第92話 ゆらゆらと揺れる海の上で②


「あ、ああ。俺で良かったら話くらいいくらでも付き合うよ」


「ふふ、ありがとうございます!」

 

 高校生には目の毒すぎる水着姿の紫条院さんからお誘いを受ければ、地球上でそれを断る独り身の男子なんていないだろう。

 

 そんな事を頭の片隅で考えつつ、俺は顔を赤面させたまま隣り合う紫条院さんから数センチだけ遠ざかるように座る位置をズラした。


 紫条院さんは気にしていないようだが、近距離すぎてお互いの腰の一部が触れてしまっているこの状況はあまりにも危険すぎる。

 必死に顔に出さないようにしているが、薄布一枚しか隔てるものがない少女の肌に触れ続けているのは俺の精神がヤバいのだ。


「………………」


「……ん? ど、どうした紫条院さん?」


 ふと気付くと、紫条院さんがじーっと俺を見ていた。

 しかも解せないことに、その目の向きは俺の顔ではなく、全身を観察するかのような興味の色が濃い視線だった。


「いえ、新浜君ってとってもいいカラダしてるなって……」


「ちょ!? な、何を言ってるんだ!?」


 多くの場合『エロい身体しやがって』という意味となる言い回しが、清楚なお嬢様である紫条院さんの口から放たれた事実に俺は面食らった。

 

「男の子の身体なんてまじまじと見た事がなかったのですけど……やっぱり筋肉があってガッチリとたくましいですね。女の子とは全然違います」


「あ、ああ。まあここ数ヶ月はランニングとかもしてるからな。それなり引き締まってはきたよ」


 どうやら純粋に男女の身体の違いに興味をひかれただけのようであり、『いいカラダ』にそういう意味があるとは知らなかったらしい。

 俺はふうと安堵の息を吐くが――


(ちょっ、見過ぎ! 見過ぎだって!)


 紫条院さんはなおも興味深げに俺の身体を観察していた。

 普段の生活では目にしない男子の肉体が珍しいのはわかるが、見目麗しい少女に肩やら腹やら胸やらをじっくりと見られるのはあまりにも恥ずかしすぎて、もはや何かのプレイのようである。


「そ、その……そ、そろそろ勘弁してくれないか? 正直死ぬほど恥ずかしい……」


「あ……!? ご、ごめんなさい! わ、私ったら何てはしたない事を……! 完全にセクシャルハラスメントでした!」


 どうやら無意識だったようで、紫条院さんは自分のガン見からようやく我に帰って顔を真っ赤にして謝罪した。


 まあ男女平等の精神に則るなら確かにセクハラとなる行為だが、ハラスメントとは相手が嫌がっているかどうかが焦点だ。


 今回の場合、俺自身が恥ずかしく思いつつも『筋肉がガッチリでたくましいですね!(意訳)』とランニングの成果を褒められたみたいで嬉しいと思っているのでセーフである。


(そもそもこうやって肌を露出しまくってる紫条院さんの隣に座っているだけで、俺の方が現在進行系でセクハラしてるんじゃないかとビクビクしてるしな……。この状況をあの過保護社長に見られたら何て言われるやら)


