キンモクセイ

@toko4649

第1話(完結)

キンモクセイ

                                井関 七十七

 昔から俺はそそっかしかった。隣の家から伸びている柿をとろうとブロック塀に乗ったまではいいが、足を滑らせてケツをしこたま打ち付けた。おかげで、二週間教室の椅子に座ることができず、サルというありがたくないあだ名をもらった。初めてのデートでは、カッコよくバイクの急ブレーキをかけて、待ってる彼女の前で寸止めしようとしたのに、そのままスリップして突っ込み大ケガさせちまった。

 今だって、そう。俺は、ただ、キンモクセイの匂いを嗅ごうとしただけ。上の方に花が集まってるからといって、隣にある井戸の蓋に乗ったのが運の尽き。コンクリートでできてるから、まさかこれが抜けるなんて思いもしない。もう一つ、尽いてないことがある。井戸が案外深く、自力で出られそうもないことだ。さっきから大声出して助けを求めてるけど、井戸の中を覗く物好きはいない。清秋寺近くの蕎麦屋のオヤジが気づくという期待はあったが、もうこの時間だ。店を閉めて帰ってるだろう。近所の民家の人が聞いたら、お化けが騒いでると思うのが関の山だ。わざわざ本堂近くの井戸を覗く恐いもの知らずなんて、誰が考えたっているはずがない。時間ははっきり分からないが、そろそろ夜中近いのかも知れない。

 やがて、決定的なピンチがやってきた。腰までしかなかった水が、胸の高さまで来たことだ。朝になれば誰かが通るかも知れない。だが、その頃には、間違いなく俺はお陀仏だ。胸までだった水が、首を浸しはじめた。このままでは死んでしまう。井戸の壁に爪を立てた。助かるなら、爪が全部剥がれるくらい、何てことはない。だが、体は一ミリも上に行かない。ああ、俺はこんなところで、キンモクセイを嗅ぎたかったばかりに死んでしまうのか。諦めにも似た気持ちが胸中を支配していたが、自分でも不思議なのは思ったほど焦りがないことだった。今までも、何とかなってきた。きっと、今度も平気だろう。妙な自信があるのは、この年まで風来坊のような生き方をしてきたせいかも知れない。

 そうは言っても、冷静に考えると間違いなく死は間近に迫っていた。明日の朝刊で、

『井戸の中で不可解な死体』

なんて見出しが躍るのは、もはや時間の問題だろう。だが、小さなころから遊ばせてもらってきた清秋寺だ。俺の死体で神聖な井戸を汚すなんてことは、絶対にあっちゃならねえ。もう一度ありったけの声で叫んでみたが、蕎麦屋の方面から足音が近づく気配はない。

 さすがの俺も、いい加減に焦ってきた。冷や汗が額を流れ落ちるなんてもんじゃねえ。井戸水の中に、小便をちびったのが分かる。罪悪感も快感もない。壁に立てる爪はもう残っていない。声を出す気力もない。これが、俺の運命なんだ。まあ、あまり苦しまない程度にしてくれ。顎に水が届くのを感じたとき…誰かが上から覗き込んだような気がした。死を目前にして幻覚を見たのだろうと思ったが、念のために声を掛けてみた。

「おい。誰か、いるのか?」

返事をする代わりに、若い女性が顔を覗かせた。ああ。誰かが来てくれたのなら、もう助かったも同然だ。年のころは二十後半だろうか。白いワンピースが目に眩しかった。キンモクセイの化身かと思ったが、それならば黄色い服で登場するところだ。そんなことを考える余裕があるなんて、俺もまだまだ捨てたもんじゃない。

「おい。近くで棒かなんか探して、俺を引っ張ってくれ」

彼女の顔が入り口から消えると、すぐに棒を持ってあらわれた。棒は、簡単に俺まで届いた。だが、その後がいけない。彼女の力がなさすぎて、俺を引っ張るどころか、反対に井戸に落ちてしまいそうだ。そうなったら、誰が見ても心中だ。こんなに可愛い娘ならいいか。一瞬そう思ったが、俺もそこまですたれちゃいねえ。

「分かったよ。棒は、もういい。それより、近くの家から誰か男を連れてきてくれ」

返事の代わりに円らな瞳をくりくりさせると、彼女の顔が再び入り口から消えた。もうみんな寝入った時間だとしても、井戸に人が落っこちたとなれば、すぐさま人が集まるだろうよ。高をくくっていたが、誰もやって来ない。水は顎の高さを超え、唇のところにやってきた。おい、何やってるんだよ。思うと同時に、彼女が顔を覗かせた。

