結局は……

運命の前

 優樹菜は、空を見上げるのが嫌いだった。


 藤森弘樹が津和野の家でテレビゲームをやって歓声を上げていたその頃、島優樹菜は遠足で担任教師からお空の雲を見ようねと言われていたが、どうにも首が上に動かなかった。


「くもってどうしておそらにうかんでるの」


 四歳の頃母親にそんな素朴な疑問をぶつけた優樹菜であったが、その時はさあなんでだろうねーとにこやかに返してくれた加奈子であったが、一週間後にまた同じことを言ったら


「お水ってあるでしょ。それがね、高い所に行くと冷たくなるの。お水はね、冷たくなると氷になって熱くなると水蒸気になるの。でも本当はね、ほんのちょっとだけいつも優樹菜やママが吸ってる空気の中にも水蒸気ってのが入ってるの。その水蒸気が空気の中にある小さなちりとかにくっついてちっちゃな雲ができてね、それがたくさん集まって雲になるの」


 と言う風に科学的な説明をずらりと並べて来たのだ。

 その上に雨が降る理由や虹が出来る理由まで噛み砕いた言葉でかつ正確に述べられた。確かに科学的には正しかったが、かと言って四歳児にそれを理解する事は困難だったし、第一に母親の話の長さが苦痛だった。

 その上に

「道を歩く時は上ばかり見てると危ないよ、車に轢かれて死んじゃうよ」

 と言う言葉が最後にくっついた物だから、優樹菜の心の中に空を見上げる事に対しての潜在的な恐怖と倦怠感が加奈子さえも気が付かない内に刷り込まれていた。


 その上に、藤平浩輔である。加奈子の手により、徹底的に遠ざけられて来た二人組。その二人組が空を指差すネタで売っている物だから、優樹菜はますます空を見上げるのが嫌になっていた。


「島さん、どうしたんです」


 怒っていた訳ではないから、ママが怒るからとも言えない。どの方向に進もうとしても加奈子の翼が待ち構えているこの現実を目の前に、優樹菜はだいぶ前から呼吸困難に陥っていた。


「どうして優樹菜にはできないんだよ」

「もしかして首が痛いのか」


 同級生たちも疑問と心配がないまぜになった声を上げ始めた。その声に押されるように優樹菜は首を上げて空を眺めてみた。空には青い空と白い雲が並び、優樹菜の頬を撫でる秋風は実に爽やかかつ温かい物だった。

 しかしその青い空も白い雲もさわやかな秋風も、優樹菜にとっては重石でしかなかった。元々強引に首を上げた物だから肉体のバランスも悪く、その上にこのような心理状態だったのだからたまった物ではない。

 優樹菜はすぐさましりもちをついて倒れ込んでしまった。


「大丈夫ですか」

「大丈夫です!」


 それでも担任を心配させまいと声を張り上げてみた物の、あまりにもみじめな空元気であり逆に不安をあおるだけだった。優樹菜はその結果半ば強引に寝かされ、そして立ち上がってからも同級生二人に手を引かれ続ける有様だった。


 

 それで家に帰るまでが遠足です、と言わんばかりに精一杯残り少ない気力を張って歩きどうにか家にたどり着いた優樹菜であったが玄関をくぐると目が開かなくなり、立つ事すらできなくなった。




「どうしたの、一体どうしたの!」


 さすがに加奈子も声を張り上げたが、それでも優樹菜を怒鳴りつける事はしなかった。リュックサックを下ろし、このまま倒れているとばい菌が手にくっついて汚くって体に悪いしみんなに嫌われちゃうよと言いながら優樹菜を洗面台へと引きずり、強引に手を洗った。

 優樹菜は秋にふさわしい冷たい水に触れて少しだけ瞼を開いた物の、それでも足は全く動かなかった。そこにはひと月前の運動会にて、100メートル競走で1位を取った姿はどこにもない。


「何があったの、どうしてこんなに疲れちゃったの」


 やがて少し元気を取り戻した優樹菜に向かって加奈子は心底心配しながら声をかけたが、優樹菜は何も言わない。その事が加奈子の心配をさらに煽った。もっとも、優樹菜に物を言うほどの気力が残っていなかった事はむしろ加奈子にとって幸いだったろう。


 ――――ほっといてよ、来ないで。もし優樹菜に気力が残っていたら言う事はそのどちらかだった。


 何もかもが純白に塗り固められた世界。黒や灰色だけではない、赤や緑や青さえもない真っ白な世界。たまに色付きの物が優樹菜の所まで到達したとしても、母の羽により色をこすり取られたあまりにも薄く目を凝らさねばそれと認識できないほどの物ばかりであり、色を消しきれなかった物は残らず吹き飛ばされていた。


 それでも幼稚園や学校などで第三者の手により悪意なく飛ばされて来る色付きの物体は、カモシカの足で走り込んで来た母親により吹き飛ばされ、叶わずに優樹菜が染まってしまった場合は必死にその色を洗い落とされる。白である事が、絶対正義とされる世界だった。



 そして小学校三年生になった優樹菜に向かって降り注いだ爆弾の名こそ、藤平浩輔であった。純白の世界に飽き果てていた優樹菜が、白ではない色を求めるのは当然だった。今までにほとんど見た事のない色の爆弾の絨毯爆撃は加奈子が警戒のしようがない時を見計らって降り注いだ物だから、いくら加奈子が凌ごうとしても遠慮なく優樹菜を染めた。

 加奈子は必死に自分の白い羽でこすり落とそうとしたが、その時起こった摩擦熱が優樹菜の体にやけどを起こさせていた。そして後に残るのは目に見えなくなったやけどの痛さと、加奈子の純白な翼だけだった。白と言う色は今の優樹菜にとって、心のみならず体までむしばむ猛毒になっていた。


