第71話 新浜ママの驚愕
そしてそんな穏やかな雰囲気に満ちた居間に、タイヤがアスファルトの水を跳ねる音と、車のエンジンの唸りが響いてきた。
「あ……母さん帰ってきたみたいだな」
学生の俺たちは夏休みだが、勤め人である母さんは今日も仕事だった。
(今朝の出勤前に母さんから『あんたたちは夏休みでいいわねえ……』ってしみじみと言われたけど、二度目の人生の今はその心境がわかるなー……)
社会人に夏休みはない。
それどころか春休みも冬休みもないのだ。
だから社会人は自由に夏を満喫する学生たちを羨み、定年まで縁がない長期休暇を想い、戻らない学生時代を懐かしむのだ。
ちなみに普通の会社なら盆休みかそれに相当する数日の夏期特別休暇くらいはあるが、俺の勤めていたクソ会社にはそんな上等なものは当然のようになかった。
と、そんなことを考えている間に玄関が開く音がして、聞き慣れた足音がパタパタと居間へ近づいてきていた。
「ただいまー! いやもう、すっごい雨だったわ!」
ハンカチで髪についた雫を拭いながら、母さんはスーツ姿で現れた。
紫条院さんの母親である秋子さんほどではないがとても若く見えるタイプで、高校生の息子がいる年齢には見えない。
毎日仕事にいくため、ウェーブショートの髪も丁寧にセットしており、肌のメンテや化粧の手抜かりもないバリバリのキャリアウーマンである。
本来――そう、本来とても明るい人だ。
どこかの馬鹿息子がブラック企業で擦り切れる様を見せつけられでもしない限り、とても健やかな生き方が出来る人なのだ。
「ママおかえりー、今日は早かったね」
「ええ、雨がどんどん強くなってきたから早めに帰ることになって……あら?」
そこで母さんは家族以外の存在に気付いたようで目を瞬かせる。
「あ、すみません、どうもお邪魔しています……!」
慌てた様子で立ち上がった紫条院さんが、母さんにぺこりと頭を下げる。
育ちがの良さがよくわかる美しいお辞儀だった。
「あ、はい……その……香奈子のお友達……?」
「いえ、新浜君の……心一郎君の友達の紫条院春華といいます。どうも初めまして!」
「あ、どうもご丁寧に……心一郎の母の新浜美佳です……ってこの子の友達……?」
やや緊張しながらもいつもの咲き誇る花のような笑顔で自己紹介する紫条院さんに、母さんはまだ頭の整理が追いついていない様子でお辞儀を返す。
「ちょ、ちょっと心一郎、どういうこと!? あんたのお友達にしてはこう……このお嬢さん綺麗すぎるでしょう!?」
「どういう意味だよオイ!?」
そりゃ俺と比べたら月とスッポンなのは認めざるを得ないが!
「い、いやでも、本当にどういう状況なの? こんな可愛い子があんたの友達で、よく見たらあんたのシャツを着てて……え、え、え?」
いかん、シチュエーションもさることながら紫条院さんがとんでもないレベルの美少女なせいで母さんがめっちゃ混乱してる。
「まあ、ママにしてみれば『ある日家に帰ったら冴えない息子がお姫様みたいな美少女を家に連れ込んでいた件』って感じだよねー」
「冴えないは余計だアホぉ!」
というか連れ込んだのは俺じゃなくてお前だろ!
俺的には久しぶりに紫条院さんに会えてめっちゃハッピーだから密かに『でかしたぞマイシスター!』って思ってるけどな!
「ええと、ちゃんと説明するから落ち着いて聞いてくれ母さん。俺も香奈子から話を聞いたばっかりなんだけど――」
自分の息子がどうやってこんな美少女を連れてきたのかがさっぱり想像できない様子の母さんに、俺は事情の説明を始めた。
「そ、そうだったの……! それはもうなんてお礼と言ったらいいか……!」
紫条院さんが香奈子の財布を届けたこと及びその後の経緯を説明すると、母さんは紫条院さんに何度も頭を下げた。
「い、いえ、お願いですから頭を下げないでください。もうすでに心一郎君と香奈子ちゃんにもお礼を言われて逆に申し訳ないくらいで……」
新浜家全員から頭を下げられた紫条院さんは、ちょっと困った様子だった。
おそらく自分が雨の中ダッシュしたことなんて本当に何でもない行為だと思っているのだろう。
(それにしても……『心一郎君』って呼び方すっごくいいな……。紫条院さんが下の名前で呼んでくれると心がフワフワと浮かれる……)
ふと俺は妄想する。
紫条院さんがごく自然にそう呼んでくれる甘い関係に至った俺たちを。
『心一郎君!』
『ああ、なんだ春華?』
『ふふ、呼んでみただけです』
(いい……古典的だけど紫条院さんならやってくれそう……)
そこまで頭をピンク色にしたところで「兄貴、顔がキモいって」と香奈子がボソリと呟き、ようやく我に返る。
いかん、久しぶりに紫条院さんに会えて俺も相当浮かれているらしい。
「それにしてもあんまり可愛い子だからオバさんびっくりしたわ……ってあれ? 紫条院さんって……まさか心一郎がよく話していた女の子!? え、えええ!? 実在したの!?」
「おいいいいい!? 今まで何だと思ってたんだよ!?」
今世において母さんから『最近学校はどう?』と聞かれるたびに俺は紫条院さんの話をしていた。昔から気弱でいじめられがちだった俺を心配している母さんに、息子の高校生活は充実していると安心してもらうためだったのだが――
「い、いやだって……! すごい可愛くて優しい女の子と仲が良いとか、そういう設定で見栄をはっているとばかり……! まさかこんなお姫様みたいな子と本当に友達だとは思わないじゃない!」
香奈子も最初はそうだったが、妄想扱いだったのかよおおお!?
