第154話 雪解け、そして役割の終わり


「……正直、黙っていられない」


「え……」


 涙で頬を濡らす春華に向かって、俺は一歩前へと進み出た。

 

 大人の春華の気持ちはわかった。

 けど、その全てが極めて聞き捨てならない。


「紫条院さんが思い詰めていたのはわかったよ。けど、何だよその言い草は? 自分に魅力がないとか価値がないとか……ちょっと聞き捨てならないぞ」


「……っ! だってそうとしか言いようがないでしょう!? 私が魅力のない人間だから友達もできずに、何もかも上手くいかないんです!」


「――そんな訳があるかっ!!」


 感情が迸った俺の声に、春華は驚きに固まる。


 だが、正直声を荒らげずにはいられない。

 紫条院春華という女の子に魅力がない? 中身がない?

 

 ああ、駄目だよ春華。

 俺の前で、それはタブー中のタブーだ……!


「なら、俺が紫条院さんの美点を並べるよ。本当にいくらでも言うから覚悟してくれな」


「え……え……?」


 少なからず憤怒が滲んでしまっているであろう俺に、春華が困惑の声を上げる。


 だがもう遅い。

 俺の世界一好きな女の子の事を貶すのは――例え春華本人でも許す事はできない。


「まず優しい。俺みたいにボソボソ声の根暗な奴でも優しく偏見なく声をかけてくれていた。殆どの生徒が、俺みたいなのを少なからず見下していた中で紫条院さんだけは分け隔てなくて……聖女でしかないよあんなの」


 思い起こすのは、春華と図書委員をしていた陰キャ高校時代の光景だった。


 目の前にいる女の子は社会的に評価される要素を全て持ちながら、決して他人を見下さず、優しさを振りまいていた。

 あの温かい笑顔を……俺なんかにも向けてくれていた。


「心遣いが素晴らしい。図書室の本も後の人を考えて時間をかけて整頓してたし、掃除の時だって係の仕事の時だって、常に誰かのために頑張ってた。そんなに几帳面にやっても、自分が何か得をする訳でもないのにさ」


 どうしても自分の事ばかりを考え始めるあの頃に、春華は優しさや気遣いを忘れなかった。誰かのためになる事は善い事だと……そう自然に考える事ができる少女だった。


「とにかく純粋だから、ちょっとした事でも心から楽しむ事ができる。道端に綺麗な花を見つけただけでも、コンビニで買ったお菓子が美味しかっただけでも幸せそうで……見ているこっちが幸せになる」


「あ、あの……新浜君……?」


 想い人の長所を早口オタクのようにまくし立て始めた俺に、まだ瞳が濡れたままの春華がおずおずと声をかけてくる。


 だが、まだまだだ春華。

 俺はまだ、全然語り足りないんだよ。


「メチャクチャ真面目でとにかく頑張り屋だ! どんなに苦手な事でも努力して乗り越えようとする姿はマジ見習いたい! それと絶妙にぽやぽやでドジだったりして見てると心がふわふわに癒やされる! そしてなんと言っても笑顔が綺麗だ! 心の美しさがそのまま花になって咲いたみたいで、どんな奴だって目を奪われる!」


「いや、その……! ま、待って……待ってください!」


 臆面もなく春華の美点を並べ続ける俺に、春華は羞恥に頬を赤くしてたまらず声を上げる。


 大層恥ずかしがらせてしまっているようだが、これは全て俺の嘘偽りない本音だった。


 俺はずっと紫条院春華という女の子を見てきた。

 特に二周目世界においては、陰キャだった高校時代とは違ってごく近しい距離で天使すぎる少女の魅力に圧倒され続けた。


 そして――今目の前にいる大人の春華も、その根本は何も変わっていない。

 ただ悩み惑ってしまっているだけで、やはりあの頃の春華のままだ。


 だからこそ許せない。

 紫条院春華という美しい存在を、その本人が否定してしまっている事が。


「紫条院さんが今まで何一つ掴めなかったって言うのは……決して中身に魅力がなかったからじゃない。ただ単に出会いに恵まれず、歯車が噛み合わなかっただけだ。紫条院さんは普通じゃないって言ってたけど、普通の事なんだよ。程度の差はあっても誰もが経験するだ」


