第4話 秀郷公。三上山の大蜈蚣と対峙する

 秀郷は竜女と一旦別れると瀬田の大橋を渡り琵琶湖の湖水の水際に望んで三上山を眺めていた。


 身の丈ほどある草原の中に秀郷は身を隠しながら先程聞いた例の大蜈蚣が現れるのを待ち続けていた。


 既に丑三つ時(午前三時)を向かえたとはいえ真夏のために蒸し暑い暑さだけでは無い。


 これから出現するであろう巨大な敵と相対する事になる緊張感からか額から流れる汗が止まらなかった。


 秀郷の体臭を嗅ぎ付けた蠅や蚊が彼の体に纏わりつく。


 武人として強靭な精神力で耐え忍んでいたが、突然それらの虫達が大人しくなった。


(……)


 夜虫の鳴き声さえ完全に鳴り止み、しばしの静寂の後、鳴神が妖しい光を放つ。


 間も無く雨風が激しくなってくると比良山の高嶺の方より二、三千の松明が両脇に並べたように輝く様が見えた。


 まるで三上山が動くかのようにゆらゆらと身を揺るがして何かがこちらに迫り来る。


 山を動かし谷を響かす音は、百千万の雷よりも凄まじい。


(来たか)


 驚いた事に数千の松明のように見えた光は絶え間なく蠢動する大蜈蚣の足だった。


 三上山を七巻半もするというだけあり、竜王ですら比べ物にならない途轍もない規模の巨獣であった


 如何に剛の者である秀郷とはいえ内心動揺を覚えた。

 話には聞いていたとはいえ、遥かに彼の想像を絶する物だった

 これほどの化け物相手に人の身で何とか成るとは思えなかった。


 だが、彼も武人としての心構えはこのような時でも崩れる事はなかった。


 死すら覚悟した秀郷はかえって冷静に行動を起こした。


 十五束三伏の矢を五人張りの弓に番えると化け物が近づくのを待ち構えた。


 大蜈蚣が射程距離に入ると秀郷は充分に引き絞った矢を放った。


 百発百中の腕を持つ秀郷の放った矢は狙いを過たず、牛鬼のような顔をした化け物の眉間中央と思しき場所に命中した。


 だが、まるで鉄板に当たった様な音が響くと虚しく矢が弾き返されてしまった。


 落下して地面に突き刺さる矢を秀郷は一瞬呆然とした表情を浮かべたが、すぐに動揺を抑え二本目の矢を番えた。


 二本目の矢も同じ眉間を狙って先程よりも長い間充分に引き絞り矢を放った。


 必殺の威力を込めた矢は再び同じ場所に命中した。しかし黒光りする皮膚を貫通するには至らなかった。


 矢はたった三本しか準備していない。


 しかも既に二本は射損じている。


 頼むところは残りの一本。


(これを射損じたら……吾も竜宮も終わりだ)


 秀郷の脳裏には純情な乙女のような竜女の姿を思い浮かべていた。


 ここで自分が敗れて死ねば竜宮は滅ぼされ当然あの竜女も殺される事になる。


 先祖が受けた恩を返さないうちにそのようなことになれば末代までの名折れ。



 彼は一計を案じると矢尻に唾をかけた。


 いよいよ大蜈蚣の顎先が秀郷を捕らえられる位置まで迫ってくると彼は最後の矢を引き絞った。


「南無八幡大菩薩……」


 弓矢の神八幡大菩薩を心中に念じると最後の矢をひょうと放った。


 唸りを上げて巨獣に飛来した矢は三度目も同じ場所に命中した。


 今度は今までの二本と違い矢尻が完全に貫通し、矢は眉間を貫き喉までも刺し貫いていた。


 数千の松明のように見えた光が一斉に消え、百千万の雷の音もぴたりと止んだ。


 巨大な地響きを立てると彼の大蜈蚣は崩れ去った。

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