第105話 名前呼びビギナーズ


『まったくお父様とお母様ったらひどいんですよ! 私が酔った醜態を思い出して頭を抱えていたら、勝手に部屋に入ってきてとっても騒いで! 私が自己嫌悪で絶叫して驚かせちゃったのは確かですけど、デリカシーが不足してます!』


「なるほど……時宗さんがすっ飛んできたのが目に浮かぶな」


 自宅での夜、俺は電話の向こうにいる少女へしみじみと言葉を返した。


 今まで学校以外での俺達の連絡はメールが主であり、電話というのは明確に何か用事がある時ぐらいだった。


 だけど夏を経た今、俺達はメールより電話の方が早いという理由でポツポツと通話を用いるようになってきていた。


 それだけでも大きな変化なのだが――

 

『そう言えば私が恥ずかしさのどん底にいるのを見て、お母様がお赤飯がどうとか変なことを言ってましたけど……意味わかります?』


「ぶ……っ!?」


 な、何を口走ってるんだあのセレブママ!?

 おかげでこんなに回答に困る質問が俺に回ってきたじゃねえか!


「は、ははは、いやちょっとわかんないなぁ。ああ、ところで話は変わるけどフルメダの新刊見たか?」


『あ、はい! 見ました見ました! 前の巻で何かもかも失った主人公が一人で戦いを再開するのがカッコ良すぎて最高でした……!』


「超わかる。あとボロい量産ロボを使ってのバトルがめっちゃ良かった」


『わかります! もう後半は映画を見てるみたいに興奮しっぱなしで……!』

 

 熱を帯びた同好の士の感想は、いつ聞いても心地良い。

 恥ずかしがらずにストレートな『好き!』を露わにできるのはこの少女の美点だと思う。

 

『それにしても……ふふ、何だか嬉しいですね』


 ひとしきりラノベ新刊の感想を言い合った後、電話の向こうから穏やかな喜びを嚙み締めるような声が聞こえた。


「ん? ラノベ感想を言い合えるのがか?」


『いえ、それもありますけど……こうして心一郞君と好きな時に話せるようになったことですよ』


「……っ!」


 さらりと口にされた自分の名前に、心臓が跳ねる。

 名字呼びと名前呼び――ただそれだけの違いなのに、俺の頬は自然と熱を帯びて朱に染まり、脳の奥に甘い痺れを感じてしまう。


(ああもう、いつまでドギマギしてるんだ俺は! あの始業式の日からそこそこ経つっていうのに……!)


 内心の動揺を悟られないようにして、俺は軽く息を吐いて精神を整える。

 タイムリープ前は大人で社会人生活も長かった俺だが、こういう時の反応は未だに中学生のそれである。


「あ、ああ、そうだな。メールだと打つのに結構時間がかかるし、電話はやっぱ便利だよな。紫条院さんも――」


『あー! またですよ心一郞君!』


 俺が言い終わる前に、ちょっと拗ねたような声が携帯から響いた。


『また呼び方が元に戻ってます! 他人行儀はやめるって言っていたじゃないですか、もー!』


「い、いや、なんかまだ慣れなくて……悪い春華」


 可愛らしく不平を口にする春華に、俺は相手に見えもしないのについ頭を下げてしまう。


 晴れて名前呼びするようになった俺達だったが――好きな子に『心一郞君』と呼ばれる破壊力に、俺は未だに動揺しっぱなしだった。


 そんな童貞丸出しの俺に比べ、春華の方は何のためらいもなく俺を心一郞君と呼んでくれている。

 とても無邪気に、ただ純粋な好意だけを込めて。


(それと……なんだか俺へ接し方もどこか変わったような?)


 どこがどうと言われたら困るが、何だか今までよりもさらに遠慮がなくなったというか……今まで通り品行方正ながらも少し奔放になったような……。

 

(まあ、だからって彼氏彼女って感覚じゃないんだろうけどなぁ)


 おそらくだが、春華の中では名前呼びできる=めっちゃ仲の良い友達という図式があり、それは女友達だけでなく男友達にも適応されているのだろう。


 なので、俺のことを親しく感じてくれているのは間違いないが、男子として意識されているかどうかは不明である。


『ふふ、別に怒ってませんよ。せっかく名前で呼んでもらえるようになったのに、元に戻ってしまったら寂しいから言ったんです!』


(ぶほぉ……!? な、なんつう可愛らしいことを……!)


 無垢な声音で朗らかに囁かれた言葉に、胸の奥で甘い何かが弾けるような感覚を覚える。こういうところをサラリと言ってしまえるのが、春華の天然小悪魔としての資質だった。


『それに私は真逆のことで謝らないといけませんしね……この間はつい教室で間違えて名前で呼びかけて申し訳なかったです』


「ああ、あのことか……まあ大事にならなくてよかったよ」


 名前呼びが決まった俺達だったが、当然の提案として俺はそれを二人っきりの時限定とするように求め、春華は不思議そうな顔になりながらも特に異論なく頷いてくれた。

 

 だがそれから四日後――ちょっとした事件は起こった。

 昼休みの教室で、春華は俺との雑談中についうっかり『ええ、そうなんですよ心一郞く――』と言いかけてしまったのだ。


 それに対する周囲の反応は、激烈だった。


 昼休みの教室は騒がしい上に、春華のその声も決して大きくはなかった。

 だというのに――その瞬間、教室で食事や談笑の最中だった大勢のクラスメイトたちは時が止まったかのように静止し、そのコンマ1秒後に俺達へ向けて一斉に視線を集中させてきたのだ。


(あいつらのシンクロっぷりは怖かったなあ……春華が『ひゃぁぁぁ!?』ってビビりまくっていたのも無理ないわ)


 その場はなんとか『はは、違うって紫条院さん、あの主人公の名前は心一郞じゃなくて浩一郎な!』などと言って誤魔化し、驚愕に目を見開いていたクラスメイトたちも『なんだ聞き違いか……』みたいな顔で各々の昼休みに戻っていったが……。


『心一郞君が人前で名前呼びがバレると大変なことになると言っていた意味がよくわかりました……理由はわかりませんけど、みんなの反応が尋常じゃなかったです……』


「俺もあそこまで激烈な反応があるとは思っていなかったから正直ビビったよ……反応良すぎだろあいつら」


 やはり春華が異性の名前を呼ぶとなると、男女問わず興味を持たない奴はいないらしい。青春真っ盛りの高校生がどれだけ恋愛の気配に敏感なのか、再確認させてもらった思いだ。


「というわけで、ご両親にも内緒にしておいてくれよ? 特に時宗さんとかめっちゃ過敏に反応しそうだし」


『はい、そこはちゃんと気をつけます! いつかみたいにお父様が原因で心一郞君に迷惑をかけるないようにしますから!』


 力強く宣言する春華だったが、この少女の中には生真面目さとポンコツさが同居していることを知っている俺としては一抹の不安が残る。


 まあ、バレたからってそんなに深刻になる話でもないけどな。


『そもそもお父様は展開している拡張事業とやらで今凄く忙しいらしいですし、バレる機会なんてほとんどないですよ! あ、でも……来月は家族で必ず食事する日があるのでその時はうっかりしないように気をつけなきゃですね』


「ふぅん? なんか祝い事でもあるのか?」


 あの親父さんは本当に家族との時間を大切にしているんだなぁという感想を抱きつつ、俺は話の流れで何の気なしにそう尋ねた。


 まさかそこに、春華に恋する男として絶対に聞き逃せない重大な情報があると予想もせずに。


「あ、はい。実は来月にですね――」

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