夢の中の少女

加藤ゆたか

夢の中の少女

『黄色い線の内側まで〜お下がりください〜。』

 はっと気付いた時、私……水野勝巳は駅のホームに立っていた。

 ここはいつも通勤で使っている駅だ。見慣れたホームの見慣れた看板と、数え切れないほど聞いた駅のアナウンスの声が聞こえている。目の前に到着した青い線の入った電車の車体もいつもと同じだ。多くの人たちが駅のホームに並んでドアが開くのを待っている。

 ドアが開いた。私は混乱していたが、考えるのは後にして今はとにかく電車に乗らなければならないと思ったので、流れに合わせて車両へと歩を進めた。私はいつも通勤で電車に乗る時は車両の中心まで入っていきそこで目的地までつり革につかまる。私が降りる駅は終点である。慌てる必要はない。

 電車に揺られ、いつもと変わらない窓の外を流れていく風景を眺めて考えていた。

 なぜ今日、駅のホームで急に目を覚ましたような錯覚に陥ったのだろう? 私はいつもと同じように会社に通勤しようとしているだけだ。疲れていて少しの間寝てしまい、夢でも見ていたのだろうか? そういえばどんな夢を見ていたのか思い出せない。

 終点の駅に着いて電車を降り私はいつものように駅の構内を進む。行き交う人たちを避けながら、駅の出口に向かう。いつもの通勤と何も変わらない。私はいつものように会社に着いた。


「おはよう。」

 私は職場に着き、いつものように朝の挨拶をしながらオフィスに入った。

「え……おはようございます、水野さん。」

「黒木くん、おはよう。」

 黒木くんは私が信頼している部下だ。若さのせいかカッとなりやすいところがあるが、その情熱は正しく仕事に向けられていて期待以上の成果をあげてくれる。

「あ、あの……水野さん。今日はどうして?」

 なんだ? 黒木くんの様子が違うな。気のせいか、他の同僚たちも不思議そうな顔で私を見ている。

「どうしてって? 今日は仕事だろう?」

「いえ、あの……。」

 私はいつものように自分のデスクまで歩いて行くと、そこに私のデスクは無かった。これはどうしたことだろう? いつもと違う光景が目の前にあった。

「あの……水野さん、先月退職されたじゃないですか。」

「退職……?」

 私が退職? 記憶にかかったモヤが晴れるような気がして、私は少しずつ思い出していた。

「そうだった……。宝くじが当たって……私は第二の人生を始めようと……。」

「そうですよ! 宝くじ、あんなに喜んでいたじゃないですか。忘れちゃってたんですか?」

 そうだ。送別会もやってもらったのになぜ私は忘れてしまっていたのだろう? 同僚たちに見送られ、黒木くんに花束を渡され、私は二十年勤めたこの会社を去ったのだ。

「いや……、恥ずかしながら……、今日朝から変だったんだよ……。すまない。どうかしていた……。」

「大丈夫ですか、水野さん?」

「大丈夫だ。心配ない、黒木くん。失礼したね……。」

 私は慌ててオフィスを出た。自分の行動が信じられない。私はそのまま自分の家まで帰りスーツを脱いだ。体温計で熱を測る。……熱はないようだ。

「何がどうなっているんだ?」

 私の部屋はいつも通りである。職場から電車で三十分のところにある2LDKのマンションで私は一人暮らしをしている。自分で点けなければ点かない電気は点ける気にならず、部屋は窓の外から入ってくる光だけで薄暗い。

 私はどうしてしまったんだ。スマホで自分の銀行の口座残高を見てみる。六億円に少し足りない額がここにある。宝くじが当たってから毎日毎日飽きもせず何度もこの画面を見たことを思い出す。宝くじが当たったのは夢ではない。

 ショックを受けすぎたのか手が震える。指先に力が入らない。私はベッドに横になった。心を落ち着かせるために深呼吸をする。……やがて私は自分が眠りに落ちそうになっていることに気付いた。今日はこのまま寝てしまうのもいいかもしれない。私は眠気に身を任せることにした。


 私は夢の中で住宅街を歩いていた。住宅が建ち並ぶが滅多に人とすれ違わない。道を走る自動車も無い。車がすれ違えるくらいの幅のその道を私はゆっくりと歩いていた。

 道を歩く私に向かって、一人の少女が話しかけてくる。年齢は中学生くらいだろうか。私はその少女のことをよく知っているように思われた。髪を肩までの長さに切り、まだあどけない笑顔を私に見せるその少女は、私に何かを話しかけようとしている。

