鳥は雛を置き去りにし、狼は虫となる

「お前は結局よう……!」


 津和野は、右腕と腹部に白い布を巻かれた狼男のような存在を見下ろしながらリンゴをかじっていた。


「ちょっとそれ」

「いいんだよ!こんなもんよりもっとうまいもんを喰いに行ったんだろ!」


 見舞いの品であるはずのリンゴを奪ってかじりつくその姿は、いつも工場で見せていた気さくな兄貴分のそれではなかった。

 かと言って他の工員たちの津和野に対しての印象を悪化させるそれでもなく、あくまでも兄貴分のままの行いであった。


「結局お前は、浅野さんの恩より自己満足を取ったって訳だ。弘樹、お前はどこまでもおぼっちゃんだったって訳だな」


 弘樹と呼ばれた獣人の目に、見る者をすべてを射すくめるような光はなかった。相手の首を切り裂けそうな鋭い手も、血の臭いを嗅ぎ取れる犬の鼻もそこにはない。

 今の所治療のため入院しているが、回復次第殺人未遂で逮捕されることが決まっている。津和野たちもまた、警察官監視の元で見舞いに来ている状態だった。これがおそらくは刑務所の外での最後の対面になるであろうにも関わらず、弘樹は何一つ言葉を発しようとしない。


「津和野さん……」

「弘樹……!やっぱりお前は恋愛をしとくべきだった。俺らがもっと……いや俺らと出会う前に、初恋の一つぐらいやっておくべきだった。そうすりゃお前の人生って奴がこんな事だけの為に使っていいもんじゃねえってわかったはずだ」


 ようやく言葉を発した弘樹の顔に、生暖かいリンゴの汁と津和野の言葉が落ちて来た。弘樹は幼少の頃からその財布と顔と真面目な性格でモテる部類に入っていたが、頭には藤森産業を盛り立てる事しかなく、恋愛と言う考え自体が頭になかった。

 弘樹の側にいた女性は常に母親のみであり、特に藤森産業を失ってからはそれが顕著になった。


「それとも四年間、ずっとこの時を夢見て生きて来たってのかよ!だったらもう少しましな方向に力を使うべきだったんだよ、例えば恋愛とか!ああ言ってる事ダブってるけれどな、少なくともこんな事になって浅野さんや俺は怒ってるんだぞ。そこの所どう思ってんのか聞かせろ」


 津和野が乱暴にかじったリンゴの汁が弘樹の顔にかかり、その部分だけ顔の毛がなくなった。


「ああ答えたくなきゃ答えなくていいよ、でも俺はお前を軽蔑する。だってお前は」

「津和野さん……もし」

「まあ気持ちがわかってやらないなんて一言も言わないよ、でもその結果どうなるかぐらい考えが及ばなかったもんかね。俺は今でも、俺はアホでお前は賢いはずだって思ってんだけど、そこまで怨念って奴は頭をダメにするもんかね。まあどうせ、数年すりゃ出て来られるだろ。そん時までにお前が怨念との戦いを勝って終える事を楽しみにしてるぜ」


 津和野は最初の半分以下の大きさになっていたリンゴをかじりながら、他の工員と共に病室を去った。そして工場長である浅野が見舞いに向かっているであろう、弘樹が殺そうとした島加奈子と言う女性の入っている病室へと向かった。










 右手中指と人差し指間の出血、二発殴打された事による顔面打撲、そして短い時間とは言え首を絞められた事による窒息。それが加奈子が負ったけがの全てであり、念のために一日入院すればいいと言う程度の物であった。


 とは言え、同じ工場の人間により命を奪われそうになった事はまぎれもない事実であり、自然津和野たちの足取りは重かった。津和野がいら立ち紛れにリンゴの芯を自前のビニール袋に放り込んでいると、浅野が悄然とした顔つきで津和野たちの前に現れた。


「やっぱり怒り心頭なんですか」


 津和野が心底心配そうに言葉をかけたものの、浅野は黙ってうなずくのみだった。自分が引きこみ四年間も面倒を見て来たはずなのに一体どうしてあんな事をしてしまったのか、その最大の責任者は本人と母親を除けばどう考えても浅野だ。その浅野に対し加奈子は相当なうらみつらみをぶつける権利がある。

 津和野だって、加奈子の立場であればどうして止められなかったんだと吠えていただろう。同じかそれ以上に責任があるだろう自分たちが会いに行けば同じように叱責を受けるだろう。それでも少しは気分が晴れるのならばと思い津和野は責任の一端を担う者として、リンゴの芯入りのビニール袋が入ったカバンを同僚に預けて病室に入り込んだ。


「すみません、津和野と」


 白いベッドの上で、両腕を組み胡坐をかいて座る中年女性。真っ白なパジャマ姿が、中肉中背のはずの彼女を大きく見せていた。

 目こそさほど怒っていなかったが髪の毛は大きく逆立ち、それがいら立ちをあらわにしていた。中高生時代、何度も意味のない喧嘩を繰り返して来た津和野であったが、その時の教師や親よりもその加奈子と言う女性が大きく見えた。