「おい。誰か連れてきたんだろ。早く助けてくれよ」

何も言わないが、悲しげな表情から、一人で戻ってきたことが分かる。ほら、俺が死んだら悲しいだろう。もう一度、呼びに行ってくれって言ってるのに。どうも、彼女には俺の話が通じないらしい。彼女の瞳から涙がぽたぽたと流れ落ち、水面を弾く音がする。そんなに悲しいんなら、本当に頼むよ。時間がないんだ。上を向いていないと、唇が水に浸かってしまう。刹那、何を思ったのか、突然手を伸ばしてきた。

「おい、何をやってるんだよ。棒で無理だったんだ。お前の細っこい手で俺を引っ張れるわけねえだろっ」

言ってはみたが、素直に言うことを聞く様子がない。今にも体ごと落ちそうなくらい、精いっぱい右手を伸ばそうとしてくる。そろそろ、いけない。水面が揺れるたび、唇を塞ぐ高さにまで上がってきた。

「分かった。もう、いい。誰も呼びに行かなくて、いい。今から行ったって、もう間に合うもんじゃねえ。それから、手を伸ばすのも止めな。死ぬのは、俺一人で、いい。そもそも、関係のない人を巻き込む方が問題だ」

最後の台詞は怒った口調になっていたはずだが、彼女は手を伸ばすのを止めない。

「おい。いい加減にしろ。お前も死にてえのか」

大きく首を横に振ったところを見ると、俺と心中するつもりはないらしい。それでも、何とか俺に届かせようと右手を伸ばしてくる。

「分かったよ。俺の負けだ。ただよお…ただ、手をつなくだけだぜ。間違っても、俺はお前さんの手は引かねえ。それが男ってもんだ」

俺は彼女の手を強く握った。これでもかというほど、強く握った。間違って少しでも手前に引かないよう、十分に注意した。気づくと、水面が完全に唇を超え、鼻を塞ごうとしていた。本当なら苦しいはずなのに、俺はちっとも怖くなかった。彼女が慟哭していたからかも知れない。見知らぬ人間が死ぬっていうのに、こんな可愛い娘が泣いてくれる。こんなこと、今まであっただろうか。だいたい、俺の知り合いだって、こんな人情に厚い奴はいねえ。水面の上昇が止まれば、この娘の顔をもっと見られる。ところがどっこい、大切なときに、水が目の位置まで来やがった。だんだんと見えなくなる。彼女の顔が見えなくなる。死ぬって分かっても俺は平気だったのに、無性に泣きたくなってきた。何も苦しいからじゃねえ。彼女に会えなくなるからだ。手はまだひたと握られている。でも、それもあとわずかな時間だ。俺は最後の力を振り絞って、彼女に呼び掛けた。どんな声なんだろう。聞きたくて聞きたくて、仕方なかった。

「ありがとなー」

「私こそ、ありがとう」

あれっ、彼女の声じゃねえか。思った通り、可愛い声だ。だけど、もういけねえ。何も喋れねえ。体はまだ元気だけどな。この手だけは、手だけは、絶対に離さねえ。離さねえけど、間違っても引っ張らねえよ。あんたに恋しちまったようだからな。


「足立さん。何やってるの。心電の波形が止まってるじゃない。アラームもずっと鳴りっぱなし。どうしたの。その手を離しなさい。ドクター。ドクターを呼んできて」

看護師長の切羽詰まった声が病室に響いたが、彼女は手を離そうとしなかった。廊下を慌てて走ってくる足音が聞こえる。

「先生。お願いします」

師長に促されて存命を確認したが、大きく首を横に振った。老人の死を告げる臨終宣告がなされ、一瞬の黙とうを行った。

「足立さん。ねえ、足立さん。あなた、しっかりして。あなたがちゃんと対応していれば、この人助かったかも知れないのに…。ねえ、先生」

ドクターに同意を求めたが、返ってきたのは予期せぬ言葉だった。

「足立さんを擁護するわけではないけど…。延命措置を施しても、無理だったと思います。それより、見てください。田中さんの満ち足りた笑顔を。きっと、足立さんがずっと手を握っていてあげたからなんでしょう」

彼女はその言葉でようやく平常心を取り戻していた。そして、誰に対してということなく、呟いていた。

「田中さん。末期で相当な痛みがあったはずなのに…。一度だって痛いって言わなかったんです。ナースコールを鳴らすこともなく…。本当に、カッコいい人でした」

そう言うと、はじめて紅涙を絞った。窓の外では、清秋寺のキンモクセイが月光に照らされ、神々しいばかりの輝きをはなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キンモクセイ @toko4649

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