 しかし私はその少女の言葉を聞くことができなかった。私はこれを夢だと認識していた。だから少女が夢の中だけの存在で、実際にはいないものだとわかっていた。少女は私に何かを言った後に私の前を歩き出した。時折私を振り返り私に笑顔を見せる。私はこれは夢なので少女は私にこれ以上近づかないとわかっていた。ただ夢の中の少女がとても愛おしく、できるならばこの夢が覚めないでいて欲しいと私は思った。

 目が覚めた時、私は夢の中の少女のことをよく覚えていたため、少しの喪失感を感じた。

 私は独り身である。もしも結婚でもしていたらあの少女のような年齢の娘がいたかもしれないなどと少し感傷的な気持ちになってしまったようだ。夢なんてすぐ忘れるものなのに。

 眠りから目が覚めた私は昨日のことを覚えていた。なぜか気付いたら立っていた駅のホーム、恥ずかしながら元職場に出勤してしまったこと、銀行口座の残高、すべて現実のことだ。


 過ぎてしまったことは考えても仕方がない。これからのことを考えなければ。

 もしも認知症だったとしたら……。時間はいくらでもある。病院にでも行った方がいいだろうか?

 今の私には独りで生きていくには十分すぎるほどのお金がある。これで好きなことをやって生きていこうと思ったのだ。……仕事だって嫌いだったわけではないが、残りの人生を考えたらやっぱり時間の方が惜しいと思ったのだ。まずは行きたかった場所に旅行に行って、好きな物を好きなだけ買って……。事業を興そうだなんて大それたことは考えていない。大金を手にしたと言っても、そんなことに使ってしまえばあっという間に無くなってしまう程度の金額である。これからの人生は自分のために使うと決めたのだ。

 ……そう決めてから、気付いたら一ヶ月も経っていた。今のところ休日がずっと続いているだけの生活である。職場が懐かしすぎて無意識にあのような行動を取ったのだろうか? ずっと仕事だけの人生だったからな。急に暇な時間が手に入ってもすぐには行動に移せないようだ。まあいい。時間はいくらでもある。

 今日もテレビで見たかった映画を見ているだけで終わってしまった。なんと贅沢な時間の使い方ではないか。

 夕食を食べた私はベッドに横になった。またあの少女の夢を見れるだろうか。いや、今まで見たいと願った夢を見れた試しがないのはわかっている。しかし、またあの夢の少女に会いたいと私は思って眠りについた。


 夢の中で私はどこかで見たことがあるような道を歩いていた。どこかで見たことがあるような建物に入っていく。そこにあったのはどこかで見たことがあるような部屋だった。どこで見たのだろうか。……少し考えて私はそれが小さい頃に住んでいたアパートだと思い出した。そうだ、こんな部屋だった。今はこのアパートは取り壊されてもう無いはずである。

 私は誰かに呼ばれた気がして窓の方を向いた。そこにはあの少女がいた。少女は私にあどけない笑顔を見せてまた何かを言っている。

 そうだ、私はこの少女は美香という名前だったと思い出した。美香は私の前で頭に手を乗せておどけるような仕草をして笑っている。何かを話したかと思うと嬉しそうに飛び跳ねている。美香は年齢よりも幼く見える。

「美香。」

 私は少女の名前を呼んだ。

「お父さん、どうしたの?」

 美香は私の呼びかけに答えた。

 美香。……美香は私の娘だった。

「いや……。」

 私は美香に何か伝えなければならないことがあったはずなのに思い出せなかった。ここは夢の中である。私は、時が止まったようにじっと私を見て私の返答を待っている美香を前にして焦った。何か伝えなければ……。

 私は汗だくになって目を覚ました。頭に急速に血が巡るような感覚に襲われ気分が悪くなる。今のは夢だ。美香に会ったのは夢の中だ。美香が私の娘だというのも夢だ……。

 呼吸を整えて水を一杯飲んだ私はふと自分のスマホの連絡帳を見た。今の私には確信があった。やはりそこにその名前はあった。美香。

 美香は実在する。そして私の娘だ。スマホの写真には確かに美香の写真が何枚も保存されていた。なぜ忘れていたのか? なぜ私は自分を独身だと思っていたのか?

