第164話 幕間:もう一つの未来
俺こと新浜心一郎は二十五歳の社畜だった。
オタクで根暗だった学生時代を経て地獄のようなブラック企業へと就職してしまい、毎日精神と寿命をガリガリと摩滅させる生活を七年も続けた底辺男だ。
そう、ほんの二ヶ月前まではそのはずだったのだが――
(なんでこんな事になっているんだっけ……?)
「あ、新浜君、このカルパッチョ美味しいですよ! 白ワインが進んじゃいます!」
「紫条院さん……ちょっとペース早くないか?」
仕事帰りの人で賑わう夕方の居酒屋で、俺の正面に座る超絶的な美人は上機嫌で
グラスを傾けていた。
長くて艶やかな髪と星の輝きのような瞳を持ち、街を歩けば多くの男性が振り返る美貌の女神――紫条院春華。
名家の生まれてで実家も大金持ちという貴族的な女性であり、いくら高校時代のクラスメイトと言っても本来ド庶民かつ凡人の俺がおいそれとお近づきになれる女性ではない。
そんな彼女と、俺は今二人っきりで飲みにきている。
そしてこれは初めてのことという訳でもない。
(いや、こうなった経緯は全部思い出せるんだよ。ただその時の俺がどうしてあそこまで出来たのかが自分でもさっぱりすぎる……)
そう、俺はここに至るまでの自分の行動を全部覚えている。
発端は、ある日俺の中に灼熱のような意思が宿ったことだった。
その心臓にエンジンを宿したかのような熱量は俺に無敵モードをもたらし、あれだけ辞める勇気を持てなかったゴミ会社に、即日辞表を叩きつけるという行動に走らせた。
のみならず、退職を契機として疎遠になっていた家族とも自分から連絡を取り、関係を修復したのだ。
(この間実家に帰ったら母さんは涙を流して俺のブラック脱却を喜んでくれたな……。妹の香奈子は未だに俺を厳しい目で見てるけど、たまに話くらいはしてくれるようになったし以前とは雲泥の差だ)
ここまでだけでも自分が為した事とは信じがたいが、その後の行動はさらに普段の俺の思考回路ではありえないものだった。
ふとした事から紫条院さんと再会し、俺は彼女の表情から職場で苛烈な精神的苦痛を受けているのだと察して会社を辞めるように説得を開始した。
紫条院さんは頑なな様子だったが、それでも俺はあきらめずにとうとう説得に成功。彼女を壮絶なイジメから遠ざける事ができたのだが――
(高校時代はろくに話もできなかった紫条院さんを再会したその日にお酒に誘うとか、俺はどんだけチャラ男だ? しかも何でも俺はあんな命がけみたいな勢いで紫条院さんが辞職するように説得したんだ??)
あの時の焦燥感、悲壮感、必死の思い――そういった感情の色は覚えているが、自分が何を考えてあそこまで突っ走ったのかが記憶から消滅している。
流石に不気味だったので念のため脳の病院にも行ってみたが至って健康。結局、俺に何が起こったのかは謎のままである。
(……まあ、いっか。突然湧いてきた心のエネルギーが何だったのかはわからないけど、あれは間違いなく俺の意思に基づいた行動だったんだから)
紫条院さんを標的としたイジメの実態を知れば、今の俺でもすぐに会社を辞めてくれと切望するだろう。
強いストレスは容易に人間を破壊することを俺はよく知っているからだ。
(けど、俺は絶対にそんな本音を言えない。紫条院さんの状況を知っていても、ウザがられたり嫌われたりすることを怖れて何も行動できなかったろう。……本来ならな)
だが、胸に宿った烈火が俺を強引に突き動かした結果、紫条院さんは俺の目の前で笑っている。自分を縛っていた鎖から解き放たれかのように、あの頃と同じ快活な笑みを浮かべているのだ。
「いやもう本当に前の職場を辞めてから心が軽いですね! 羽根が生えて空を飛べてしまいそうな気分です!」
「ああ、それは超わかる。俺もあの強制労働所みたいなところから脱出したら、気分がすっごく軽いしモノクロだった世界が突然にカラーになったみたいに鮮明になったよ」
「そうなんです! 感受性とか余裕が復活してるのか、何もかもが輝いて見えて、食べ物やお酒も格段に美味しく感じるんですよ! あ、店員さん! 次はカシスオレンジをお願いします!」
アルコールで頬がうっすらと赤くなった紫条院さんは、リラックスしきった様子で朗らかに笑っている。
そこには、二ヶ月前にあった陰鬱な気配は微塵もない。
(良かった……本当に良かった……)
紫条院さんと再会したその時、高校時代に憧れていた少女が陰鬱な顔で社会を生きる様に、俺は激しい悲嘆と憤りを覚えた。
紆余曲折を経た今、心を潰す重荷を取り払った紫条院さんはあの時とは違う自然な笑みを見せており、そのたびに俺は心から救われたような気分になる。
