第94話 ゆらゆらと揺れる海の上で④


「でも……良かったです。新浜君がとてもリラックスできているみたいで」


「え? 俺って普段からそんなに休めていないように見えてるのか?」


 浮きマットに横たわった紫条院さんが漏らした声には、多分に安堵が混じっていた。

 過労死で死んだ身としては、これでも睡眠や休憩に気を遣っているつもりなんだが……。


「いえ、その……新浜君はいつも何にでも一生懸命で、私はそういう所がとっても素敵だと思っています。けれど――」


 そこで言葉を切って、紫条院さんは少し言いにくそうに続けた。


「私の勝手な思い込みだとは思うんですけど……新浜君が何かに追い立てられているように見える時があるんです。全力で走り続けないと、許されない何かがあるみたいに……」


「……!」


 その言葉は、少なからず俺の図星を突いていた。


 俺の内にある前世への後悔と、今度こそ幸せになりたいという想いは本物だ。

 誰にお仕着せられた訳でもない俺自身の願望である。


 しかし……『そうでなければタイムリープという奇跡が与えられた意味がない』

『俺にはあの悲惨な未来から紫条院さんと自分自身を救う義務がある』――そんな脅迫観念がなかったとは決して言えない。


「だから……余計なお節介だとは自分でも思っていましたけど、私は今回、新浜君には本当に心から楽しんで、安らいで欲しかったんです。お昼前に山平君たちにそれを相談したらみんな気を使ってくれたみたいで、あの時は強引に引っ張り出すような形になっちゃいましたけど……」


「そうだったのか……」


 なるほど、午前中に銀次が俺の襟首を掴んで強引に海へ引っ張って行ったのは、そういう経緯だったのか。


 とすれば、あの時のあいつのハイテンションは『あんないい子に心配かけやがって! 絶対はしゃがせてやるからな!』という想いもあったのだろう。

 何だか今回、俺の中でどんどんお前の株が上がってるぞ銀次。


 ああ、それにしても――


「紫条院さんは本当に優しいな……」


「え……?」


「俺なんかを気にかけて、普段から心配してくれたんだな。おかげでちょっと頭が固くなっていた自分に気付けて、夏の海を本当の意味で満喫できたよ。……本当にありがとう」


 この天使な少女は俺の様子をずっと見てくれていて、俺が心から羽根を伸ばせるように気遣ってくれていたのだ。前世において周囲の人間から心配されるどころか罵倒を浴びる事が常だった俺には、思い人の優しさが殊更に強く染みる。


「も、もう! 大げさですよ! あんまり言われるとむずがゆくなっちゃい――」


「いや、大げさじゃないぞ。普通、そこまで人を気遣ったりは――」


 そこで、俺達は空を仰いでいた顔を横にして、隣り合って寝そべっているお互いへと向けた。向けてしまった。


「「………………………………」」


 そうして気付く。海に浮かぶダブルベッド大のマットに二人で横たわった状態でお互いへと顔を向けると、両者間の距離が数十センチしかない状態で自分達の顔を突き合せる事になるのだと。


 先日に自宅のソファで同衾してしまった時も大いに狼狽したが、こうしてお互いに水着かつ横になった状態で顔がごく近くにある状況は、また別種の気恥ずかしさと言葉にし難い妙な空気があった。


「……あ、その……ええと……」


 天真爛漫な紫条院さんなら、あるいはこの状況でもお互い異性である事を気にせずに無邪気なままかもしれないと思ったが、どうやらここまでお互いの目鼻が接近した状態ではいつもの調子とはいかないようで、紡ぐ言葉が出てこない様子だった。


 そして俺はと言うと――


(ダメだ……目が離せない……)


 童貞らしく慌てて目を逸らせばいいものを、視界が可愛いくて綺麗なもので占められている幸せに、意識が釘付けになっていた。


 普段は天然な少女が少なからず俺の存在を意識してくれている様が……俺を男子だと認識して恥じらっている表情がたまらなく可愛く、ずっと視線で愛でていたいという想いが溢れて制御できない。


