けだもの二匹

 午前十時の住宅街、人通りはほぼなく閑散とした中にたたずむ、一軒の邸宅。


 家主の身分の高さをいかんなく示すが如き邸宅に、一人の男性がゆっくり向かっていた。

 ジャージの上下に運動靴、左肩にはスポーツバッグ。どこからどう見てもスポーツジム行きの格好をした男性。しかしそういう類の施設は彼の目指す家からは徒歩一時間、公共交通機関を乗り継いだとしても四十分は下らない位置にある。そこから帰って来たにしてもあまりにも時間が早く、詰まる所いささか不自然な存在だった。




 その微妙に異物めいた男性を、見かけなかった住民がいない訳ではない。と言っても土曜日と言う半分ぐらいの人間にとって休日である日、その休日を生かして何らかの行動を取っていたとしても不思議ではない。

 自分たちには自分たちの用件があるように、彼にも同じ類の事情があるのではないか。ジャージなのは動きやすい服装を選んだ訳ではなく、単に目的の場所がそう遠くない上に肩肘を張る必要もない場所だと言う事。

 運動靴なのはたまたまそれを選んだだけ。スポーツバッグであってもスポーツ用品が入っているとは限らない。近所のコンビニエンスストアにでも入って適当な買い物でもするのかもしれない。そういう考えに至った所で何の不思議もなかった。



 しかしその男性はどこにも入ろうとせず、わき目もふらず住宅街を歩き続けていた。もしずっと男性の後を付けているのであれば彼のおかしさに気付く人間もいたかもしれないが、住宅街にたたずむ主婦たちにそんな事をする理由もなければ動機もなかった。

 もし住民の中に町の安全意識を第一に考え、ありとあらゆる異物を排除せんと欲する末期症状の花粉症患者のような人間がいたら彼は即座に排除されていたかもしれないが、それが本人の自己満足以上の効果をもたらさない事は誰もがわかっていた。

 それでも顔から怪しさが感じられるのであればまた話は別だったかもしれないが、その青年は控えめに言ってもハンサムと呼ぶに足る物であり、その上に髪もいわゆる無造作ヘアながら見苦しく伸びている感じではなかった。体格の方もジャージを引き立てる程度には引き締まっており、少なくとも主婦たちのイメージする異常者ではなかった。




 やがてその男は、目当てである邸宅へとたどり着いた。男はスポーツバッグのファスナーを開けると、丁重にチャイムを押した。


「どちらさまですか」


 男は自らに応対すべく玄関を開けた女性の姿を認めると、スポーツバッグに右手を突っ込みバラの花の飾りがされた一つの包みを女性に手渡した。



 女性が突然の贈り物に戸惑っていると男はスポーツバッグを左肩から下ろし、たった今フローリングの床に置いたスポーツバッグに手をやり、中から一本の包丁を取り出して斬りかかった。


「何をするんです!」


 女性の金切り声にも男はひるむ事なく、相手の命を奪わんがために己が右手に握った得物を振りかざした。


「どうしたの」


 この時この邸宅にいたのは、女性二人だけだった。一人は彼女、そしてもう一人は彼女の娘。その娘はこのあまりにも危険な闖入者を目の前に、何も言わなかった。


「優樹菜!優樹菜!」

「死ね!」


 常日頃自分の母親が上げない様な、ヒステリックで感情的な叫び声。純白な箱に閉じ込められて生きて来て、たまに汚れた所ですぐに母親の羽により洗い落とされる優樹菜にとって、全く白さのない母親の叫び声と、漆黒の極みと言うべき死ねと言う言葉は何よりも甘美な爆弾だった。


「優樹菜!逃げて、逃げて!」

「娘なんかに興味はないんだよ!僕の……父さんの……無念を!藤森産業の仇!」


 全く人為的な過程を経て作られた邸宅の中で、二匹の生き物が叫び声を上げている。そしてそのいずれも、とりあえず自分に対して悪意を向けている訳ではなさそうだった。

 その事が、優樹菜の動きを止めていた。


 もちろん優樹菜がこれまでの人生の中で、相手に悪意を向けられた事がなかった訳ではない。取り分け最初に通っていた幼稚園では、いじめまでには届かないにせよ相当に差別的な扱いを受けていた。故意ではない悪意をさんざん投げかけられた。

 そのせいで幼稚園を一度去る羽目になった事もある。だがその行為に対し、加奈子は耳を塞ぐと言う防衛手段を知らず知らずのうちに覚えさせていた。


 自分はこれこれこういう事だとわかっている、お前はわかっていないだろう。そうやって相手やその行為を軽く見させる事により、精神の安定を図らせていた。

 中身の薄い軽口やあるいは時として腕力を伴う強引なやり口に対して、知識と言う爪牙と鎧をまとわせていた。その装備が完成した暁には、世間のつまらない雑音など一切気にしない芯の通った人間が出来上がるはずだった。


 両手ではなく、両方の翼で優樹菜を守ろうとしている存在。その翼の先端には雑巾が括り付けられ、優樹菜を汚そうとする物全てを洗浄せんとする。

 目の届かない所で優樹菜が汚されそうになると、カモシカの様に太い足を持ちながらチーターの如きスピードで寄って来ては、その翼で優樹菜の為にせっせと爪牙と鎧を作っていた。