 ピンポーン。

 部屋の呼び鈴が鳴った。ドアホンに映るのは美香だった。今日は美香が私を訪ねてくる日だったのだ。


「今日は買い物に連れて行ってくれる約束でしょ。」

 玄関に立つ美香は夢の中と同じように中学生にしては幼さが残る仕草で私の準備が整うのを待っていた。私はまだ美香のことを完全には思い出せない。でも、約束のことは思い出した。今日は土曜日で美香をショッピングモールに連れて行く約束をしたのだ。

「ごめんな。忘れてたわけじゃないんだよ。」

 私は慌てて着替えて上着を着て靴を履いた。私の準備が出来たのを確認すると、美香はどんどん一人で先に歩いていってしまった。私は慌てて追いかけた。

「お父さん、仕事辞めたんだって? 大丈夫なの?」

 私がやっとで追いつくと美香は私に聞いた。

「大丈夫だよ。言っただろ、宝くじが当たったから働く必要は無いんだよ。」

「それじゃ何でも欲しいもの買ってもらえるって思っていい?」

「まあ、限度はあるけどな。」

 私たちは電車に乗り、ショッピングモールがある駅で降りた。さすがに休日だけあって人出が多い。

「あっちでなんかイベントやってるみたい!」

 私は落ち着きなく歩き回る美香に連れ回されてヘトヘトになっていた。それでも私は全然苦にはならなかった。私は美香と一緒にいて楽しかったのだ。

「ねえ、お父さん。私ね、これが欲しい!」

「ゲーム機?」

 美香は赤い箱のゲーム機を指さして言った。美香の『何でも』と言って買って欲しいとお願いするものがこれか。私は脱力したのと同時に少し安堵した。美香は変わっていない。まだまだ子供なのだ。

「いいよ。その代わりちゃんと勉強もするんだぞ。」

「お父さん、ありがとう!」

 美香は飛び跳ねて喜んだ。後でゲームをするのを想像してウキウキしているのか、美香は店を出てもスキップをしながら歩いている。

「あ、ピアノの音が聞こえる。」

 どうやら駅の前のストリートでピアノの演奏会が始まったようだった。

「美香もピアノを続けていればあれくらい出来るようになっていたのかもなぁ。」

「無理だよ。全然才能なかったんだから。」

 美香がピアノをやめてしまったのは小学三年生の時だ。もう五年も前か。

「それより今度は遊園地に連れて行ってほしいな。観覧車にモノレール。また乗りたい。」

「わかったよ。これからは時間はいくらでもあるからな。旅行にだって行けるぞ。」

「んー、でも冬休みは家に居たいし。それなら来年の夏休みにどこか連れてって。」

「来年は受験じゃないのか?」

「そっかー。私、受験やだなあ。」

 美香は相変わらず早足で私を置いてどんどん先に行ってしまいそうになるが時々私の方を振り返り距離を確認していた。私と目が合う度に、美香は笑顔を見せてくれる。


 美香と一緒に家に帰ってドアを開けると、そこにはエプロン姿の見知らぬ女性がいた。誰だ? わからない。美香はその女性のことを気にもとめず部屋の中に入っていった。もしかして美香の母親? つまり私の妻? いや、全然思い出せない。

 私は沈黙した。女性も私を見て沈黙する。美香は部屋の奥に行って姿を見せない。私は迷いながら一言発した。

「誰だ?」

 女性は何も答えなかった。私は玄関から部屋の中に入ることができず固まった。

「お父さん! 何してるの? はやく持ってきてよ!」

 美香の声がした。今日買ったゲーム機は私が持って歩いていたのだ。

 私はそのまま部屋に上がり女性を無視して美香の元に荷物を届けた。美香はそのまま設置をしろと言うので私はゲーム機の箱を開けてテレビに繋ぐ作業をした。正直やることが与えられたことは女性から気を逸らすことができてありがたかった。

 私がゲーム機の設置を終えたころ、美香がダイニングから

「ご飯できたよ。」

と声をかけてきた。

 私がダイニングに顔を出すと、あの女性はいつの間にか部屋のどこからもいなくなっていた。女性はその後再び姿を見せることはなかった。


 美香との生活は普通で平凡だった。朝起きて朝食のパンを焼き、美香が登校するのを見送ると私は、ぶらりと外に出て映画館や公園のベンチで暇を潰していた。公園では小さな子供が走り回っている。

「何か仕事をした方がいいだろうか。」

 今更になって私は仕事を辞めてしまったことを少し後悔していた。今まで仕事だけの人生だった。他には趣味も何もない。打ち込めるものもない。

 いや、仕事を辞めたからこそ今、私は美香とも向き合う時間が出来てこのささやかな幸せの時間を過ごすことができている……。

 しかし、このまま美香が成長して大人になって、やがて私の元から巣立っていったら? 独りになった趣味のない私には何も残らないだろう。

 趣味か。何がいいだろうか?