「申し訳ありません、此度はわざわざ」

「いえいえオレ、いや私がもう少し気を付けていればあんな事を」

「浅野さんと言う方からおうかがいになりました、大変皆さんに慕われているそうで。あなたのような方がうちの会社にいてくれると現場もうまく回るでしょう」


 そのくせ、口から吐き出される言葉にはひとかけらの悪意もない。そういう立場でありながら弘樹の行動を押しとどめる事ができなかったのはどういう事ですかと言う毒が含まれていると解釈しても問題ない物言いであるが、だとしてもあまりにも加奈子のイントネーションが平板すぎた。

 怒りを押し殺していると言うにはどこか弱々しく、全てを知った上で慨嘆していると言うには芯が通り過ぎていた。


「実際に私が夫に向かって半ば強引なやり方で藤森産業を潰すように言ったのは事実ですから、恨まれるのは仕方がありません。覚悟がなければそんな事なんか言いませんでしたから。

 まあいざとなると怖くて正体を失い、逆に相手の方を殺しそうになってしまった事に対しては我ながら前後不覚に陥ってしまった結果の始末であり、正当防衛になるかどうか大変不安です。ならなければならないで甘んじて受けるのみですが」

「お子さんは大丈夫ですか」

「幸い無傷です。でもあの子は少しでも気を緩めていると一挙に贅沢と放縦の味を覚えてしまう危険性がある環境の中にいます。自分の力でつかんだ成功であればいくらでも誇っていいですけど、まだあの子は自分の手では何もつかんでいません。自分の力で手に入れた訳ではない物を振り回せば必ずや痛い目を見ます。津和野さんだってそうでしょう、こういうベッドの手すりや病院の床になるようなご立派な物をお作りになる道具だって、一つ間違えば即人の命を奪う凶器ですからね」


 全てが正論だった。弘樹と取っ組み合いで命のやりとりをしたとは思えないほどに冷静沈着であり、まるで迷いがない。自分が一言言っただけで十数倍の言葉が返って来る。頭ごなしと言う訳ではなく、加害者に近しい自分を責め立てるような事もしない。


「お疲れのようですが」

「いえいえ、年末か年明けぐらいに親になりますから」

「あらそうですかおめでとうございます。子どもを安心して産み、育てられる世の中が今の時代には必要ですよね。私は結婚が遅かった事もあり優樹菜一人しか子供はできませんでしたが、もちろん一人の人間にできる事なんて限りがあるのはわかってますけど私としても自分なりに何とかして」

「あの、もしよろしければ失礼させていただきたいと」

「そうですか、では今後もどうか頑張ってください。子どもさんの為にも、立派なお父さんとして頑張ってこの国を支えて下さい」


 最近土日は寝てばかりで、そろそろ安定期に入って来たうちの妻にも何かしてやらなきゃと思ってるけどどうしたらいいですかと言う暇は津和野にはなかった。病室から出て来た津和野の顔は、浅野と同じように疲れ切っていた。


 津和野は仮にも二十九歳と言う大人の男であり、ほどなく父親になる身である。ましてや相手の命を奪おうとした人間の同僚であると言う負い目もあり、加奈子の言う事に真摯に耳を傾けたつもりだった。

 しかしもし、十五年前に彼女と出会っていたら間違いなく彼女を殴っていただろうとも津和野は思っていた。

 
















 顔にはうっすらと毛皮があり、耳はこめかみの近くにあり、そして鼻は茶色く輝いている。


 病室と言う名の牢獄に閉じ込められたこの生き物は、ものすごい腹の音を立てていた。それを聞く者は、彼自身も含め誰もいない。


 四年間もの時をかけ、絶対に捕食しようとしていたエサにすんでの所で逃げられた。他の全てを捨て、別の生き物に大量のエサを渡して追いかけたエサに。


 その事がかなわないと知ってしまった彼と言う生物は、もはや臓器が動いているだけで屍と変わらなかった。



 そんな彼を、ゲル状の物質が覆い出した。しかしゲル状の物質に対して感じるはずであった気持ち悪さはそこにはなく、あるのは生暖かさだけだった。

 しかしなぜか、息苦しい。

 彼は必死になって息を吸い始めた。そしてその生き物が水中から酸素を求めるようにベッドから体を起こすと、彼を覆っていたゲル状の物質の出所が判明した。




 紛れもなく、捕食しようとしていたエサである鳥だった。鳥は羽の先っぽから真っ白なゲル状の物質を吹き出し、彼にまとわせていた。その眼には自分を捕食しようとした存在に対する怒りや嫌悪はまるでなく、慈愛だけが満ちていた。