 と、そんな思考で俺の頭がいっぱいになっていたその時――


「わっ!?」


「きゃぁっ!?」


 不意に大きな波が押し寄せて、俺達が寝そべる浮きマットを痛烈に揺らした。

 巨大なビニールベッドは転覆こそしなかったが、大きく傾く。


 多少なりとも周囲を意識していればさほど慌てる必要のない揺れだったが、その瞬間俺たちは思考が飽和状態であり、危機意識が限りなく薄かった。


 その結果――


 耳に届いたのは、ドボンっという大きな着水の音。

 見えたのは、少女の身体が海面に吸い込まれていく様子。

 一瞬の間に、紫条院さんは海に転がり落ちて水没してしまっていた。


「っ! 紫条院さん!」


 全身の血が引いていく感覚を覚えながら、俺は即座に海へと飛び込んだ。

 泳ぎは得意ではないが、そんな事は頭から吹き飛んでおり逡巡はない。


 飛び込みによって盛大な水柱が立ち、俺の周囲が浮き上がる白い泡で染められる。


 水中ゴーグルは浮きマットの上に置きざりであり、海水の飛沫で目が痛い。

 だがそれでも俺は頭から沈んでしまった黒髪の少女の姿を懸命に追い、海中に細い肩を見つけて――それを一気に引き上げた。


「大丈夫か紫条院さん!? 息してるか!?」


 持ち運びのためか浮きマットの側面にはU字の取っ手がついており、俺は左手でそこに掴まりつつ右腕で抱えた紫条院さんに呼びかける。


「ゲホッゲホッ……! う、うう、ちょっと海水を飲んじゃいました……」


 少々気持ち悪そうにしているが大事ないようで、俺は心底ホッとした。

 さっきまで冷えていた肝に、安堵の温もりが戻ってくる。


「ふぅ……ああ、よかった」


「こほっ……あ、ありがとうございます新浜く……」


 紫条院さんが俺へと礼を言おうとして、それが途中で途切れる。

 一瞬怪訝に思ったが、その理由は明白だった。


 何せ俺は紫条院さんの背に手を回して肩を掴んでおり、抱き寄せて自分の腕の中に少女を閉じ込めている状態だったのだ。


 今まで必死だったので状況を正しく認識していなかったが、今、俺の素肌には水着姿の紫条院さんがぴったりと密接している状態で、自分の胸板に何かとてつもなく柔らかいものが当たっているのに気付く。


「ご、ごめん! つい咄嗟に……! え、ええと、身体がどっか痛いとかないか? 自力で浮いていられるか?」


「は、はい……大丈夫です……」


 問題ない事を確認すると、俺はすぐに紫条院さんの肩を離して浮きマットの上へ先に上がる。紫条院さんと肌を触れ合わせた感触がまだ生々しく残っており、彼女の顔をまともに見られない。


(咄嗟の事とは言えガッツリ抱き締めてしまった……しかもよく考えたらそこまで慌てるような状況じゃなかったかもだし……)


 冷静に考えると、浮きマットから落ちた程度で飛び込んで助けなければならないほどの危険はなかっただろう。確かにこの場所は足がつくほど浅くはないが、紫条院さんは泳げるのだから、待っていれば普通に水面に浮き上がってきたはずだ。


 そんな事を考えつつ、俺は浮きマットの上から紫条院さんの手を取り、少女の小柄な身体を足場の上へと引き上げる。


 そうして、乾きつつあった身体をびしょ濡れにした俺達は、再びこの巨大なダブルベッドサイズのビニール遊具の上に帰還を果たす。


「……その、悪かった。頭が真っ白になって、とにかく助けなきゃって夢中で動いちゃったけど、女の子の身体を触る事になっちゃって……落ち着いて考えたら、俺が助けに入るほどの事じゃなかったよな……」


「え!? い、いえいえ! 新浜君が私を助けるための行動だったって勿論わかっていますから! こんな貧相な身体にちょっと触ったくらい何でもありませんから!」


(貧相……???)


 筆橋と風見原が聞いたら猛烈にツッコミそうな言葉で、紫条院さんは寛大にも俺のフォローをしてくれた。


 いや、貧相からほど遠い豊穣の果実だからこそ、俺の罪悪感も深くなっているんだが……。


「それに……貴重な体験だったかもです」


「え……」


「実は家族以外の男の人に抱き締められたのは、生まれて初めての事だったんですけど……驚くくらいに力強くて、ちょっとドキドキしました……」


 微かな紅潮を頬に浮かべ、紫条院さんは可愛らしくはにかんでそう告げた。


 男に抱き締められるなんて下手な相手だとトラウマになりかねない行為を、恥じらいや驚きはあっても決して不快ではなかったと言うように、照れるような微笑みを見せる。


 その男心をとてつもなく揺さぶる台詞と笑顔を前に、俺はまるで乙女のように胸を射貫かれてこみ上げてくる甘い何かに支配されてしまう。


「え、ええ? ど、どうしたんですか新浜君? いきなり顔を隠して……」


「ごめん……なんかもう、まともに顔が見れない……」


 もはや天使を直視する事ができなくなった俺は、両手で自分の顔を覆った。

 胸いっぱいに広がる男心の高鳴りにただプルプルと無様に震え、朱に染まった自分の顔を隠す事しかできなくなったのだ。


(そもそも、今日は朝から好きな子の艶っぽい水着姿やら可愛い表情を過剰に摂取しすぎなんだよ……。ある意味海を舐めてた……)


 タイムリープによって大人の強さを持ち込んでいる俺だが……悲しいかな前世がまるで色のない人生であったため、女の子への魅力耐性は中学生以下である。


 夏の太陽がいよいよ西に傾きつつある中で――俺は今日という日にたびたび瞼に焼き付いた鮮烈な少女の魅力を反芻し、リア充が集う夏の海という場所の破壊力を、改めて思い知ったのだった。

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