「ママ……」

「どうしたの優樹菜、ねえ何が欲しいの、疲れちゃったの、遠足で何があったの。熱が出て苦しいの、それともおなかが痛いの」


 優樹菜がうわ言と言うべき調子で二文字を口にしただけで、加奈子はその十倍の量の声を優樹菜に浴びせて来る。それだけで優樹菜は無意識に口を閉じる事を余儀なくされ、翼に押し込められてしまっていた。


「たまにはいいか、お話はあとでも聞けそうだし。ゆっくりお休みなさい」


 やがて寝息を立て始めた娘に向かって加奈子は優しい言葉と毛布をかけた。加奈子の顔にはまるで憂いなどなく、優樹菜の苦しそうな寝顔とはあまりにも好対照だった。














 そしてその優樹菜とほぼ同じ表情をしていたのが、板金加工工場の工員・藤森弘樹だった。目つきは以前より引き締まり、口も何も言わずとも笑い声が聞こえそうなほどに開いていた。


「何かえらく機嫌いいな藤弘、津和野さんが言うにはなんか新しい家電買ったんだって」

「今度見に来ていいか」

「勘弁してくださいよ、まだ操作方法をよく覚えてなくて。何せ高いですからむやみにいじって壊したら一大事なんで。どうしてもって言うんならば今度の日曜日にでも」


 頭を掻いて戸惑いを見せながらも笑みが薄れる事はなく、工員たちを同じ方向に引きずり込む程度には弘樹の笑顔は力強かった。


「まあな、昨日ゲームやってた時のお前の表情ったらマジで傑作そのものでよ、他の奴らにも見せてやりたかったぜ」

「やめて下さいよー」


 以前の弘樹はこんな軽い口調で話す事はなかった。土曜日に何があったのか、誰もがその理由を知りたがった。


「あーお前もしかして、DVDプレイヤーでも買ったのか」

「それだ!それと何か見るためのソフトとか」

「まあ、はい……」


 そして誰かがそう言い出すと、あっという間に弘樹が買った家電と言うのはDVDプレイヤーとDVDソフトだと言う話が一挙に広がり、弘樹が否定しなかった事もありそれで話が固まった。

 津和野だけは、違うのかもしれないと思わなかった訳ではない。だがそれとてゲームを買ったのかもしれないと思っただけであり、それ以上の事を考えようとはしなかった。そんな小さい事を詮索するより、四年間ずっと縮こまっていた弘樹がのびのびと羽ばたいて行く姿が嬉しかったのだ。


「そうだよ、それでいいんだよ」

「工場長……ああすみません!」

「お前には、前を向いて生きて行く権利がある。これからの未来は、お前の物だ」


 津和野たちの喜びは、浅野にも簡単に伝染した。

 だが津和野以下の従業員たちに対してはこれまでよりずっとフレンドリーに接していた弘樹が、浅野が話しかけて来た時には急にかしこまってしまい、これまでと同じように申し訳なさそうに目を背けてしまった。


「どうしたんだよお前一体」

「いやその、実は……」

「なんだ、何でも言えよ」

「じゃ、じゃあ……年末にでも合コンに連れて行ってほしいなって…」

 唐突に飛び出した合コンと言う単語は、喜びより困惑を呼んだ。

 これまで幾度連れ込んでも浅野や津和野への義理でいるだけでまともに参加する様子がなかった弘樹がどうして急にそんな事を言い出したのか、DVDプレイヤー1つでここまで気持ちが変わる物だろうか。


「お前さ、まだ俺の事信用してないのか」

「どうしてそうなるんです!何がいけないんですか、教えて下さい!」

「ああ冗談だよ冗談、でもさ、今更思い出したように合コンとか言われても俺も戸惑っちまってさあ、まあお前が出たいってのをダメだっていう理由は俺にはねえよな」


 それで思わず喧嘩腰気味に突っかかって見た物の、弘樹がこれまでの四年間と同じようにおびえて縮こまってしまったのを見てすぐさま頭を冷やし、逆に平身低頭する事になった。


 だが確かに、自分でも喧嘩腰な言い方はまずかったとは思っている。とは言え自分に対して遠慮をし気に入られるために合コンと言う単語を出したのではないかと言う、今自分が飲んでいるブラックコーヒーとは違った種類の苦みが胃の辺りに残っているのもまた事実だった。


 確かに、自分の足で新たな一歩を踏み出そうとしている弘樹の邪魔をする理由はない。だがあまりにも急なのもまた事実であり、どこか不自然だった。


(ああもう、やめだやめだ!せっかく弘樹が頑張ってる所に水を差すなんて俺ってどこまで不粋なんだ!もう弘樹だって二十九歳だろ!)


 高校生の時から、弘樹は嘘を吐く事を嫌っていた。商売の世界は信用第一ですからが枕詞であり、万が一約束を違えた時はこちらが気の毒になるぐらい平身低頭していた。

 藤森産業が傾いた時などは社長の息子として本当に誠意を込めてあちらこちらに謝りに行ったのだろう、その苦労たるや自分には計り知れない物だったはずであり、そんな人間が自分に対し嘘を吐く必要もないだろうと言う自信があった。俺が売ったと考えているよりずっと多くの恩を売られたと思っている。


 十三年間の付き合いで知り尽くした藤森弘樹を、俺が信じなくて誰が信じると言うのだと言わんばかりに浅野が赤い顔をしながらブラックコーヒーを口に注ぎ込むのを見ながら、藤森はニコニコと笑っていた。

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