嘘と願いと雪に眠る

しましま

人生最期の嘘

 今日も彼女といっぱい話をして、いっぱい笑った。

 こんな日も今日で最後だと思うと、とても悲しくなる。


「……おやすみ」


 眠りについた彼女の額にそっとキスをして、僕は病室を後にした。

 薄暗い廊下を歩き病院を抜け出て、肌を刺すような寒さの中に佇む。


 例年以上の寒波に見舞われ、珍しく降った雪に道路が白く染まっていた。今日はクリスマスイブ。雪が降っているから、ホワイトクリスマスイブだろうか。

 冷えた手のひらを吐息で温めながら、僕はしみじみと雪を降らせる黒い空を眺め続けた。



 ちょうど一年前のこの日も、今日と同じように特別寒い日だったことを覚えている。


 君と二人、手を繋いで歩いたイブの夜。

 珍しく降った雪にはしゃぐ君と、イルミネーションに包まれた街の大通りで、大きなクリスマスツリーを見上げて笑い合った。


 きっと来年も、そして再来年もその先もずっと……。

 願わくば、この雪が二人の未来を祝福するものとなりますように。



 普通に生活ができれば良い。彼女と二人で、ずっと一緒に。

 そんな当たり前のこと、当たり前に叶うものだと思っていた。


 でも、違った。


 あの日の晩、サンタクロースが持ってきたのは、途絶えることのない絶望の始まりだった。



 バタンッーー。


 大きな音に起こされ、目を擦りながら立ち上がった。

 風で何かが倒れただけだと思った。窓も開いてないのに、寝ぼけた頭では何も考えず、電気のスイッチに手を伸ばした。


 言葉を失った。


 心を穿つような衝撃に眠気は消し飛び、次の瞬間、僕はただひたすらに彼女の名を叫んでいた。

 さっきまであんなに元気だった彼女が、血を吐いて倒れていたのだ。我を失い、叫び、叫び、叫んだ。叫び続けた。

 でも、どんなに呼んでも答えてくれない。目と口は閉じたまま、身体は僕にもたれるだけで力を感じない。ピクリとすら動かなかった。


 僕は泣きながら彼女を抱きしめた。

 互いの身体が隙間なく重なるくらいに強く、彼女に届くように声を出して泣きながら。


 その時、ほんの僅かに感じたのだ。

 彼女の心臓が力なく鳴らす生命の音を。


 その小さな音が、あまりに突然の出来事に我を失っていた僕を現実に引き戻した。

 僕は急いで夜間対応をしている病院に電話し、彼女の手を強く握りしめながら、救急車が来るのを待った。


 数分後、駆けつけた救急隊員に事情を話し、彼女は病院へと運ばれた。僕はその間もずっと彼女の手を握り続け、病院に着いてからは、待合席に座ってひたすら祈っていた。

 

 やがて、医師が僕の元に現れた。

 マスク越しでも分かる深刻な表情で、重要なお話がありますとだけ告げ、僕を奥の医務室へと連れて行った。


 医師は彼女の身体をスキャンした画像を見せながら、病名と状況について詳しく話をしてくれた。

 気が気でなかった僕に理解できたのは、彼女が患っているのは心臓の病気であり、薬などで簡単に治せるものではないということだけだった。

 そして、医師は絶望の淵にいる僕に、更なる現実を叩きつけた。


 彼女にどれだけの時間が残されているのか分からない。

 良くて一年。もしかしたら、このまま二度と……。


 僕の耳は聞くことを拒んだ。

 さっきまであんなに元気に走り回ってたのに、突然すぎる。どうしても現実が受け入れられなかった。


 助かる方法はないのか。

 縋る思いで聞く僕に、医師は申し訳なさそうな表情を浮かべて首を横に振った。


 理由は明白だった。

 ドナーがいないのだ。心臓移植に必要なのは、活動停止して間もない新鮮な心臓だ。数が少ないことはもとより、あったとしてもより急を要する患者に使われるはずなのである。

 