ああ、そうだ。この綺麗な人は、こうあるべきなんだ。
「しかしまあ、本当に人生って何があるのかわからないよな……俺が千秋楽書店みたいな大会社に入れるなんて夢にも思ってなかったよ」
「ふふ、私たち、いまや同僚ですもんね」
ここ二ヶ月の急激な状況に変化を反芻し、俺はビールを一口呷った。
あの臨海公園で春華への説得に成功したあの日の後――
俺達はチャットアプリの連絡先を交換して、その後もたびたび連絡を取り合っていた。
その最中で知った事なのだが、あの後間もなく紫条院さんは両親に職場で起こっていたことを話し、すぐに職を辞した。
そして、紫条院さんの父親である千秋楽書店社長の紫条院時宗氏は、娘が凄惨なイジメに遭っていたという事実に激怒などという言葉では生ぬるいほどにキレていたらしい。
なんでも腕利きの弁護士やらを急遽手配していたということらしいから、諸悪の根源たるそのイジメグループは社会的にとてつもない代償を支払う事になるのだろう。
(まあ正直、俺個人としては『完膚なきまで徹底的にやってください!!』という感想しかないな)
自分が気に入らないなどという理由で他人の心を殺しにかかるような連中は、二度と日の目を見ないでほしい。
(しかしご両親に会うことになった時は緊張しまくったなあ……)
紫条院さんは自分の状況と職場を辞める決意を両親に話した時、『偶然再会したクラスメイト』がそんな職場はすぐ辞めるよう必死に説得してくれたと話したらしい。
娘が深く感謝を込めて語る内容から、ご両親はその人に会って是非お礼を言いたいと言い出したようで、俺は無職の身でありながら高級ホテルのカフェで大企業の社長夫妻と顔を合わせることとなったのである。
『娘の話を聞いて青ざめたよ。おそらく君がいなかったら何年後かに春華はとんでもないことになっていた。しかも、君は春華が頑なに現状を変えることを拒んでもなお辞職するよう説得してくれたらしいな。感謝の言葉もない』
大会社の社長であるにも関わらず深々と頭を下げる社長とその奥さん(紫条院さんにそっくりかつ若すぎでビビった)に戦々恐々としつつ、俺はその二人のまともさに安堵した。
こんなにも娘を愛しているご両親がいるのなら、紫条院さんはもう大丈夫だろうと思えたからだ。
そして――俺に凄まじい転機が訪れたのもこの席でのことだった。
『それで是非お礼をしたいのだが……ん? 先日ブラック企業を辞めて人間らしく働ける職場を探している? なら良ければウチに来るかね?』
その夢のような話に一瞬目の前が真っ白になったものの、この機を逃してなるものかと全力で頭を縦に振り、あれよこれよという間に俺は千秋楽書店の社員になった。
まあ正確に言えば、その系列であるブックカフェでの採用である。
ちなみに、再就職を果たした紫条院さんの勤務先も同じであり、俺たちは期せずして同期になったのだ。
そんなふうに縁が増えた俺たちは、こうして普段職場で雑談したり飲みに行ったりすることも珍しくなくなっている。
「私もコネ入社のようで気は引けましたが……周囲にはお父様の娘ではなく、紫条院家の『親族』だと言っているので、極度に気を遣われるのは避けられていますね。本当に、とても気持ち良く働けています」
「ああ、店長の三島さんも俺たちが前職でされたことを聞いて凄く怒ってくれたしな……もっと早くああいう上司を持ちたかったよ」
「……ホワイトですね」
「ホワイトだなぁ……」
いかに前職が酷かったを思い出し、俺たちは苦笑いを浮かべてしまう。
ホワイト企業という世界を味わうほどに、『一体、前職のあの地獄はなんだったんだ?』という思いが浮上してしまうのだ。
「本当に、なんであんな労働基準法を無視した違法企業なんかにずっといたんだろうな俺……ちょっと馬鹿なんじゃないか?」
「いえいえ、新浜君はちゃんとそこから抜け出したばかりか、凝り固まった考えでノイローゼになりかけていた私を救ってくれたじゃないですか! 私にとって命の恩人であって、尊敬すべき人です!」
(っ!? ち、近……っ!)
ちょっと興奮したらしき紫条院さんはテーブルに手をついてほんのりと朱に染まった美しい顔を俺へと近づけてきた。
吸い込まれそうな瞳に、シルクのようにさらさらと流れる長い髪、薄桃色に染まった唇、体勢的にどうしても視界に入る豊満な胸の谷間――その全てがグイッとズームアップされる。
(ああもう、美人すぎる……! そのへんの女優なんて目じゃない美貌していて心は清純なんて、どうやっても意識するよ!)
