わせた。


 「リア......?」


 バーダンは自身に微笑みかける亡き妻の顔を目にして、名前を呼んだ。


 リアは......ロトルは黙ったままだ。


 黙ったまま、顎をやや上に向けて、重心を後方に傾ける。次第にロトルの手は力が込められ、バーダンの顔面を固定した。


 その一連の行為に、バーダンはただただ立ち尽くしているだけであった。


 故に次の行動を許してしまう。直撃してしまう。


 ロトルの――


 「ふんッ!!」


 「ッ?!」


 ――リアの頭突きを。


 バーダンはその行為に驚きもあってか、後方に尻もちを着いてしまった。目をぱちくりとさせ、何が起こったのか理解ができないと言った様子だ。


 鼻から血が流れ落ちているにも関わらず、唖然とした様子で眼の前の人物を見上げる。


 痛みは驚愕に負けて無い。多少、じんとするくらいで、大したことはなかった。


 見上げた先、そこに居たのはリアではなく、いつの間にか変身を解いていたロトルの姿であった。


 「痛かった?」


 娘が目つきを鋭くして、自身を見下ろしながら、そんなことを問う。


 気づけばロトルの額は赤く腫れていたことに気づく。


 バーダンは返事をせず、頷きもせず、ただただ娘を見上げていた。その胸中には、娘に頭突きされ、亡き妻にも頭突きをされたという複雑な心境があった。


 「痛かった?!」


 「え゛」


 「痛かったかどうか聞いているのよ!!」


 そんな怒鳴りつけるような言葉に、バーダンは「ああ」とだけしか答えられなかった。


 「私も痛かったわ!!」


 「......。」


 娘はいったい何がしたいのだろう。


 バーダンは皇帝という身分とは言え、過去にそれなりに戦闘経験のある男だ。故に肉体は頭の天辺から爪先まで頑丈で、そんなバーダンに頭突きしたとあってはロトルにも相応のダメージがあっただろう。


 故に何がしたかったのか、バーダンには到底理解が追いつかない行為であった。


 そんなバーダンを他所に、ロトルは父の前にしゃがみ込み、鎧の胸倉付近を掴んで叫んだ。


 「痛いでしょ?! 当然じゃない! 殴られたら痛い! 大切な人が死んだら哀しい! 何もできない自分が情けない! 当然よ! 全部ッ、全部全部全部全部当然のことよ!! 当然の......ことなのよ」


 ロトルの言葉は激情のまま紡がれるも、次第に力を徐々に失っていった。


 瞳は赤く腫れ、目尻には大粒の涙が浮かぶ。込み上げてきた熱が、彼女の思いとなって言葉になった。


 「当然のことだけど......それじゃあ駄目じゃない。私たちが残されたんだから......“当然”をそのままにしちゃ......駄目じゃない」


 「ロトル......」


 「残された私たちがすべきことは、残された大切なものを......“大切なまま”にしておくことよ」


 その思いは、父親に伝わった。


 生き残った者は、同じく残された者を守り続けなければならない。


 それは他者から奪われないように、奪われる前に奪い尽くして確立するものではない。なぜ大切であったのか、その意義を見失わないように守るべきだ。


 それが残された者の義務であり、果たすべき使命でもあった。


 「パパ......昔、ママがよく好んで飲んでいたハーブティーを私が淹れて、執務室に居たパパに差し入れしたの、覚えてる?」


 ロトルの涙は頬を伝って、バーダンの鎧の上に零れ落ちた。ポロポロと鎧を湿らせる雫は、不思議にもバーダンの身に染みるような切なさがあった。


 古い記憶でも忘れること無く覚えていたバーダンは、静かに相槌を打った。


 「......ああ」


 「でもパパはハーブティーが嫌いで、コーヒーをよく飲んでいたことを当時の私は知らなかった。それなのに私が淹れたハーブティーを飲んだ」


 「そういうこともあったな......」


 「そしたら一緒に居たママが、私に見つからないようにコーヒーを淹れて、パパのハーブティーと入れ替えたの。私はそれを見ちゃったけど、何も言わなかったわ」


 「......そうか」


 「パパは困り顔で言ってたわよね。『ロトルが淹れた茶は渡さん』って。でもママは『私が淹れたコーヒーは飲めないの?』って意地悪言って、パパを更に困らせた」


 「はは、懐かしいな」


 「終いには『両方飲む』って言い張るものだから、私はパパの喉が乾いているって誤解して、ハーブティーをたくさん淹れたの。結局、もっと困らせてしまったのは私なのにね」


 「......。」


 そう言い終えると同時に、ロトルはバーダンの胸当てにコツンと額を当てて訴えた。


 「ねぇ。今もハーブティー、嫌い?」


 「......いいや、そんなことはない」


 「なら今度、ママと一緒に飲みましょ」


 「......。」


 その言葉に、バーダンは応じれなかった。


 応じる資格が自分には無いと思い込んだ――その時であった。


 「手が汚れちゃったら......美味しくなくなるわよ」


 手を汚すとは言うまでもなく、これから始めようとする惨劇によって汚れてしまうことを意味する。


 これから戦争が始まれば、きっとバーダンの手は拭いきれないほど血に染まって綺麗では無くなる。いや、もう今の時点で綺麗ではない。


 それなのに娘は......こんな自分と一緒に居てくれることを望んだ。


 残された者同士、残された大切なものの意義を守りながら、これからを歩むことを決めてくれた。


 その思いに......バーダンの瞳に涙が浮かんだ。


 「それは......ほん......とうに......余が............していい......ことなのか」


 声は震え、掠れて聞き取りづらい。溢れ出す思いが涙となって、今まで抱いてきた復讐心を薄めるように流れ落ちた。


 そんな父に呼応するように、ロトルも涙を流した。


 生前の母のように優しく微笑みかけられるよう、少女は父を見つめる。


 「馬鹿ね......家族でしょ」


 その言葉が、バーダンの復讐心に終止符を打ったのであった。

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