第156話 帰還、そして――


「……ん……ぁ……?」


 まどろみから覚めて最初に知覚したのは、知っている天井だった。

 まだ意識がはっきりしないままに周囲を見渡すと、参考書などが並ぶ学習机やラノベやゲームが収められた棚が目に映る。


(実家の……俺の部屋……?)


 かつてのタイムリープ初日みたいな感想を漏らしつつ、俺はぼんやりとした頭の霧を晴らそうとした。


 なんだかついさっきまで不思議空間にいて、この世の法則が全部理解できていたような気がするが……。


 いや、そんな事よりも――


「……っ! 今はいつだ!?」


 俺は焦りながらも学習机の上に置いてあったガラケーを見つけ、日時を確認する。

 

(高校二年生の十月の……最後に春華の見舞いに行った日の翌日……それに――)


 俺は恐る恐るガラケーの写真フォルダを開く。

 そこに何も写っていなかったら、という不安に心臓の鼓動が早くなるが――


「ある……っ! あるぞ……!」


 俺は瞳を潤ませて歓喜した。

 開いたフォルダの中には――たくさんの写真がある。


 母さんや香奈子とタコ焼きを囲んだ時の写真、文化祭当日の盛り上がりの写真、球技大会の後で男子連中と撮った写真。


 そして――春華が俺の家に泊まりに来た時の写真、香奈子が撮った俺と春華がソファでまどろむ写真、海で快活な笑顔を浮かべる水着姿な春華の写真――


 その全てが――今俺がいる場所は俺が青春リベンジに尽力していた二周目世界なのだと証明してくれていた。


「俺は……戻ってこれたのか……」


 片道切符も覚悟して二度目のタイムリープに臨んだが、どうやら俺は再びこの世界へ戻る事を許されたらしい。

 これが運命の褒美なのか、単純にこうしなければ時間の整合性に不都合が起きるからなのかは不明だが――


「あ、兄貴ようやく起きたの? いくらなんでも寝過ぎじゃない?」


「香奈子……」


 俺の声を聞いて部屋へと入ってきたのは、妹の香奈子だった。

 何だか、こいつの顔を見るのが数年ぶりのようにすら感じてしまう。


「香奈子……なあ、俺って今高校生の見た目だよな?」


「はあ? それ以外の何だっての? 春華ちゃんの事で疲れているだろうから朝からずっと寝かせてたけど寝ぼけすぎでしょ。もう夕方だよ?」


 ふと窓の外を見るとすでに空はオレンジ色に染まっている。

 香奈子の視点からすると俺は夜に就寝するも次の日の朝に起きてこずに、夕方である今まで眠っていたらしい。


 いや、そんな事はどうでもいい。

 俺にとって一番重要なのは――


「わ、わ!? ちょ、ちょっと兄貴! 妹が見ている前で着替え始めないでよ!」


「悪い! 死ぬほど急いでるんだ!」


 俺はパジャマを乱暴に脱ぎ捨てて、外行きの私服へ手早く着替える。

 行くべき場所へ走るために、とにかく今は急いでいた。


「悪いけどちょっと出てくる! 帰りはいつになるかわからん!」


「ちょっ兄貴!? こんな時間から一体どこに行く気!?」


 兄の奇行に慌てたような香奈子の声が背中に届くが、俺はそれに答える暇すら惜しんで玄関へと走った。


 今俺が、何よりも優先しなければならない人に会いに行くために。



■■■



 跨がった自転車のペダルを、一心不乱に漕ぐ。

 

 安全には気を配っているが、どうしようもなく逸る心はどうにも止められずにあらん限りの力で俺は車輪を爆走させる。


 そうして、脚力の限界を無視して漕ぎ続けた結果――

 俺は目指していた場所である紫条院家の屋敷へと辿り着いていた。


「ハァ……ハァ……」


 息が激しく乱れていたが、整える時間すら惜しい。


 俺は自転車を邪魔にならない場所へ置き、すぐに正門のインターホンを押す。

 するとほどなくして、聞き覚えのある女性の声がスピーカーから聞こえてきた。


『はい、どなたで……に、新浜様!? こんな時間に身体を濡らしてどうしたんですか!?』


「え? あ……」


 その時初めて、俺は薄闇の空からパラパラと降る雨と、湿って微かに重くなっている服に気付く。

 

