ぼたんの花
桃本もも
ぼたんの花
朝、時間割を見ながらランドセルに教科書をつめていると、ドアのすきまからおばあちゃんがのぞきこんでくる。
「リョウくん、忘れ物はないかい?」
ぼくは返事をせずに、着替えに取りかかる。お気に入りの青いTシャツが着たいのに、こういうときに限って洗濯中みたいだ。
「ハンカチは持ったかい? ティッシュも忘れていないかい?」
ぼくは「はあっ」とため息をつき、ハンカチとティッシュを短パンのポケットにつっこんだ。ランドセルをハンマー投げみたいに勢いよく背負うと、おばあちゃんは少し後ずさった。
部屋を出ていこうとしたとき、おばあちゃんが背中に隠すように何かを持っているのが見えた。
深い赤色の大きな花だ。春と夏、どっちつかずのこの時期になると、毎年庭にぼんぼんとたくさん咲くのだ。
「リョウくん、これ、庭で咲いたんですって、学校に持っていったら? 教室にかざったらとてもきれいよ」
ぼくは特大のため息をついて、花を押し返した。
「いらないよ。学校に花を持っていくなんて、意味わかんねー」
「ああ……そうだよね。花瓶がなくって先生を困らせても悪いしねぇ」
おばあちゃんは、玄関に向かうぼくのあとをすり足で追ってくる。スニーカーに足をつっこみ、かかとを踏みつぶしたままドアを開けた。
「行ってらっしゃい。ああ、そうだ。今日は夕立が降るかもしれないから、傘を持っていきなさい」
外はまぶしいくらいの晴れ模様で、道路に落ちた影の輪郭はくっきりとしている。雨なんてひと粒も降りそうにない。
ぼくは小さな声で「行ってきます」と言い、もちろん傘も持たずに家を飛び出した。ドアが閉まる直前、「リョウくん」と呼び止める声が聞こえたが、追いかけてくることはなかった。
最近、おばあちゃんが言うことにいちいちムッとしてしまう。
お父さんもお母さんも、仕事でぼくより早く家を出るから、見送ってくれるのはおばあちゃんだけだ。もし忘れ物をしたとしても、車にも自転車にも乗れないおばあちゃんは、学校まで届けられない。
だから、心配して口うるさくなってしまうのかもしれないけれど、ぼくだってもう四年生だ。学校の準備くらい、ひとりだって完璧にできる。
昔は、近所の人に「リョウくんはおばあちゃんっ子ねぇ」と言われると何だか誇らしく思っていたけれど、今同じことを言われたら恥ずかしくて逃げたくなるだろう。
あんな花、持ってったところでだれが喜ぶっていうんだ。
ぼくは石ころを蹴りながら、うつむきがちに通学路を歩いた。
問題がむずかしくてわからなかったり、上の空でぼんやりしているうちに午前中の授業は終わっていた。
昼休みには、校庭でサッカーをした。子育て中のツバメは、地面すれすれを飛びながら、一生懸命エサを集めているようだった。
雲行きが怪しくなってきたのは、五時間目が半分過ぎたころだった。
いつの間にか灰色の雲が広がってきて、見え隠れしていた太陽が、ついに完全におおわれてしまったのだ。
まもなく、校庭に水玉模様ができはじめた。水玉はどんどん増え、さらには水たまりができていった。
帰りの会が終わっても、雨が止む気配はなかった。
ちゃんと傘を持ってきていたり、ロッカーに折りたたみ傘を常備してる子たちは余裕な顔で帰っていく。
ぼくはひとり、昇降口の屋根の下で途方に暮れていた。
ちょっと待ったところで止むような雨じゃなさそうだ。走って帰れば十五分。もはや、今すぐびしょ濡れになるか、先延ばしにするかの違いしかない。
覚悟を決め、深呼吸をし、プールに飛びこむみたいに雨の中へ駆け出した。
雨足は強く、すぐに顔がびしゃびしゃになった。シャツが腕に張りついて気持ち悪い。スニーカーの中はまだ無事だけど、帰り着くころにはどうせ水びたしだろう。水たまりも気にせず踏み散らかして、とにかく速く走ることに集中した。
いくつもの傘を追い越して、ひそめた笑い声も背に浴びて、やっと大通りに出たところで信号に引っかかった。ワイパーをしゃかしゃか動かす車が、魚の群れのように通り過ぎていく。
もうすっかり濡れたシャツのそでで顔をぬぐい、ふと横断歩道の向こう側に目をやると、見覚えのある赤い傘があるのに気づいた。差しているのはおばあちゃんだった。もう片方の手には、ぼくの青い傘を持っている。
何でおばあちゃんが?
わざわざ傘を届けに?
道路側の信号が黄色から赤に変わったらしい。車の流れが途切れ、見通しがよくなる。
おばあちゃんもぼくに気づいたみたいだ。青い傘をちょっと持ち上げ、ほほえんだ。
心の中にあったトゲトゲしたものが、とけて丸くなったような気がした。どうしてそんなトゲトゲが生まれたのか、それともぼくが作ったものだったのか……。よくわからなかった。
歩道の信号が青に変わった瞬間、ぼくは全速力で駆け出した。おばあちゃんは一歩足を踏み出したが、ぼくがもう半分まで渡っていたのに気づいたのか、すぐに足を引っこめた。
「おかえり」
おばあちゃんが差し出す傘を、ぼくはなかなか受け取れなかった。
「ごめんね、わたしがもうちょっと早く出ていたら、こんなに濡れなかったのに。昔は家から学校まで三十分もかからなかったのにねぇ」
ぼくが低学年のころ、おばあちゃんはよく学校の前まで迎えにきてくれた。荷物を半分持って、ぼくの歩みにあわせてゆっくりと歩いてくれた。そのころ、ぼくはおばあちゃんを見上げていた。「いつ抜かされるだろうね」と、おばあちゃんはなぜか嬉しそうに言っていた。
「リョウくん、早く傘をさして。帰ったらすぐお風呂に入りなさいね」
今、ぼくとおばあちゃんはほとんど同じ身長だ。ぼくはかなり伸び、おばあちゃんはちょっと縮んだ。
ぼくは傘を受け取り、開いた。もう取り返しがつかないほどびしょ濡れなのに、今さら傘を差しているのが少しおかしかった。
「おばあちゃん、雨降るってよくわかってたね。朝あんなに晴れてたのに」
「よくわかったねって、天気予報でやってたんだもの」
おばあちゃんの歩みにあわせて、ぼくはゆっくり歩いた。水びたしのスニーカーが、ピューピューと水を吹いている。
「ねぇ、おばあちゃん」
「なあに?」
「朝のあの花、何ていう名前なの?」
「ぼたんっていうのよ」
「ぼたん……あれって、まだ咲いてる?」
おばあちゃんはぼくの顔をしげしげと眺め、少し首をかしげた。
「咲いてるよ。庭にたくさん」
「明日、学校に持ってこうかな。たぶん、みんな喜ぶし」
おばあちゃんは嬉しそうにほほえんだ。少しだけ、おばあちゃんの足取りが軽くなったような気がした。
ぼたんの花 桃本もも @momomomo1001
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