第276話 親子喧嘩は茶の席で
「......。」
帝国現皇帝バーダン・フェイル・ボロンは夜空を見上げいた。
身体を大の字にして、地面に倒れていたのである。鼻にじんわりと感じる鈍い痛みは流血を伴っていた。
(月......か)
今しがたバーダンはある者に頭突きを食らい、倒れていたのだ。バーダンは鼻から流れる血を乱暴に拭って、身を起こした。
そして眼前で額を赤くした娘の名を口にする。
「ロトル......」
バーダンが倒れてから僅かな時間、夜空を眺めていたのは実の娘であるロトル・フェイル・ボロンに頭突きされたからだ。
ロトルは異様な格好をしていた。着ているドレスのサイズがやけに大きいのである。まるで子供が大人用の服を着たようだった。なぜそのような格好をしているのだろうか。
また剣すら携えていないことから、バーダンは娘がこの場へ何をしに来たのか疑問を抱いた。
否、疑問は疑問になり得ない。あの冒険者の少年と同様、戦争を止めるためにこの場へやって来たのは明白だ。
それでもバーダンは問う。
「何をしにここへ来た」
「戦争を......いいえ、パパを止めに来たのよ」
もう何度聞いてきた言葉だろうか。
バーダンは溜息にも似た息を深く吐き捨て、重々しく立ち上がった。
眼の前に立つのは自身よりも一回り小さい少女。それもそうだ。自分の年の半分も生きていない我が子なのだから。
「余は止まらぬ」
「私が止めるわ」
そう短く返された言葉に、バーダンは話にならないと言わんばかりに、その場を立ち去ろうとした。
その背に向かってロトルは言った。
「逃げないでよ」
「......。」
いったい少女のどこから、そんな強気な言葉が出るのか。バーダンには理解できなかった。ロトルは親である自身の目から見ても非力な存在だ。何かに秀でているかと言われれば、特筆すべき点は正直に言って無い。
故に何を思って、父の前に立ち塞がるというのか。
バーダンは歩む足を止め、背中越しに言った。
「以前も言ったが、止めたければ力尽くで来い」
「わかったわ」
「っ?!」
瞬間、バーダンの全身の毛が逆立つ。
なにせ今のロトルの返答は......その声は――。
バーダンは振り返った。
「り......あ」
亡き妻の姿がそこにあった。
******
妻は七年前に死んだ。
頭ではわかっているつもりだ。それなのに、まるで幻覚でも見ているかのように、自分の眼の前には愛しの妻が立っていた。
否、【固有錬成:異形投影】によって妻に化けた娘である。
「ろ......ロトルッ!!」
故にバーダンは怒号を上げた。
その声は憤怒そのもの。超えてしまったのだ。娘は決して選んではいけない選択肢を選んで、超えてはならない一線を超えてしまった。
バーダンはリア皇妃の姿と化したロトルへと歩を進めた。
そして手を振り上げ、ロトルの頬を叩いた。
しかしその手に最初は力が込められていたが、ロトルの頬に近づくに連れ、力が失われていったのはバーダンの意図せぬ所である。
ロトルは頬を叩かれても黙っていた。
「如何に娘と言えど、我が妻を......母の姿に化けて余の前に立つのは許さんッ」
父親のこのような顔を見るのは初めてだ。
(初めて......じゃないわね。あの日、私がパパに泣きついたときも、同じ顔をしてたっけ)
思い起こすは七年前の記憶。全てはそこから始まった。幼くして母を失い、王国を恨み、父親に縋りついた頃の記憶だ。思えば、今の父を作ったのは他ならぬ自身であると、ロトルは自身の不甲斐なさに呆れるのであった。
怒られて当然の行為をした自覚はある。同時に、この手段を選んだことは間違いではないと確信していた。
もっと早く母の声を借りるべきであった。
「あなた」
「っ?!」
透き通るような声でロトルは言った。
自分で発した声なのに、その声を聞くと自然と涙を浮かべてしまいそうだった。それでも堪えて、声が震えそうになるのを必死に押し殺した。
「止めぬかッ!!」
妻の声で、生前の声音で――聞きたくて仕方が無かった声を発さないでくれ。
バーダンは胸が張り裂けそうになる思いで、再度、手を振り上げた。
が、その手を振り下ろすことはできなかった。二度も亡き妻に暴力を振るう力が、その男には無かった。
「もう......やめてくれ」
バーダンは振り上げた手を力なく下ろした。
いつになく弱々しい父親の声がロトルの耳に届く。視線を自身から外し、地面へと落とす父に威厳など感じない。表情すら見えない。
だから何を思っているのかなんて、ロトルにはわからなかった。
いいや、“わからない”では駄目だ。思いを聞くべきだ。ロトルはそう思った。
故に踏み込む。一歩前に、父に近づいて――夫の頬に触れる。
「あなた――」
たった一言。それだけ口にすれば良い。それ以外の言葉を続けようものなら、死者の威を借る愚行に等しくなってしまう。
“戦争を止めなさい”――そんな説得、亡き母の声で訴えたら駄目だ。
“もっと自分を大切にしなさい”――そんな慈愛、亡き母の温もりを利用して良い理由にはならない。
だから言葉は選んだ。
選んで、悩み抜いて、言うべきことはこれだけだと思い至った。きっと母なら......大好きな母ならこう言うはずだ。そんな確信があった。
その言葉を、ロトルは――リアは口にする。
「聞かせてください」
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