そりゃ根暗でオタクな自分の息子がいきなり美少女と友達になったとか、俺が親でも悲しい空想扱いするかもしれないけどさあ!
「あ、あの……新浜君……家で私のことを話してくれるのは嬉しいですけど、もしかして実際より色々と話を盛ってしまってます……? 私はそこまで可愛くなんて……」
「いやいやいや、春華ちゃんはめっちゃ可愛いって。その点に関しては兄貴の話は盛ってるどころか足りてないまであるから」
「か、香奈子ちゃん!?」
恥ずかしそうに頬を赤らめておずおずと言う紫条院さんに、香奈子が『その美人度で可愛くないとか無理があるでしょ』とばかりにピシャリと言う。
そして俺と母さんは無言でそれに賛同し、ウンウンと首を縦に振る。
「それにしても……心一郎がいつもお世話になってるなら、なおさらお礼を言わないといけないわね。迷惑をかけていないといいんだけど……」
「と、とんでもないです! お世話になっているのは完全に私のほうで……! 新浜君には感謝してもしきれません!」
「そ、そうなの……?」
勢い込んで言う紫条院さんの熱烈な反応が予想外だったのか、母さんは驚いた顔を見せる。
「はい! 特にお世話になったのは期末テストの時です! 新浜君は放課後にずっと私の勉強を見てくれていたんですが、その教え方がすごく上手で――」
(ちょ……紫条院さん!?)
紫条院さんは何故かハイテンションかつ嬉しそうに俺とのエピソードを朗々と語り出し、今度は俺が赤面する番だった。
何せ、とにかく俺のことを褒めてくる。勉強のためにこんな資料を独自に用意してくれたとか、それだけ自分に時間を割いても自分の勉強はしっかりやれてて凄いとか、とても上機嫌で語るのだ。
「そ、それでそれで!? その時にこの子なんて言ったの!?」
「私もそこ凄く気になる!」
しかも母さんも香奈子もめっちゃ食いついてる!?
「はい、『俺を頼りにしてくれて嬉しいから、その信頼に最後まで応えたい』って言ってくれて……とても嬉しかったです」
「「おおおおおおおおお!?」」
いや、別に隠しているわけじゃないけど台詞の一つ一つまで身内に暴露されると流石にかなり恥ずかしい……!
というか二人とも母娘で盛り上がりすぎだろ!?
「それで私はかつてない好成績で、新浜君は総合順位1位だったんです! それだけじゃなくて、他にも行事や普段のことでもいっぱい力になってくれました! 新浜君は本当に凄くてとても素敵な人です!」
澄み切った蒼穹のような笑顔で、紫条院さんは言い切った。
胸の内をそのまま言葉にしているのは誰の目にも明らかであり、その気持ちはとてつもなく嬉しいが……それを親にも妹にも聞かれているのは羞恥の極みであり、思わず赤くなった顔を手で覆ってしまう。
(ね、ねえ、香奈子……この子ってもしかして外見だけじゃなくて中身もすごく純真で綺麗なの……?)
(うん、マジ天使。だって今日だって見ず知らずの私のために雨の中をダッシュしてくれたんだよ?)
紫条院さんの天使の笑顔を目にした母さんが、ボソボソと小声で香奈子に呟く。
ちなみにその内容は香奈子の真横にいる俺には丸聞こえである。
(し、しかもこの感じ……! もしかして……単なる友達じゃなくて、心一郎に対して脈があるの……!?)
(うーん、天然さが入るから読みにくいけど……兄貴が春華ちゃんの中で大きな存在になってるのは確実っぽいよ)
(どうしよう……いい子すぎて母さん全力で外堀を埋めたくなってきたわ……!)
(ふふふ、私は最初っからその気だったよママ……!)
そうして母さんと香奈子は頷きあい、ニヤリと笑みを作る。
ちょおおおおお!?
二人して何を妙な同盟を組んでるんだ!?
というか親子揃って紫条院さんに対しての好感度の上昇速度が爆速すぎる……!
『というわけで頑張りなさいね!』的な笑みとサムズアップを向けてくる母親と妹に、俺は反応に困って曖昧な表情を返すしかできない。
ぐおお……生まれて初めて知ったけど、母親が恋愛事情を応援してくれるのってメチャクチャむずがゆい……。
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