 これは完全に確信あっての言葉だった。

 なぜなら俺は、友達を作って学校生活を謳歌していた春華を知っている。

 元から魅力のない人間が、俺がどう干渉しようと願った通りの青春を掴めるはずがない。


「だから……頼むから自分を信じてくれ!」


 俺の口から出た言葉は、我ながらあまりにも必死だった。


「勝手に自分を不完全だなんて思い込むな! 少なくとも俺は紫条院さんがそんなにも自分を責めている事が凄く腹立たしいし、悲しくてたまらない! 本当にやめてくれよ……!」


「新浜……君……」


 気付けば、俺の瞳は熱い雫で潤んでいた。

 こんなにも魅力的な春華が自分を呪っているという事実がどうしようもなく悲しくて、どうしても感情が熱を帯びてしまう。


「紫条院春華って女の子は……! 俺が今まで出会った中で誰よりも最高に素敵な女の子なんだよっ!」


 心の奥底から湧き出る灼熱の感情と共に、俺は喉が張り裂けんばかりに全力で叫んだ。



■■■



 私――紫条院春華は呆然と立ち尽くしていた。


 再会してから最も感情を露わにした新浜君は、私が自分を否定する言葉に怒りと悲しみを見せており――感情の迸る声で私という存在を肯定していた。


「……新浜君……」


 一体どうして彼がそこまで強い感情を見せているのかはわからない。


 けれど私自身ですら忘れている事すら掘り起こして語る新浜君の言葉には、圧倒的に強い熱を持った本気の想いしか感じられない。


 こんな私を、心の底から肯定してくれていた。


(こんな……私を……)


 それは乾ききってヒビ割れていた私の心に、雫となって染み入る。

 私という人間に向けてくれる好意はとても甘美で、温かい雨のように渇望を癒やしていく。


 自分の心が彼の言葉に喜んでしまっているのを……私は自覚した。


 そう思った瞬間――


(あ――――)


 昨晩の夢で見た、知らない記憶がフラッシュバックした。

 

 新浜君に肯定されて温かくなっていく心と、無意識が生んだ幻であるはずの光景が――私の感情をさらに激しく揺さぶる。

 

『クラスみんなでの文化祭を……楽しみだって言っていたから……』


『だから……改めて俺からも頼む。俺とメアド交換をしてくれないか?』


『だから安心してくれ。その夢も幸せも俺が守る。俺が絶対に紫条院さんを幸せにしてみせる……!』

 

『俺の方こそ……これからよろしくな春華』


 それは、決して私の記憶じゃない。

 私には与えられる事がなかった、空想の出来事に過ぎない。


 けれど今目の前にいる新浜君の存在と言葉が、夢に出てきた新浜君と激しく同調して、現実感が曖昧になる。

 まるで、彼と過ごした青春時代が存在したかのように。 

  

(ああ、そうです……は……いつも私の事を気にかけてくれて……)


 ほんの一瞬だけ――

 私は出所がわからない感情で溢れかえった。


 それはまるで知らない誰かの気持ちが逆流したようでもあり、ひどく古い記憶が蘇ったようでもあった。


「う……ぁぁ……あああああああ……!」


 気付けば、私は大粒の涙を零していた。


 何故こんなにも胸が締め付けられるのか、どうしてこんなにも悲しみと歓喜が入り交じったグチャグチャな気持ちになるのか。


 それは全然わからないけれど――心の底から確信できた事はあった。


(想って……くれています……)


 突然に嗚咽を漏らした私に焦った様子の新浜君を、私は見つめた。


(こんな私に価値があると……心の底から感情のままに叫んでくれています……)


 そんな人が一人でもここにいる。

 たったそれだけの事実が、大きな空白が生じていた私の心を満たしていく。 


 根底から救われていくような気持ちの中で、濡らした頬を拭う。


『貴女が理想とした未来は、こうじゃなかったでしょう……!』


 不意に、夢の中で高校生の『私』が言った言葉が脳裏に蘇る。

 それは私が努めて考えないようにしていた、耳の痛い図星だった。

 

 であれば――私が思い描いていた未来とはどんなものだったのだろう。


「私は……」

 

 私が望んでいたもの。私はどんな大人になりたかったのか――


(私は、自分を好きになりたかった……いえ……)

 

 そう、そもそもは――


(私の内面を好ましいと……誰かに強く言ってもらいたかったんです。そうして自分を許せるようなって、自己嫌悪を抱えない人生が欲しかった)


 家族などの身内の存在からではなく、縁の外側にいる誰かに私という個人の内面を心から肯定して欲しかった。


 お前という人間には価値があるのだと――嘘偽りない想いで言って欲しかった。


(ああ――――)