 そうしてボーッとしているうちに、そろそろ美香が学校から帰ってくる時間になっていた。私は家に戻った。美香が帰ってきたらいつも二人でスーパーマーケットに夕飯の材料を買いにいくのだ。

「今日はカレーにしようか。」

「お父さんが料理当番の時、いつもカレーじゃん。」

「まあ、そうだな。」

「お父さん、時間あるんだったら料理の勉強してよ。」

「料理か。それもいいか。」


 それから私は料理に没頭した。本を見て基本を学び、和洋の定番の料理から美香の好きな料理まで何でも作れるようになった。

「お父さん料理うまくなったよね。お店出したら?」

「そこまでじゃないよ。」

 私は美香のこの笑顔をいつまでも見ていたいから料理をしているのだ。客に振る舞いたいわけじゃない。

「美香は将来何になりたいんだ?」

「将来? んー、まだ考えてないけど、いろんな国に行ってみたいかな。」

「それなら英語の勉強をしないとダメだな。この成績じゃ夢のまた夢だぞ。」

「わかってるよ!」

「ねえ、お父さん。私、今度の夏は海外に行きたいよ。」

「海外か。そうだな。どこに行きたいんだ?」

「やっぱヨーロッパかなぁ。」

「観光プランは美香が考えてくれよ。これが第一歩だぞ。」

「いいの!?」

「ああ。」

「やったー! 約束だよ!」

 狭い部屋の中でも飛んで喜びを表す美香のはしゃぎようは子供っぽさがあり微笑ましい。

 私は美香が世界中を飛び回り活躍する姿を想像しようとした。でもなぜかそれは出来なかった。目の前にいる美香以外の姿を思い浮かべることができなかった。

「どうしたの? お父さん。」

「いや、なんでもないよ。」

 なんだろう。私は急に不安になった。この幸せはいつまで続くのだろうか? いつか終わるんじゃないのか。いや、終わることはわかっている。美香はずっと一緒にはいない。大人になれば独り立ちするのだ。でもそれが想像できない?


 私は部屋のベッドで目を覚ました。何も変わらない部屋と日常。でも何故寝ていたのか。記憶が飛んでいる。

 私は起き上がり家の中を見て回った。美香がいない。美香の部屋はそのままだ。今の時間は? 七時。まだ朝早い。今日は日曜日だ。美香は学校に行ったのではない。

「美香?」

 私は美香の名前を声に出してみたが当然何も起こらなかった。しかし、私には美香はいなくなってしまったのだとわかった。美香はどこにもいない。ここは美香のいる世界じゃない。

 美香を取り戻すために私は家を出た。私は目的地もわからず走った。しかし、思うように走れなかった。走っても走っても景色が変わらない。足が思うように動かない。なんだこれは!? まるでこれじゃ夢の世界じゃないか!!

 体がだるい。汗が噴き出る。

 私は叫んだ!

「神様! 私はどうなってもいいから! 美香を! 美香の命を救ってください! 私の命を代わりに捧げます!」

 心臓が締め付けられる。意識が遠のくようだ……。

 私は気を失いかけるその間際に美香の姿を見た。美香は私に気付かない。……でもそれでいいのだ。私がどうなろうとも美香が無事であれば。


 私は見知らぬ天井で目を覚ました。程なくして自分が畳の上の布団に寝ているのだとわかった。

 目を赤くして泣きそうな顔で、私の顔を覗き込む青年がいる。

「お父さん。目を覚ましたんだね。」

 お父さん……。そうだ、この青年は私の息子の光一だった。私には娘はいない。私にいるのは息子だったのだ。

「お母さん! お父さんが目を覚ましたよ!」

 光一が誰かを呼ぶ。ふすまを開けて四十代くらいの女性が入ってくる。彼女は妻の孝子だ。思い出した。

「あなた! わかりますか? 会社で急に倒れて運ばれたんですよ!」

 そうだったのだろうか? それでは宝くじも会社を辞めたのも美香も全て夢だったのか? あの生活はすべて夢だったのか……?

 私は口をあけて何かを話そうとしたが声が出ない。これも夢か……。私はゆっくりと目を閉じた。

 美香……存在しないのか?

 何故か目頭が熱くなる。私がもう一度目を開けると、そこはいつもの食卓だった。目の前に美香がいた。美香。しかし、その美香は私を見てただただ微笑むだけで何も話そうとはしない。私も声が出せない。まるで写真を見ているようだ。美香は何も言ってはくれない。涙が出てくる。目の前のこの美香は本物ではないのだ。

 私は再び目を閉じた。

 もう私にはわかっている。

 私は自分の意識が暗い底に落ちていくのを感じた。そのまま眠りに落ちる。ずっとずっと長い眠りに。

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