第93話 ゆらゆらと揺れる海の上で③


「あ、う……な、何言ってるんだよ。海に誘ったのは俺が仲の良いメンバーで行きたかったからで、紫条院さんがそこまで喜んでくれるなんて想像してなかったんだからな?」


 照れ隠しのようにそう言うが、大筋は嘘ではない。

 この海行きを企画したのは俺が深刻な紫条院さん分欠乏症にかかり、残る夏を一緒に遊びたいと思ったからだ。


 いくら以前より仲良くなったと言っても、海へ誘うという今までのラインを明らかに超えた行為に紫条院さんがどう反応するかなんてさっぱり予想できず、お誘いの前はずいぶんと逡巡したものだ。


「ふふ、その仲の良いメンバーに私を入れてくれたことを嬉しいと言っているんですよ。それで……新浜君自身は今日をしっかり楽しめましたか?」


 海の解放感のせいか、普段よりもさらに余裕を感じさせる紫条院さんが穏やかな表情で言う。


 海に浸かった足を動かしてチャプチャプと飛沫を立てている様は、子犬が尻尾をパタパタさせているのを連想させ、彼女がこの時間を快く思ってくれているのがわかった。


「そりゃあ……楽しかったよ。余計な事を一切考えないで頭を空っぽにして遊ぶのは凄く心地良かった」


 そしてそれは、今日一緒に来てくれた友達全員のおかげだった。

 皆が楽しそうにしている様を見て眩しさに目を細めるという、俺の大人ムーブを無理矢理吹っ飛ばし、海に相応しいバカな子どもにしてくれたのだ。

 

 振り返れば俺の大人になってからの記憶は職場と自宅の光景しかなく、学生時代も自室に引きこもってばかりだった。


 海でこんなにも夢中になって遊び尽くすなんて、一体いつぶりなのか……もう思い出せない。


「ただちょっと、はしゃぎすぎたかもな……ちょっぴり疲れ気味だ」


「あはは、そうですよね。私も流石に少し身体が重くて……よいしょっ」


「っ!?」


 不意に、紫条院さんが身を倒した。

 ベッドに寝転がるようにして背から倒れ込み、仰向けにぽすんと寝そべって浮きマットに身体を沈めたのだ。


 起こった出来事を情報として述べればただそれだけだが――それは視覚的な面で今までよりもさらに危険な行為だった。


(わ、わあああああ……!? ちょ、これ、ヤバいだろ……!)


 あまりにも……あまりにも無防備だった。


 少し小麦色に色づいた太もも、露わになっているおへそ、色っぽいうなじ、仰向けになっても重力に負けない形のよい胸――何を取っても完璧としか言いようのない天使が、ノーガードで俺の目の前で寝転がっているのだ。


 水着姿の全てがすっぽりと視界に収まってしまうこの至近距離のアングルもマズいが……俺の童貞マインドを一番揺さぶったのは、紫条院さんの無警戒さだった。


 人間を信用しきった小動物が安心の証としておへそを天に向けて寝るように、紫条院さんは豊かなプロポーションを俺の前に晒す事を全く気にしていない。その無邪気な信用が嬉しい反面、あまりにも目の毒すぎて辛い。

 

「ふぅ……あ、心配しなくても大丈夫ですよ。このマットは元々こういう使い方をするもので、大人でも二人まで寝そべることができるんです」


 俺の激しい狼狽をどう取ったのか、横になった紫条院さんがのほほんとそんな事を言う。 


「新浜君も私と一緒に寝てみませんか? とっても気持ちいいですよ!」


 大人顔負けの肢体を俺の前で惜しげもなく晒しながら、童女のように無邪気な笑顔で紫条院さんがお誘いをかけてくる。

 そのギャップが、俺の精神をかき乱しているとは絶対に気付いていないだろう。


(頼むから、もうちょっと自分の魅力を自覚してくれ……!)


 こうまで俺が慌ててしまうのは、前世から今まで異性方面の経験値がゼロなせいなのか、紫条院さんが天真爛漫すぎるのか……おそらく両方だろう。


 ただそれにしても、そのパーフェクトボディでこうも無防備に振る舞われると、破壊力が水爆級になるという事は知っていて欲しい。マジで。


「?? どうかしましたか新浜君?」


「あ、いや……何でもない。そ、それじゃお言葉に甘えて……」


 咳払いしつつ、俺は紫条院さんに誘われるままに浮きマットの上に背中から身を倒してみる。このまま一緒に寝て視覚を空へ向ければ、これ以上余計な煩悩を抱かずに済むだろう。


 そうして海上のベッドに身体を沈めて空を仰いだ瞬間――


「あ――――」


 俺の視界全てが青になった。


 雲一つない快晴の空で、目に映るのは無限に広がる蒼穹だけだった。

 どこまでも青く、どこまでも深く、世界から青以外の色が消えてしまったかのようだ。


 あまりにも澄み切った空模様に、このままあの果てしない青に吸い込まれてしまいそうな錯覚すら覚える。


(凄い……空ってこんなに綺麗だったんだな……)


 海の上であるため人や人工物から発する音は何も聞こえずに、たゆたう波音だけが耳に届く。海原のさざ波ににゆらゆらと揺られながら、俺はその小さな非日常の景色に感じ入った。


(そう言えば……仕事に疲れた時はよく海のヒーリング動画を見てたっけ。いつか綺麗なビーチで思いっきりバカンスしたいなとかぼんやり考えながら……)


 活力を与えてくれる太陽の輝きに、晴れ渡った空、優しい潮騒の調べ……そんな景色に思いを馳せながらも、結局俺は死ぬまで海に足を運ばなかった。


 途切れない激務のせいで海へ一人ドライブに行く余裕もなく、そしてそんな日々を仕方がない事だと諦めていたからだ。


(……行けば良かったんだよな。海でも山でもどこへでも……)


 海も空も、タイムリープなんて関係なくいつだってそこに在った。

 俺が仕事を休むなり辞めるなりして車を飛ばすだけで、煌めく海辺の景色も、今見上げているような蒼穹も、俺を迎えてくれたはずなのだ。


(本当にアホだったよな俺……ゆっくりと自然を眺める事すら許されない人生なんて当然だと受け入れていいはずがないのに……)


「どうですか新浜君? 立ったまま見上げる空とは全然違ってちょっと凄くないですか?」


 二人で並んで空を見上げたまま、紫条院さんの声がすぐそばから聞こえる。

 体勢的に顔は見えないが、視線を向けずともいつもの明るい笑顔を浮かべているのはわかった。


「ああ、確かに凄いな……何だか気持ちが軽くなっていく気がする」


 自然の雄大さを眺めて自分がいかに矮小な存在なのかを実感する事で、かつての苦しみもまた小さい事のように思えて心が安らいでいく。


 あるいは……前世の俺もこうして景色をゆっくり眺める時間を作っていれば、あのブラックな会社に囚われている自分が馬鹿らしくなり、違う人生を歩もうと思えたかもしれない。


「ふぅ……ありがとうな紫条院さん。この景色を一緒に見れて嬉しい……」


「え……は、はいっ! 私もこうやって新浜君と一緒に綺麗なものを見れて嬉しいです!」


 無限の空を眺めて心地良い浮遊感の中にいた俺は、軽くなりすぎた心のままの言葉を口してしまう。


 俺のそんな台詞が予想外だったのか、紫条院さんは虚を突かれたようにちょっとだけ動揺し、直後に喜びが滲んだような快活な声で応えてくれた。

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