第183話 皇女の過去 1

 「ママ! 見て! もう少しで帝国領土よ!」

 「こーら。そのように窓から身を出しては落ちてしまいますよ」


 七年前。当時、五歳を迎えたロトルは、母であるリア・ソフィア・ボロンと共に馬車で帰国していた。


 帝国領土と王国領土を結ぶ貿易路はいくつかあり、その中でも陸地において尤も広く、また舗装された道はシルマジ道と呼ばれ、その名称の由来は両国の間にあるシルマジ渓谷が由来していた。


 そのシルマジ渓谷には石造りの橋があり、馬車が三、四台は並行して進めるほどの幅がある。今はロトルが乗る馬車以外に橋を渡る者は居ないため、皇族用の豪華な馬車は道の真ん中を通っていた。


 「ほっほっほっ。リア皇妃の若かりし頃を思い出しますな」

 「あら、宰相。今の私が老けていると?」

 「い、いえ、そんなことは。失敬。言葉を違えました」


 皇妃の冷ややかな視線に怖気づく老体は、ボロン帝国宰相のクハロ・マップーだ。


 小太りで頭部に髪が無い中年男性だが、高身長のため立ち上がると威圧感のある風貌をしている。


 そんな宰相は年相応に、無邪気に燥ぐ帝国皇女を目の当たりにして、思わず失言してしまった。


 皇妃は言及することなく、馬車の窓から見える外の景色を眺める。


 馬車の周りには護衛として帝国の精鋭騎士が八名居た。その中の一人、隊長であるユニージと呼ばれる三十代半ばの男性騎士は、当時の<四法騎士フォーナイツ>の一人だ。


 この場に居る誰よりも屈強な肉体の持ち主であり、男が纏う鎧も他の騎士と比べて上質な鋼で作られている。


 二つ名は<豪雷の化身>。巨躯に見合わぬ素早い動きと、落雷の如く穿つ攻撃がユニージを<四法騎士フォーナイツ>たらしめていた。


 そんなユニージは隊列の先頭に居たが、車内に居る皇妃と宰相に報告をするため、馬の歩む速度を下げていった。


 「ユニージ! 遅れてるわよ! それともお馬さんが疲れたの?」

 「ははは。違いますよ、殿下。ご報告するために足を遅くしたのです」


 意図して馬の足を遅くしたことに、窓から顔を出していたロトルが馬を心配するように聞くが、ユニージはそれを笑顔で問題無いと答えてみせた。


 馬車と並走しつつ、ユニージは真剣な面持ちを作って皇妃と宰相に告げる。


 「もうすぐ橋を渡りきります。渡りきれば帝国領土に入ります」

 「ふふ。それはもうロトルから聞きました」

 「左様ですか。まさか私奴の報告よりも殿下の方が早いとは。このユニージ、殿下の聡明さに感服いたしました」


 ユニージが高らかに笑うと、ロトルは胸を張って誇っていた。


 無論、大人が無邪気な子供を褒めるという行為の範疇に過ぎない。この場に居る誰もがシルマジ渓谷に架けられた橋を渡りきれば、帝国領土内であることを知っている。


 そんな微笑ましい会話から一転、雰囲気を壊すこと無くユニージは語り続ける。


 「この先に休憩地がございます。予定通り、今日はもう少しで日没を迎えますので、そこで野営します」

 「わかりました。では引き続きお願いします」

 「畏まりました」


 そう短く皇妃と言葉を交わすと、ユニージは元の配置に戻るべく、一行の先頭へと馬の足を速めた。


 それを見送りながら、ロトルは溜息混じりに言う。


 「はぁ。また野営なの? いい加減お風呂に入りたいわぁ」

 「帝国領土に入っただけですからね。まだ帝都まで先は長いので仕方ありません。それに今日は水辺付近で休めますから、身を清めることができますよ」


 「ええー。この時期の川は冷たいから嫌〜」

 「まったく。誰に似て我儘に育ったのかしら......」


 皇妃の隣に居る宰相は、またも『リア皇妃の若かりし頃を思い出しますな』と口走ろうとしたが、既の所で思い止まった。


 賢明である。同じことを繰り返しては、皇妃の機嫌を損なってしまう。


 そんな宰相たちが何故、帝国と王国を結ぶ交易路のシルマジ道を通っているのかと言うと、両国間の同盟を築くための会談を、皇妃たちが王国で行っていたからだ。


 この同盟も現段階では名ばかりのもので、両国共に長い歴史の中で戦争を続けてきたのが同盟の締結を渋らせていた。しかしそれは先々代の皇帝までの話であり、先代から帝国は他国との戦争の数を減少させていった。


 現皇帝では、ほぼ皆無と言える平穏な時が続いていた。それを可能とさせたのは、今まで好戦的な姿勢を取り続けてきた帝国が、身を引く形へと体制を変え始めたからである。


 その根本的な思想が戦争に勝利した利益で自国を豊かにするのではなく、他国との共存・協力関係で豊かにする思想へと移行したからだ。


 故にその思想の維持・拡大に向けて、帝国は自国に並ぶ大国の王国との同盟を目前に控えていた。


 しかしそんな帝国でも謙るばかりではない。


 今まで戦争を繰り返してきた国家を統べていた皇帝が、他国にいきなり赴くことはなく、その前段階として、皇族である皇妃及び宰相が会談をするため王国へ向かった。


 これにより、一定の身分の示しだけではなく、皇族と国の重鎮を向かわせるという一種の信頼を示すことができたのである。


 「はぁ......」

 「ふふ。嫌だったら、陛下とお留守番するべきでしたね」


 馬車の中で大人しくできないのか、外を眺めて溜息を吐くロトルを見た皇妃は、幼い我が子に優しげな笑みを浮かべながらそう言った。


 誰がどう見ても子供であるロトルは、母親に子供扱いされたことを遺憾に思い、声を荒らげる。


 「い、嫌じゃないもん! ただちょっと退屈に思っただけ!」


 金色の長髪を揺らしながら、少女は母親にそう訴えた。


 母親は茶色の髪で自身の髪の色とは違うが、ロトルの瞳の色は母親譲りに紅色だ。透き通るような彼女の瞳は、ルビーと称されても過剰ではない程に綺麗な色をしている。


 「ロトル殿下。退屈でしたら、私と一緒にお勉強でも――」


 宰相が親子の会話に割って入り、馬車の中で座学を始めようと自国の情勢が載っ一冊の分厚い本を取り出した。


 その時、


 「んなつまんねーもん、退屈凌ぎにもなんねーよ」

 「「「っ?!」」」


 突如、全身鎧姿の何者かが、どこからとなくロトルの隣に現れた。


 男は二十代後半の顔立ちで、頭部だけは武装していないといった風貌である。武器らしい武器は所持していない。


 しかしそのただならぬ雰囲気が、目の前に現れた男を一介の騎士には思わせなかった。


 張り詰めた空気の中、男はにたりと余裕の笑みを浮かべて言う。


 「よ。ちょっくら飛ぶか、死ぬか......選んでくれや」

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