 一方でその鳥とカモシカを掛け合わせたような生物に向かって爪牙を振るっているもう一匹の生き物、明らかに鳥とカモシカの掛け合わせよりも危険な生き物も、優樹菜にはさほど恐ろしくはなかった。


 優樹菜はとんと、動物と言う物に触れていない。うがい手洗いなどをやんわりとかつ強い力で励行するように加奈子から言われており、その上に少し触れようとしただけで怒鳴る訳ではないにせよまるで自動車の前に飛び出したような顔をして口を塞いだり開けっ放しにしたりしてしまっていた。

 その時の加奈子の顔は驚き以上に悲しさに満ちており、その無言の圧力と雄弁な論理的説明の前に優樹菜はなんとなく離れてしまっていた。

 加奈子が優樹菜にペットを与えるのを渋って結局与えなかったのは優樹菜にぜいたくを覚えさせたくないのと同じかそれ以上に、優樹菜がそのペットから健康的に被害を受けるのを恐れたからである。


 目の前で暴れ回る、右手に一本の長い爪を持ち犬のように血の臭いを嗅ぐように鼻を鳴らしながら竜の如き目で睨み付ける存在。


 フジモリサンギョーと言う自分にはよくわからない物を奪われた事に対して怒り狂い、吠え掛かっている存在。

 大事な物を奪われて狂乱する同級生やアニメや漫画の登場人物を優樹菜は幾度も見て来た、それと同じだと考えれば優樹菜にはその言葉の意味が平易に理解できた。

「優樹菜だって大事な物があるでしょ、それを勝手に取られたり壊されたりしたら怒るの当たり前なのよ」

 その度に加奈子からその理屈を聞かされ刷り込まれていた優樹菜にとって、当たり前の事をしているだけの存在を責める気は起きなかった。



 やがて二匹の獣が翼と肉球を組み合うと、オスの獣の爪がメスの獣の間の翼に入り込んで剥がれ落ち、その爪がかすった後ろの羽から数枚の羽根がこぼれ落ちた。


 これまでずっと見て来た純白のそれとは違った、真っ赤な羽根。こぼれ落ち続ける真っ赤な羽根と、自分の名前を呼ぶ金切り声。そしてオスの獣が発する唸り声。優樹菜の心の中で、この時恐怖心は好奇心に遅れを取っていた。


「父さんは過労で死に、母さんは生ける屍になってしまった…!お前だな、あんなやり方を勧めた奴は!」

「ふざけないでよ!」


 メスの獣が咆哮を上げながらオスの獣を吹き飛ばすと、羽根が落ち続けるのも構う事なくオスの獣が持っていた爪を翼に抱え込んだ。

 その隙を突きオスの獣がメスの獣を前足で殴ると今度はその爪が男の右前足を傷付け、赤い毛をフローリングの床にまき散らした。


 もしこれと同じ光景をテレビで加奈子と一緒に見ていたら、間違いなくチャンネルを変えられるかテレビを消されるかしていた光景。

 お互いがただ、自分が失った物また守りたい物にために戦う、残酷かつ単純な光景。もし加奈子と言う人間がこの時の優樹菜の顔を見ていたら、それこそ街角で本物のライオンと遭遇したような面相になっていただろう。

 あまりにも、その顔が美しく、可愛らしく、そして楽しそうだった。


「ううう…このまま…」

「どうした…の…はやく…」


 二匹のけだものはもはや、まともな言葉を出そうとしなかった。口から出るのは息ばかりであり、お互いがお互いの命だけを求めていた。

 オスのけだものはなかなかメスのけだものを喰らえない事へのいら立ちにより、メスのけだものは自分が守りたい物が自分の意志をくみ取らない事のいら立ちにより共にますます理性を失っていた。

 メスはオスから奪った爪で斬りかかり、オスは左の前足でメスの頭部を殴打する。その度に毛が飛び散り、羽根が飛び散る。そしてそのいずれもが赤く染まり、島加奈子と言う主婦が丹精込めて磨いたフローリングの床を汚していく。




 この殺し合いに、ようやく帰趨が見えたのは開始から十五分以上経ってからだった。メスのけだものが羽に挟み込んだ爪でオスのけだものの真っ赤な毛むくじゃらの胴体に突きかかり、そしてその傷に耐え切れず倒れ込んだオスのけだものに向かってさらにその刃を振り下ろした。


「やめて!」


 どこからかわからない所から飛んで来たその言葉にメスのけだものが気を取られている内にオスのけだものは力を振り絞って体を起こし、竜の如き目で相手を睨みつけながらハサミの様な左の前足でメスのけだものの首根っこをつかんだ。


「取り押さえろ!」


 その言葉と共にオスのけだものの背中に人間の足で蹴りが入れられ、オスのけだものはメスのけだものから手を放しながら倒れ込んだ。

 すると今度はメスのけだものが握り込んでいた刃を今度こそオスのけだものに振り下ろそうとした所を、今度は温かみを込めた手により押さえつけられた。


「ゆ……………は………………に………………な」


 そのメスのけだものは別の人間によりオスのけだものが運ばれて行くまでその4文字以上の事を言おうとせず、ただ猛禽類が如き目でオスのけだものを睨み付けるだけだった。

 そして白い服を着た人間たちにより運ばれて行くオスのけだものもまた、メスのけだものに対して殺意を込めた目線を向け続ける事をやめなかった。

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