 ん? そう言えば……。 


「ふと気になったんだけど……お父さんは紫条院さんが海に行く事をすんなり許してくれたのか?」


 女友達だけで行くのならともかく、時宗さんにマークされている俺が発案した男女混合の企画であり、水着着用が必須のイベントである。

 あの娘ラブなパパがよく許したものだと、密かに思っていたのだ。


「あ、よくぞ聞いてくれました新浜君! お察しの通り、全然許してくれなかったんです……!」


 紫条院さんは反省と羞恥の表情から一転させ、可愛く頬を膨らませて言った。その様子から、やはり一悶着はあったらしい。


 その詳細を語り出した紫条院さんによると……予想通り時宗さんは海行きに大いに難色を示したようだ。


『う……み……? 海という事はつまり……お前が水着姿になって、海水浴客やあの小僧の前で肌を晒すということか……!?』

『は……? 何を当たり前の事を言っているんですかお父様?』


 愕然となる時宗さんと、父親がショックを受けている理由が全くわからずに疑問符を浮かべる娘との間で家族会議はスタートした。


 最初、時宗さんは男たちで溢れるビーチに娘を出したくない気持ちをひとまず置いておいたようで、子どもだけで海へ行くのは安全性に問題があるという路線で反対した。


 しかし、すぐさま奥さんの秋子さんから横槍が入り『じゃあ、夏季崎さんを運転手兼保護者として一緒に行ってもらったらいいんじゃない?』と安全問題を瞬殺されてしまい、もの凄い渋面を作ったらしい。


 それでもなお時宗さんは『いやしかし……海で水着は……男の理性というものは障子紙より薄いもので……』などと愛する娘が男子と海に行くことへ抵抗を示した。


 父親としての本音は『可愛すぎる娘が男の前で水着になるなんて嫌だあああああああああ!』という辺りだろうが、流石にそれは理由にならないので後はしどろもどろにネガティブな事を言うしかできなかったのだろう。


「そんな感じでいつまでもブツブツと言うので、私は声を大にしてして言ったんです! 友達同士で海に行くくらい高校生なら普通なのに、保護者代わりの夏季崎さんまで来てくれてもダメな理由は何なんですかって!」


 友達と海に行くという憧れのイベントを前にしたせいか、紫条院さんは相当に強い気持ちで父親に詰め寄ったようで、最愛の娘の猛攻によってとうとう時宗さんは折れた。


 時宗さんは不承不承という感じで許可を出し、最後は感情のこもった言葉で自己主張する紫条院さんを見て、少しだけ頬を緩めたらしい。

 その点を紫条院さんは不思議がっていたが……察するに、自分の言葉で父親を説得する娘の力強い姿が嬉しかったのだろう。


「そんな感じで一筋縄ではいかなかったのですけど、こうして無事に海行きを勝ち取る事ができたんです!」


「おお……頑張ったな紫条院さん」


 戦果を誇るようにむふーっ!と可愛いドヤ顔を見せる紫条院さんを、俺は心から賞賛した。数ヶ月前に比べると、彼女は意思の主張を覚えてどんどん心が強くなっていってる。それは、俺の懸念する最悪の未来を回避するために必要な力であり、喜ばしい事この上ない。


「ふふっ、何せ海ですからね! 友達と海! ずっと憧れていたもののためにはお父様の説得にも熱が入るというものです!」


 俺達の頭上で輝く夏の太陽よりもなお眩く、紫条院さんは無邪気に笑った。

 

「素敵な事に、実際に来てみると想像よりも遙かに楽しいんです! ワクワクするままにみんなと遊び回って、一緒に美味しいものを食べて……はしゃぎすぎて誰かに責められるかもしれないなんて事を考えずに、完全に子どもになって心ゆくまで楽しめました!」


 言葉の端々から、紫条院さんがこうまで喜んでくれている理由の一部が見えてくる。


 俺が海へのお誘いをした際、家族と海に行った事はあっても友達とはさっぱりだったと紫条院さんは言った。

 それはおそらく、美人な紫条院さんが目立つと『調子に乗っている』と言い出す女子が幼少時からいつも一定数いたという話と無縁ではないのだろう。


「だから、本当に新浜君には感謝しているんですよ」


 気付けば、紫条院さんが俺へ微笑みを向けていた。

 浮きマットに乗った俺たちの物理的な距離と同じく、その笑みには家族にそうするような近しい親しみがあった。


「いつもいつも……新浜君は私の喜ぶことばかりしてくれます。全然お返しが追いつかなくて、ちょっとズルいくらいです」


 イタズラっぽい表情を見せながら、紫条院さんはごく近くから囁いてくる。ただでさえお互いの距離が近いのに、いつもとはちょっと違う顔を垣間見せる水着少女に、俺の心臓は激しいビートを刻んでしまっていた。

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