 そうか、雨が降っていたのか……。


『と、とにかく中に入ってください! そのままにはしておけません!』


 俺は電子ロックが解除された門を通り、敷地内へ入る。

 ここに至るまで全速力だったのでかなり疲労していたが、それでも長い庭を急いで走って玄関へと至り――


「もう、何をやっているんですか新浜様! すっかり肌寒い季節になっているんですよ!」


 タオルを持って待っていてくれた冬泉さんが、俺の姿を認めるなり弟の世話を焼くお姉さんのように甲斐甲斐しく俺の衣服や髪を拭いてくれた。

 ……なんとも申し訳ない。


「あ、ありがとうございます冬泉さん。遅い時間に大変申し訳ありません……」


「いえ、それは全然構いませんけど……本当にどうしたんですか? 旦那様と奥様は病院にお嬢様の事を相談に行っていて不在で、今は私達家政婦しかいないのですけど……」


「それは……」


 一体何と言ったらいいものかと考えたが、上手い考えなんて浮かばない。

 だから――俺はただ今自分が望む事を正直に口にする事にした。


「こんな時間に非常識なのは重々承知です……けど……」


 けれど、どうか今は俺の願いを聞いて欲しい。

 俺は今、天地がひっくり返ってでも彼女の所へ行かなければならないのだ。


「どうか……春華に会わせてください! どうしても今すぐに会いたいんですっ!」


「新浜様……」


 感情が昂ぶりすぎて涙すら潤ませてしまっていた俺は、頭を下げて必死に懇願した。そんな俺をどう見たのか、冬泉さんは痛ましさを感じているような声を出す。


 そして――


「……わかりました。奥様からは留守中に新浜様がいつ見舞いに来ても迎えるように言われていますし」


「え……」


 普通なら追い返されるのが当然の状況だが、どうやらあらかじめ秋子さんが俺の来訪について全て許可してくれていたらしい。

 

 この紫条院家に何度も足を運んでこの家の人達と築いた信頼が、今この時になって俺という存在を保証してくれていた。


 ああ、本当に――ありがたい。


「ありがとうございますっ! それじゃお言葉に甘えさせて貰います……!」


「え!? に、新浜様!?」


 許可を得るやいなや、春華の部屋へと弾けるようにダッシュした俺に冬泉さんの困惑した声が届く。


 他人の家で爆走するなんてマナー違反もいいとこだが、今この時だけは止まる事はできなかった。


 身体の全細胞が狂おしく求めるままに、俺は走った。

 

 俺が今どうあってもいかなければならない場所へ。

 一秒でも早く会わなければいけない少女がいる場所へと。



■■■



「つ、着いた……」


 何度も春華の見舞いに訪れていたため、春華の部屋の前まではすぐに辿り着いた。

 もう俺の目の前にあるドアを開ければ……そこに春華はいる。


 春華が倒れてしまった夜、俺は訳のわからなさと運命の理不尽さに頭がおかしくなりそうだった。


 あの天真爛漫な少女が、笑う事も悲しむ事もできなくなっていると知った時は、世界が足元から崩れていくような錯覚すら覚えた。


 だが、俺はその悪夢を乗り越える事ができた。

 後は春華の状態を確認さえできれば――


(けどもし……ドアの向こうにいる春華がまだ人形状態のままだったら……?)


「……はっ」


 自分の中に生じたそんな不安を、俺は鼻で笑った。

 その不安が的中しようとも、俺のやる事は変わらない。


「その時は……またタイムリープでもなんでもしてやるさ」 


 春華を救うためなら、運命とやらを怒鳴りつけてまた未来でも過去でも行ってやる。どんな苦難でも超えて、俺にとって最も大切な存在を救って見せる。


 俺にできることなんて、ただ為すべき事のために走る事しかないのだから。


「……入るぞ、春華」


 意を決して、俺はゆっくりと部屋のドアを開ける。。


 そして――


 視界に飛び込んできたのは、窓の向こうに広がる目を灼くような夕暮れだった。

 いつのまにか雨も止んでいたようで、暗雲が消えた空はオレンジ色に輝いて広い春華の部屋を照らしていた。


 その中に、春華はいた。


 背もたれのある医療用リクライニングベッドに背を預けた状態で、パジャマを着て静かに佇んでいる。

 その顔は部屋に溢れる暁の光に照らされて、よく見えない。


 だが――纏う空気はひどく静かだった。

 俺が部屋に足を踏み入れても、何の反応もない。


「――――――」


 俺は逸る気持ちを宥めつつ、ゆっくり春華へと近づいた。

 

 ベッドが近くなるほどに、俺が焦がれた少女の顔が少しずつ露わになる。

 少し痩せたようには見えるが、その可憐な顔立ちに何ら変わりはない。


「来たよ……春華」 


 春華の側まで来た俺は、眩しさにようやく慣れた目で彼女を見た。


 しかし――


 俺の期待とは裏腹に、春華の瞳は虚無を見つめている。

 側にいる俺の存在に気付いている様子がない。


「……っ」

 

 その光景に、全身の血が凍りつくような感覚に陥るが――


「え……?」


 ふと微かな温もりを感じて視線を向けて見ると……俺の左の薬指に、しなやかな指が触れていた。

 眠る子どもが、無意識に人肌を求めるように。


「あ―――」


 驚く俺の目の前で、春華の目がゆっくりと動く。

 何も映さずに何も追わなくなってしまっていた瞳が――おぼろげながら焦点を結んでいく。


 そして――


「……ぁ……」


 春華の口が、微かに震えた。


「……し……ぅ……くぅ……」


 長い間殆ど声を発していなかった声帯が震える。声の出し方を一から思い出していくように……意味のある音を結んでいく。


「……しん、いち……ぉ……くん……?」


 傍らにいる俺を不思議そうに眺めて、春華は俺の名を呼んだ。

 

 その瞳は、俺を見ていた。

 彼女が取り戻した世界の中に、俺という存在を認めてくれていた。

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