「何のつもりだ、圧倒的な力の差を見せつけていたぶるつもりか」


 彼は力を振り絞って吠え掛かってみたが、鳥はただ優しい声で幾度も鳴いただけだった。しかしその優しい鳴き声が、彼にとっては心をえぐる刃となっていた。

 そしてよく見ると、その鳥が産んだとおぼしき一個の卵が、自分を覆っているのと同じゲル状の白い物質にすっぽりとくるまれていた。そして卵もまた、自分と同じように息苦しそうにしながら転がっていた。


 あるいは本来、とうの昔に殻を突き破って雛として歩くぐらいの力はあるのかもしれない。白いゲルに囲まれてそれが叶わないのだとすると、この鳥は自らの雛を不幸にしている事になる。

 彼は目の前の敵を傷付けるためではなく、本質的な感情としてその哀れな雛を救わんと思い立って右手を伸ばし、白いゲルを突き破って掴んだ何かを投げつけた。

 すると鳥はまるで卵を守るかのように、鳴くのをやめて羽を全力で広げた。彼が投げた物体は鳥の羽を黒く染めたが、鳥の方は一向に頓着などせず、あくまで卵を守るように羽を広げるだけだった。



 ――――――自分が吐き出した白いゲルが、自分にとって一番大事な雛を苦しめているとはみじんも思っていないらしい。そう思うと先ほどの鳴き声に込められていた優しさも、極めて皮相的なそれに思えて来た。


 彼は荒い息を肺から吐き出しながら、自分を包んでいた白いゲルを振り払った。

 いつの間にか彼の全身には毛が生え、耳も尖り歯はのこぎりの様に鋭くなっていた。爪の鋭さこそなかったが、歯だけで目の鳥の喉笛を噛み切り死体にするには充分だった。

 彼はいつの間にか右手に入り込んでいた何かをつかみ取り、再び鳥へと投げ付けた。だがコントロールが定まらず、その何かは鳥ではなく卵へと向かってしまった。衝撃など何もかも吸収しそうなゲルであったが、彼の投げた物体は簡単にそのゲルを突き破った。


 ゲルを突き破ったのは、小さなサングラスだった。サングラスは、あたかもそこが自然の位置であると言わんばかりピタリと卵の上に乗っかった。突き破られたとはいってもやはりゲルには見た目相応の力があったのか、卵には微細な傷ひとつさえもなかった。


 だが鳥は一体何が投げ付けられたんだと言わんばかりにあわてて卵の方を振り向き、サングラスの存在を確認した。

 その瞬間鳥の目から、慈愛の色が消えた。鳥は左の羽をせわしく動かして風を起こし、サングラスを弾き飛ばそうとした。

 その風は卵を転がせそうなほどに強く、サングラスを取り除くためならば卵に多少の傷が付こうとも知ったことかと言わんばかりであり、先ほどまで全ての生き物を和やかな気分にさせるような鳴き声を放っていたとは思えないほどの豹変ぶりであった。


 そのくせ、そのサングラスを投げ付けた彼に対しては何も言わない。自分の目の前で牙をむき出しにしている存在を置き去りにして、自分の卵の上に乗っかっただけのサングラスは恐ろしいほどの力で吹き飛ばそうとしている。

 くちばしにくわえて投げ捨てるような事さえもせずに、ただ風を出しているだけだった。


 やがて鳥が、自分の手で出したはずの白いゲルを吹き飛ばし終わる頃になると、卵が急速にひび割れ始めた。ほどなくして殻を突き破って卵の中から現れたのは、頭の毛だけが濃い黄色をしてあとの大半が白い一羽の鳥の雛だった。

 そして卵の上に乗っかっていたサングラスが移動したかのように、雛の目には雛の大きさにぴったりのサングラスがかけられていた。雛は殻を突き破って外の世界に出られたことが嬉しくてたまらないかのように、小さな羽を上に突き出しながら二本の細い足でリズムを刻んでいた。


 狼めいた姿となっていた彼はしばらく鳥と雛の振る舞いにあっけに取られていたが、はっと目が覚めた様に自分の目的が鳥を喰い殺す事だと気付き、鳥に向けて飛びかかった。

 だが鳥は羽を動かして雛からサングラスを吹き飛ばそうとすることをやめようとせず、彼が飛びかかって来てもなお一瞥だにくれようとしなかった。だが雛は一向に羽と足の動きを止めようとせず、そのまま踊り続けるだけだった。


 たった今身に付けたばかりの技能を使いたくて仕方がないと言う、単純で素朴な思いだけが雛を支配していた。鳥はこれまでに上げていなかった悲嘆に満ちた鳴き声を上げると風を起こすのをやめ、この牢獄から雛を連れて逃げ出そうとした。

 だが雛はその翼をすり抜け、鳥だけが牢獄の隙間から滑り落ち、真っ白な光となって消えて行った。


 雛はその光を気にする事なく踊り続け、一方で喰い殺さんとした対象に逃げられた彼は、いつの間にか狼から地面に這いつくばる一匹の黒く小さな虫になっていた。

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