 ただ願うことしかできない僕は、その日の夜は一睡もせず、ずっと彼女の手を握り締め、その目覚めを待ち続けた。


 やがて朝になり、降り積もった雪が溶け始めた頃、握っていた彼女の手がピクリと動いた。

 僕は必死になって彼女に呼びかけながら、その手を強く握り返した。


 彼女の瞼が開いたとき、僕は奇跡が起こったと思った。

 子供のように泣きじゃくる僕を見て、彼女はほんのりと笑みを見せた。


「ずっと一緒にいてくれたんだね。ありがとう」


 僕の頭を軽く引き寄せ、ポンポンと優しく撫でてくれた。

 止まることを知らない感情が涙となって溢れ出た。



 その日を境に、彼女は以前にも増して元気になっていった。

 しかし、状況は一切として変わっていない。今も彼女の身体は病に侵されているのだ。


 僕はその真実を彼女に伝えなかった。


 彼女と共に過ごせる時間は長くて一年。

 僕は彼女の望むままに、彼女を色々な場所に連れていった。


 春は花見をして、遊園地に行った。

 夏は川に海にお祭りに、手を繋いで花火を眺めた。

 秋には紅葉狩りやお月見をした。


 彼女の行きたいところへ行き、彼女のしたいことをして、とても充実した時間だったと思う。

 毎日のように彼女の笑顔を見ることができて、僕は幸せだった。

 そんな僕に、いつも彼女は必ず言うのだ。


 ありがとう。


 いろんな所に連れて行ってくれてありがとう。

 いつも一緒に居てくれてありがとう。

 手を離さないでくれてありがとう。

 私を選んでくれてありがとう。


 ありがとうと言う君の表情は、いつだって幸せに満ちていた。

 だからこそ、僕は心の中で叫んだ。


 ごめん。


 全部を知っている僕と、何も知らない君。

 罪悪感と絶望感に心が張り裂けそうなほど苦しかった。

 君からありがとうという言葉と笑顔を貰うたびに、僕は必死に作った偽りの笑顔を君に返すのだ。


 だから、ごめん。




 今年も去年と同じように冬が来て、彼女の体調が急に悪化した。

 とうとう彼女と過ごせる時間も残りわずかとなったということだ。


 クリスマスイブの前日。医師の余命宣告が嘘でないということが僕に突きつけられた。

 突然倒れる君。鳴り響く救急車のサイレン。込み上げる絶望感。


 あの日から一年。ドナーは現れなかった。


 不幸中の幸いか、あの時と同じで、翌朝に彼女は目覚めた。でも、あの時とは違って、弱っているのが目に見えて分かるほどに気力を感じなかった。

 ベッドに寝転ぶ彼女は、未だに真実を知らない。それでも、自分がどれだけ深刻な状態なのかは薄々感じ取ってるようだった。


「私、このまま死んじゃうのかな?」


 冗談のつもりなのか、彼女は小さく笑いながらそんなことを口にした。

 冗談でもそんなことは言わないで欲しい。

 そう伝えると、彼女はいつかの時のように僕の頭をポンポンと優しく撫でてくれた。


「君は死なないよ」


 それが精一杯の言葉だった。

 彼女はその言葉に、精一杯の笑みを返してくれた。


「もしもこの病気が治ったらさ……私と結婚……してくれる?」


 驚くよりも喜ぶよりも、ただ悲しかった。

 彼女と一緒に居られる最後の時間。

 彼女につく最後の嘘。


「…………うん……結婚しよう……」


 今までで一番の笑顔を見せた彼女に、僕は申し訳なくて、申し訳なくて……。

 ひたすら、心の中でごめんと繰り返した。





 降る雪を月明かりが照らし、幻想的な世界に僕は佇む。

 その片手にはメモ帳の切れ端を、もう片方の手にはナイフを持って。


 君は死なない。死なせはしない。

 僕は誓ったから。この生命に代えても君のことを守る、と。


 僕に幸せな時間をくれてありがとう。

 君と一緒にいられた数年は僕の宝物だ。


 そして、ごめん。ずっと、ごめん。

 最後の最後まで嘘ばかりで、ごめん。



 激痛の果てに意識は薄れ、視界が歪んでいく。

 それでも手につかんだ紙切れだけは握りしめて、真紅に染まりゆく雪の上に倒れた。


 真冬の寒さと降り頻る雪よ。どうかこの身を朽ちさせないでほしい。

 そして願わくば、この雪が彼女の未来を祝福するものとなりますように。


『この生命を彼女へ』


 たった一言を握りしめて、僕は雪の中で深い眠りについた。






 数年の月日が流れ、時はクリスマスイブ。

 親子は手を繋ぎ、イルミネーションに彩られた街の中、大きなクリスマスツリーを見つめていた。


「ーーねえ、ママ。わたしのパパってどんな人だったの?」


 少女が聞くと、母親はほんのりと微笑み、答えた。


「パパはね、とっても真面目で、とっても優しくて、とっても不器用で……とっても嘘が下手な人だったよ」


 胸の辺りをさすりながら、物憂げな瞳でクリスマスツリーを見つめるその横顔には、薄っすらと細い涙が流れていた。

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嘘と願いと雪に眠る しましま @hawk_tana

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