第479話 崩れた決意

 ちょっと痛い。

 もうちょっとムードのある感じで歩いてくると思っただけに、完全に油断した。

 壁には一本の槍が刺さって、ビイィィィンと不快な音を立てて揺れている。あれを召喚して、その勢いで俺の胸に頭からダイブして来たのだ。ミサイルかこいつは。

 だが文句を言う前に――、


「クロノス様? クロノス様なんですよね? 緑川みどりかわに聞いてきました。確かに面影があります。本物なんですよね?」


 そういって黒瀬川くろせがわの方を向くが、彼女は巻き込まれないように素早く離れると、のんびりとキセルを吸い始めた。

 これは一度や二度じゃないな。手慣れてやがる。

 というかこの場所を教えたのは緑川あいつか。あの馬鹿野郎。話がややこしくなるだろうが。


「本当にクロノスさんの事になると見境みさかいがありませんなあ」


「他に誰もいないのだから、取り繕う意味はない」


「全く。本人に聞いて自分で判断しなさいな」


 そう言って、全裸のまま椅子に座る。ちょっと楽しそうだ。というか本当に楽しんでいるな。

 フランソワは既にこちらを見つめている。

 敵意は無い。真摯な瞳だ。幾度もこんな彼女を見た。

 まあ、隠すつもりはどちらにしろ無いし――、


「そうだよ、フランソワ。俺がクロノスだ。もっとも、こっちの姿で会うのは初めてだな。」


 正確には違うけどね。以前成瀬敬一なるせけいいちとして出会った時には本気で殺されかけたし。

 でもそれは、まだ彼女が知らない未来の話だ。


「そのお声。話し方。それに感じるスキルの雰囲気で分かります。ああ、クロノス様……クロノス様あ!」


 彼女にも話したい事や聞いてみたい事があったが、どうやら今は無理の様だ。

 なにせ、彼女は寝ている俺の上でわんわん泣いているのだから。


 確かに知っているけど、正確には俺の知らない彼女。

 龍平りゅうへいが言うには、教官組の一人で熱心なクロノス信者だったそうだ。

 だけど今のクロノスは違う人間だ。それを知らなかったとは思えない。

 今があの世界だと考えた時に、当然ながら教官組がどう動くかは気になるところだった。

 その中でも、彼女は特にそうだ。

 前の俺に忠誠を誓っていたのか、みやに対してなのか、それともクロノスという立場自体へなのか。

 だけど、この涙は彼女の本当の気持ちがあふれたものなのだろうか。だとしたら……。


「消えてしまってごめん。待たせてしまってすまなかった。俺は……戻って来たよ」


 そう言って、彼女の細い体を抱きしめる。

 なんだかいい香りがする。これは湯上りと香水かな?

 少なくとも、彼女は敵ではない。


「クロノス様。やっぱりクロノス様なんですね」


「ああ、そうだ。君の知る俺とは少し変わってしまったけどな。というより、今はまだ成瀬敬一なるせけいいちだよ」


「いいえ、いいえ……そんな事はささいな事です。それに――」


「それに?」


「見た目の齢が近くなりましたね」


 そう言って、まだ涙を流しながらも微笑んだ彼女の全てが、たまらなく愛おしくお感じた。

 いやでもだからと言って、以前の様には――なんて考えている間に騎上位のままさっさと服を脱ぎ始めているし。


「いや待て落ち着けフランソワ。今は黒瀬川くろせがわと大事な話し中でな」


「いやいや、見事なたらしっぷりに感心いたしましたわ。さすがはクロノスさんですなあ」


 頼むから話をややこしくしないで。


「いつもの事でございます。毎晩のように何人もの女性の相手をしながらも、執務はしっかりとこなしていらっしゃったではありませんか。あたしは全く気にしません」


 え、そうなの? と黒瀬川くろせがわを見ると、煙を吐きながら無言でコクリと頷いた。

 俺の馬鹿―!


「さあ、準備は出来ております。どうぞご自由にお使いください」


 おそるおそるフランソワを見ると、もう完全に全部脱いで臨戦態勢ですよ。

 もうこれどうすりゃいいの!?

 今はとにかく思考に集中したい。警戒もまだ怠るわけにはいかないし、黒瀬川くろせがわとの話も途中だ。

 なにより俺の鋼の意志が、音を立てて破壊されていくのが分かる。助けて奈々なな

 とにかく一度落ちくために黒瀬川くろせがわに目だけでヘルプを求めるが、ゴキっという音と共に無理矢理フランソワの方向に頭を戻される。


「どうかしたしましたか? 何か粗相でもございましたでしょうか? もしそうでしたら‥‥‥わたし……あたしは……」


 もうどうしたらいいの。


「さて、そろそろ第2ラウンドと行きましょうか。先はフランソワでいいでしょ。ウチは寛大ですからなあ」


 まだ第1ラウンドも始まってねえ!

 こいつ絶対に状況を楽しんでいるだろう!

 いや、それ以前にフランソワの来訪を好機とさえ考えているな。

 もしかしたら緑川みどりかわと結託して図ったんじゃないかとも勘ぐってしまうが、さすがにそれは考えすぎか。

 しかし困った。高校生の若い体はクロノス時代とは桁違いに反応する。

 こ、このまでは。


「クロノス様……」


 フランソワの熱い吐息が迫る。

 初めて彼女と致した時がフラッシュバックする。

 更に横には、また黒瀬川くろせがわが潜り込んできた。

 もうだめだー!





 ★     ☆     ★





 いや、言い訳をさせてくれ。

 この状況を前クロノスが作ったとするなら、今はそれに素直に従うべきだろう。

 たとえ小さなほころびでも、それを放置したら最悪の結果が待っている事を俺は知っている。

 だからそう。これはこれからの話し合いを円滑にするために、避けてはいけない道だったんだ。


 両手にしがみつく黒瀬川くろせがわとフランソワを見ながら、俺はそんな事を考えていた。

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