 ああ、我ながらなんて安直で現金なんだろう。

 

 自分の奥底に沈殿していた真っ黒な塊が溶けていく。

 

 それは酷く凝り固まっており、昨日再会したばかりの新浜君の言葉で氷解するような簡単なものではなかったはずなのに。


 彼の強い想いを言葉と、そこに込められた熱量が……私の心を救って長年の苦悶から解き放っていく。


 自分という存在を維持するために『苦痛に耐えながら大人を続ける自分』を続ける必要は……どこにもなくなっていた。



■■■



 俺こと新浜心一郎は、冷たい汗を流していた。


 目の前にいる大人の春華に、俺は言うべき事を全て告げた。

 すると、春華はしばし沈黙したかと思うと突然に感極まったように涙を溢れさせてしまったのだ。


 やらかしてしまったかと、俺は肝を冷やしたが――


「救われて……いいんでしょうか……」


 涙を拭った春華は、まるで憑きものが落ちたようだった。

 未だ感情は落ち着いていないように見えるが……それでも表情からあの暗澹とした陰が見えなくなっている。


「昨日再会したばかりの新浜君の言葉で、私は頑なに守ってきたものを手放そうとしています。こんなに簡単に信条を変えてしまうのが、正しい大人なのでしょうか……」


「正しいに決まっているだろ?」


 俺は即座に断言した。


「ずっと馬鹿な生き方をしていた俺だから断言するけどな。それが間違った方向ならどんなに努力も逆効果なんだよ。だから、今自分が歩いている道は正しいかを考えるのは大事だよ。そうでなきゃ、ドツボにハマってしまった時に永遠に抜け出せない」


「……ええ、今はそう思えます。だって――」


 目元を拭った春華は、真っ直ぐ前を見ていた。


「さっきまでとは世界が違って見えます。こんなにも晴れやかな気持ちになっている今は……私にとって正しいのだと実感できますから」


 言って、春華は満面の笑みを浮かべた。

 もはや一切の陰はなく、太陽の下で向日葵が咲くような眩しい笑顔。


 高校時代と変わらない彼女の美しい笑みが――そこにはあった。


「新浜君の言う通り……自分の生き方を考え直してみます。両親ともしっかりと話をして、私が本当に望んだ方向に歩き出すために」


(ああ――――)


 大人の春華が完全に呪縛から解き放たれたと確信し、俺は気が遠くなるほどの安堵を覚えた。


 良かった……本当に良かった……。

 

「……新浜君」


「え……」


 気付けば春華は俺の目の前に立っており、その完成された美貌で明るい笑みを見せていた。


(う、うわぁぁ……やっぱり綺麗すぎる……こりゃ確かに大学や職場じゃ目立って仕方ないよ……)


 難関すぎるミッションを完遂させた俺はようやく緊張から解き放たれており、春華の女神の如き姿を純粋に見惚れていた。


 今までどこか悲しみを湛えた未亡人みたいな雰囲気だったから痛ましさが先に勝ったけど……この大人の美しさで子どもっぽく明るく笑うのがとてつもなく可愛い。


「私を見ていてくれて、気にかけてくれて、救おうとしてくれて――どんなに感謝しても足りません。さっき新浜君が言ってくれた事で、今私の心はとても温かくなっています」


 不意に、手に柔らかいものが触れた。

 春華が両手で俺の手を包み込んでいるのだと気付き、俺は顔を真っ赤に染めてしまった。


「ありがとう新浜君。こんな私の事を――ずっと諦めないでいてくれて」


 太陽の光で輝く水面よりもなお眩しい笑顔で、春華は感謝の言葉を口にする。

 その瞳には先ほどまでとは別の意味での涙が潤んでおり、あまりにも愛らしい。


 その光景を瞼に焼き付けたその時――


(あ…………)


 不意に、視界がぼやけて足元がおぼつかなくなる。

 水中にいるかのように、浮遊感が全身を包み込む。


(ああ、そうか――)


 驚きはしたものの、それは予想されていた事だった。

 これが意味する所はつまり――


(終わったんだな。俺の役割が)


 俺はミッションを果たした。

 何もかも憶測だらけのままに望んだこのタイムリープも、この状況を見るにどうやら正解ではあったようだ。


 もう俺は、何も見る事も聞く事もできなかった。

 知覚どころか自己認識すら曖昧になっていく中で――


 古い時計が刻むような、カチリという音が俺の脳裏に響いた。

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