「……私も身に染みましたけど、大人なんて自分のことで精一杯で他人のことを助ける余裕なんてありません」
紫条院さんは近づけていた顔を離し、実感がこもった様子で続きを口にした。
「なのに新浜君は自分だってようやく酷い職場を脱出したばかりなのに、私を助けてくれました。それは私にとって……涙が出るほどの救いだったんです」
「紫条院さん……」
深く感情を込めて静かに語る紫条院さんの想いは、言葉のままなのだろう。
自分を縛めていたものを断ち切ってくれてありがとうと、その瞳には深い感謝の色だけがあった。
「そ、それと……ちょっと恥ずかしかったですけど、嬉しかったですよ。新浜君が、高校時代から私をずっと見ていてくれていたなんて」
「あ、いや、あれは……!」
紫条院さんが頬の赤みを深くし、俺は非常に慌てた。
紫条院さんが言っているのは、俺が彼女の説得で口にした紫条院さんの美点をこれでもかと挙げた一幕だった。
俺が密かに高校生時代の紫条院さんをずっと見ていたという告白でもあり、今思い返すと恥ずかしいというレベルではない。
「あ、あの時は俺もちょっと興奮していたというか、どこかおかしかったんだ! よくもあんなストーカー一歩手前みたいなことをまくし立てたもんだって、自分でも信じられないくらいで……!」
「……じゃあ、ウソだったんですか?」
「は!? いや、そんな訳あるか! あの時に言ったことは全部本気に決まってるだろ! 紫条院さんはとにかく魅力的な人で――あ」
「そ、そうですか……」
そのやり取りは、お互いにとって自爆だった。
聞かされた紫条院さんも、まくしたてた俺も、お互いに炸裂した爆弾の破壊力に顔を真っ赤にしている。
彼女に、高校の時の天然バリアはもうないのだから。
「だからまあ……自信を持ってくれよ紫条院さん」
羞恥心を誤魔化すように、俺は自分の本音を語り出した。
「紫条院さんはとても価値がある人で、とてつもなく魅力的だよ。だから俺は……そんな人が社会のくだらない部分のせいで苦しんでいるのが、どうしても我慢ならなかったんだ」
「新浜、君……」
ああ、そうだ。
あの時に俺に宿った炎のような原動力はなんだったかはわからない。
けれど、あの時に膨れ上がった想いは今も変わらずここにある。
紫条院春華という存在が俺にとっての青春の宝石であり、悪意の汚濁によって穢されるのは、絶対に看過できない。
「ええと、その、だからさ、その……」
「……?」
そして、これ以上は俺自身の想いで先に進んでいかなければならない。
陰キャだろうと恋愛経験ゼロだろうと人生が下手クソな男だろうと――自分から進んでいかないと欲しいものは手に入らないと、他ならぬあの日の自分が教えてくれたのだ。
「こうして何度か飲みに誘ってもらっているけど……今度は俺から誘わせてもらっていいかな。実は男一人で行きにくいメシ屋があってさ、今度の金曜日の夕方に一緒に行ってくれると凄く助かるって言うか……」
「!!」
汗をダラダラと流しながら、俺は一線を越えるお誘いを口にした。
まさに清水の舞台から飛び降りるほどの決意で発した言葉だが、実際は我慢の限界とも言える。
明るさを取り戻してからの紫条院さんは、会社が一緒になったこともあって俺にちょくちょく話しかけてくれて、こうしてプライベートな時間も何度か共有した。
いくら俺がヘタレとはいえ、毎日のように見せられる愛らしい笑顔に再燃した恋心がキャンプファイヤーになるにはあっという間であり、その想いはもう口から溢れそうになっていたのだから。
「い、行きます行きます! 車ですか!? 電車ですか!?」
「あ、ああ。一応俺が車を出そうかなって……」
「じゃあちょっとしたドライブですね! ふふ、とっても楽しみです!」
高校時代の時と同じように、女神となった紫条院さんは朗らかに笑う。
心弾む様を隠そうとしない、無邪気な子どものように。
「あ、ありがとう。でも予定とか大丈夫か? 最近は部署の女の子たちとも仲良くしてるそうだし、先約があったら……」
「いえ、大丈夫ですよ。皆さんは平日のお昼はご一緒しますけど、家庭を持っている人も多くて夜は集まったりしませんから。それに――」
嬉しそうな笑みを湛えたまま、紫条院さんは自然に続けた。
「私がこうしてお酒を誘ったりするのは新浜君だけですから、お互いに予定がなければ全然大丈夫です!」
「ぶ……!」
それは、大人である今もたまに炸裂する紫条院さんの天然ボケだった。
心が弾んでいる時に発生する傾向があるもので、その発言がどれだけ男心を射貫くものなのか、全くわかっていない。
「ふふ、こうしてこんな話をして笑えているなんて、本当にウソみたいです」
再会時に失っていた天真爛漫な部分を取り戻した紫条院さんは、嬉しそうに今この時を慈しむ。
「何度言ってもお礼が足りないです。こんなふうに私を取り戻せたのは、何もかも新浜君のおかげですから」
「紫条院さん……」
曇りなく拭いがたい疲労もない透き通った瞳は、俺へと向いていた。
「これからも、どうかよろしくお願いしますね。私は――ずっとずっと新浜君と仲良くしていたいです!」
言って、紫条院さんは笑みを浮かべた。
それは、再会した頃の紫条院さんが失っていたもの。
眩しいほどに純粋で綺麗な心の、輝くような発露。
大輪の花のような心のままの笑顔が――そこにはあった。
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