第38話 愛しい少女の手料理に興奮しないわけがない
私の名は
紫条院家で家政婦として働いている23歳だ。
紫条院家は歴史ある名家であり、御当主がいる本家も、その家に婿入りして次期当主となった時宗社長が住まうこの総家も超セレブだ。
したがって、そこに勤める家政婦や運転手一人とっても確かな身元が要求され、私も両親が紫条院家に長く勤めていることが決め手となって短大卒業と同時に採用された。
この家の人間はセレブにありがちな意地の悪さがなく、大会社を経営する時宗社長も、名家の令嬢である奥様も、その一人娘である春華お嬢様も皆いい人だ。
なので、一応身分としては紫条院家が経営する家事代行サービス会社の従業員である私だけど、やや時代錯誤ながら自分はこの家に仕えている使用人だという意識が強い。
(だけどやっぱりご家族はみんなちょっと変わってるのよね……)
時宗社長は超がつくほどの親馬鹿で、娘から『すごいですねお父様は!』と言ってもらえた日には自室で抑えきれないニヤニヤ顔のまま床をゴロゴロと転がっているのを目撃してしまった。(もちろん見なかったことにした)
お嬢様の春華様はその男殺しとも言える美貌とスタイルを持ちながら、中身はぽやぽやの超天然だ。自分の魅力に無頓着であり、何人もの男の子の心を無自覚に折りまくる傾向がある。
そして奥様はと言うと――
「はぁぁぁぁぁぁぁ……! 今の聞こえた!? 『俺は断然紫条院さんが作ったものを食べたい!』って! す、すごいわ……! あの春華が照れるなんて!」
リビング入り口の扉の隙間から、お嬢様とそのお客である新浜君という男の子を大興奮でウォッチングしていた。
とてもじゃないけど、由緒正しき名家のセレブのすることではない。
「奥様……いくらなんでも覗きはあんまり良い趣味とは……」
「の、覗くつもりはなかったのよ!? けれどその……ちょっとだけ様子を見ようと思ったら理想的な青春が発生していたからつい……」
奥様が育った紫条院家本家はこの総家とは違って、とても厳格だったらしい。
そのため自由恋愛も制限されて……仲の良い家政婦が教えた少女漫画にドハマりしたとのことだった。
その影響から10代の少年少女の青春を格別に尊いと思うようになった奥様にとって、恋愛の気配が一切なかったお嬢様が男の子を連れてきた……というのはテンション上がりまくりの事態なのだろう。
「別に娘の青春に水を差す気はないのよ? でもその……春華よ? あの良くも悪くも子どもっぽいあの子が男の子を招いて食事を作りたいなんて……相手の子が気になって気になって仕方ないじゃない。そういう冬泉さんは興味ないの?」
「それは……もちろん興味あるに決まっています。春華お嬢様が連れてきた男の子なんですから」
私もクールを装っているけれど、今日の『ご招待』のことはとてつもなく気になっていた。
というか、奥様にこっそり『春華が招待したのは男の子よ~』と教えてもらった使用人一同(時宗社長には黙っておくようにとの業務命令付き)は誰もが今日の招待を気にしていると思う。
時宗社長が溺愛するだけあり、お嬢様は御伽噺の世界からやってきたのかと思えるほどの可憐な容姿と綺麗な心を備え……そしてよくも悪くも心がフワフワしている。もう高校生だというのに好いた惚れたの気配がない。
それがある日から急に『仲の良い友達』の話が多くなり、文化祭に着ていく浴衣の試着を手伝った時なんか「少しは綺麗に見えるでしょうか……」と乙女そのものの顔をしていて絶句するほど驚いたものだ。
(今朝も『その友達は必ず約束の時間の15分前に来ちゃうんですけど、お客様より遅く着くなんてダメです!』と言って早く出て行ったし、着ていく服もすごく選んでいたわねお嬢様……ああもう、本当に可愛い方なんだから)
「ともかく……あの新浜君という子にアレコレ聞くのはもうちょっと待ちましょう。今はお嬢様のおもてなしの時間なんですから」
「はぁい……あなたって若いのにしっかりしてるわねぇ……私があなたくらいの頃なんて今の夫のことばかり考えている恋愛脳だったのに……」
「ふふっ、お褒めに預かり光栄です」
胸の中に木霊する「私だって奥様みたいに恋愛脳になりたいですけど相手がいないんですよ! 誰かいい男を紹介してください!」という言葉を飲み込み、私はにっこりとした家政婦スマイルを浮かべた。
「お……おおおおおおおおおおおおお……!」
紫条院家の食堂テーブルに広がる料理の花畑に、俺は心から感嘆の声を上げた。
卵とタマネギがたっぷり入ったポテトサラダ、しっかり甘酢が染みたアジの南蛮漬け、アンチョビやチーズなどの色とりどりの具が乗ったフランスパンのカナッペ、梅ソースがかかった豚肉の大葉巻き、ロゼ色の断面を見せるローストビーフ。
実に絢爛で、もはやランチの枠を超えて完全に晩餐だった。
「すごい……すごいよ紫条院さん! いや本当にすごい! 見た目からしてすごく美味そうだ……!」
「ありがとうございます。そんなに興奮してもらえるとは思っていなかったですけど……我ながらとてもよくできました!」
語彙が『すごい』以外死んでしまった俺の絶賛に、紫条院さんはエプロンを脱ぎながら照れくさそうに応えた。
しかし実際すごい。
紫条院さんの料理の腕は聞いたことなかったが、ここまで出来るとは……。
「さてそれじゃあ私も座らせてもらって……どうぞ召し上がってください!」
「ああ! いただきます! ……美味いっ!」
紫条院さんの料理は、見た目を裏切らずしっかりと美味かった。
ポテトサラダはジャガイモの味が濃く、アジの南蛮漬けは甘酢の配合具合がよく全く飽きない。
フランスパンのカナッペもしっとりと食べやすくすることを工夫しているようで、アンチョビもハムもチーズもアボカドも全部美味い。
「この豚肉の大葉巻きも梅ソースのおかげですごくスッキリと食べられる……本当に美味しい……」
「そう言って貰えると嬉しいです! 実は焼き物だと形が崩れて失敗することが多かったので、料理の先生のアドバイスで煮込み料理とかオーブンで時間どおりに作ったものばかりなんですけど……」
紫条院さんが恥ずかしそうに笑う。
なるほど……そう言えば紫条院さんはあんまり手先が器用じゃないって言ってたっけ。事前に仕込みがしやすい料理を中心にチョイスしたのかと思ったらそういう苦手な事情もあったのか。
「それにしても、手間がかかる料理ばかりよくこれだけ……」
味を確かめるほどに、俺の中で多幸感が膨れ上がっていく。
俺も料理をするからわかるが、ここに並んでいるものの多くは手がかかる面倒な料理だ。
ポテトサラダ一つ作るにも、ジャガイモの皮をむいて茹で、力を込めてマッシュしてスライスしたタマネギとハードボイルドの卵と合わせて……と中々の苦労が要る。
それをこんな品数……俺をもてなすためだけに……。
「ありがとう……正直、美味すぎて嬉しすぎて……涙が出そうだ」
前世でも今世でも、母さん以外からこんなふうに心尽くしの食事を作って貰うなんて初めてだ。
他人が自分のために苦労してくれたという事実こそ……感動を増幅する何よりのスパイスとなって胸に染み渡る。
「そこまで言って貰えると……私も凄く幸せな気分になります。新浜君に喜んで貰えるといいなって、そればかり考えて準備しましたから」
照れと嬉しさの双方からか、紫条院さんは頬を赤くしながら微笑む。
「でも新浜君。忘れないでくださいね?」
「え?」
「今、新浜君が私の料理を食べてそう感じてくれているみたいに……私があの勉強会でずっと助けて貰って、どれだけ嬉しかったのか」
言って、紫条院さんは笑みを深める。
「私のために力を尽くしてくれたのがどれだけ心に響いたのか……それが伝わったらいいな、と思っています」
(ああもう、またそんな可愛いことを……)
今貴方が嬉しいのは貴方が私を嬉しい気持ちにしてくれたお返しだから――ここでそう言えるあたり、改めて本当に素敵な女の子だ。
「ああ、忘れない……すごく伝わった」
お礼の心はしっかり受け取ったと、想いをこめてそう応える。
そして、間もなく最後に残っていたローストビーフの皿も空になる。
ブラウンソースが秀逸な、素晴らしい火加減の肉だった。
ふう、全部平らげたけどすごく美味しかったな……。
(ふふ……そう言えば香奈子が『でも食事会って大丈夫なの兄貴? 漫画だとお嬢様ってメシマズだったりするじゃん』とか言ってたけどそんなベタベタな話はなくて良かったな……ん?)
料理に感動していて気付いていなかったが、紫条院さんの皿にのっている料理の分量が妙に少ない。
あれ? そんなに小食じゃなかったような……?
と、その時、食堂に隣接しているキッチンから電子音が響き、何かのタイマーが終了したことを知らせてきた。
「あ、ちょうどオーブンで焼いたものが出来上がったみたいなので次を持ってきますね」
「へ……『次』?」
困惑する俺を残し、紫条院さんはキッチンの中へ消えていく。
「失礼します」
「おわっ!?」
近くからいきなり声が聞こえて、俺は思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
慌てて目を声の方向に向けると、そこには20代前半ほどの年齢の、エプロンを着たポニーテールの女性がいた。
「私は家政婦の冬泉と申します。新浜様、空いたお皿を下げさせて頂きますね」
「あ、はい……ありがとうございます」
生返事を返す俺をよそに、冬泉さんという家政婦の人は多くの皿を腕に乗せて、大量の皿を一気に抱え込む。飲食店でもたまに熟練のウェイターがやってるアレだ。
「それとその……新浜様もよくご存じでしょうが、春華お嬢様は天然かつ生真面目な方ですので……一度力を入れ始めると徹底的にやってしまうのです」
「はい……?」
意味深な言葉を残して、冬泉さんは食器を抱えて去って行く。
な、なんだ? どういう意味だ?
「お待たせしました! 次のメニューです!」
「え!?」
冬泉さんと入れ替わりで戻ってきた紫条院は、配膳用ワゴンを押していた。
そしてその上には――さっきと同様かそれ以上の料理が乗っている。
え、いや……今なかなかガッツリとしたメニューを頂いたばかりのような……。
俺の困惑をよそに、紫条院さんはテーブルの上に再度料理の花畑を広げていく。
ポテトとチキンが入った熱々のチーズグラタン、ナス、タマネギ、人参などたくさんの野菜がしっかり煮込まれているラタトゥイユ、スパイスが蠱惑的な香りを放つタンドリーチキン、色合いも美しいイカとエビのマリネ、よく味が染みてそうな煮込みハンバーグ――
まさかの絢爛ランチ第二陣の登場だった。
「え、ええと……てっきりさっきのメニューで全部かと……」
「ええ、私も最初はあれくらいのメニューで十分かと思っていましたけど……ネットで『男子高校生は女子とは比べものにならないくらい食べる』『一食につきどんぶりメシ5、6杯はペロリ』と書いてあるのを見たんです! なので絶対に満足してもらえるようにとにかく沢山作りました!」
いや、それは……!
間違いじゃないけどガチでやってる運動部とかの話だから……!
「もちろん多かったら残して構いませんので、好きなだけ食べてくださいね!」
紫条院さんは笑顔であっさりと言うが、俺にとってそれは難しい話だった。
なにせ紫条院さんの手料理だ。
何よりも貴重でありがたい、俺にとって奇跡とも言える恵みだ。
それを残すなんて、俺の中の馬鹿な男子の部分がどうしても許してくれない。
(腹はすでにそこそこいっぱいで明らかに胃の許容量オーバー……けど俺は今人生最大の食欲を誇る16歳の肉体なんだ! めっちゃ美味しそうだしこれくらいなら食い切ってみせる!)
「改めてこんなに用意してくれてありがとう……! さっそく頂くよ!」
腹がはちきれても一品たりとも残してなるものかと、俺は気合いを入れて居並ぶ料理へ突撃した。
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