おもちゃの船のお風呂の旅

 ひかりちゃんがお風呂に入っているあいだの楽しみといえば、髪を洗う人のわきをくすぐる事でした。湯船から身を乗り出して、シャンプーの真っ最中をねらうのです。でも、今日はお隣のお姉さんの愛ではなくて、一つ屋根の下の夢子が相手でした。

 夢子はいつも夢を見ていますから、髪色がころころ変わります。シャンプーしていてもそうです。果たして何色になればキレイになったと言えるのか、ひかりちゃんにはよく分からない事でしたが、ただ一つたしかな事は、夢子のわきが丸見えだという事です。

 ひかりちゃんは声や音を立てないように湯船から身を乗り出し、そっと伸ばした手で、猫のあごをなでるように夢子のわきをくすぐりました。

 ひゃあああっ、と、大きな声をあげたのは夢子です。

 あはははははっ、と元気な笑い声をあげたのは、もちろん、ひかりちゃんです。

「こら。ダメなんだからね。次やったら、怒るよ?」

 夢子は目をつぶったまま、湯船の方へ言いました。でも、いたずらっ子っていうのは一度や二度、注意されたからって止まりません。むしろ注意されると余計にやりたくなるのですが、夢子はまだ愛ほどお姉さんでないので、分からなかったのです。愛なら堂々とわきを見せてあげて、「ほら、くすぐってごらん」と、こんな具合に言いますから、いたずらにならないのです。

 びっくりして金髪になってしまった髪をまたグシャグシャと洗い始めると、またわきが丸見えなります。ひかりちゃんは水鉄砲を持ち出して、蛇口の冷たい水をたっぷり注ぎます。この日は特別、寒い冬の夜でしたから、まるで氷水のようです。

 オレンジ色のフタをして、カエル色の水鉄砲を持ったなら、片目をつぶって──。

「いい子じゃないね、君は」

 低い男の人の声がしました。ひかりちゃんが声のする方を見ると、なんと湯船で小さなペンギンが背泳ぎしているではありませんか。ペンギンはまるで俳優さんのような声で言います。

「そんな冷たい水をかけられたら、やけどしてしまうよ。あの子は」

「やけど? 冷たいのにやけどしちゃう?」

 水鉄砲を持ったまま、ひかりちゃんは背泳ぎペンギンをたしかに見ながら尋ねました。背泳ぎペンギンは器用に方向転換して、ひかりちゃんの胸元までくると、

「そうとも。今夜は寒いからね。やけどするほど冷たい水が出て来てもおかしくないじゃないか。いやなに、ものの例えだよ」

 ひかりちゃんはため息をついて、「なぁんだ、びっくりした」と言って、また水鉄砲を夢子に向けたので、背泳ぎペンギンはさっきより低い声で、

「ダメだよ、わるい子だ」

「ちょっとびっくりさせるだけだから」

「ちょっとかい?」

「ちょっとよ、ほんのちょっとだけだから……」

 もう背泳ぎペンギンの方を見ていなかったのです。ひかりちゃんは片目をつぶって、水鉄砲を構えていました。もちろん、夢子をねらっています。だから、背泳ぎペンギンがお湯の中にもぐった事に気付くわけがありません。

 そのくちばしが、ツンっとひかりちゃんのお尻を突っつきました。

 今度、大きな声をあげたのはひかりちゃんでした。びっくりして急に立ち上がったから、夢子もびっくりしました。また金髪になってしまいましたが、シャンプーは洗い流していたので目をパチパチさせました。

「どうしたの、ひかり! びっくりするでしょ!」

「ペンギンにお尻を突っつかれたの!」

「またウソ言って。──あっ、水鉄砲!」

「ちがうの。これはね、あのね、ペンギンをね、やっつけるのね?」

「あっそ」

 ひかりちゃんは嘘が大の苦手でした。どうしても嘘を考えようとすると、すぐ「ね、ね」と繰り返してしまうし、さいごは分からなくなって尋ねてしまうからです。だから夢子はリンスを髪に塗って、しみ込むのを待つ間、湯船に浸かる事にしました。ひかりちゃんには大きな湯船も、夢子にはちょうどいいのです。しぜんと、ひかりちゃんは夢子に抱っこされるようにしか入れません。このとき、愛ならやさしく腰の方を持ってくれるのですが、夢子はお腹を持つし、乱暴だからいけません。

 でも今夜はそれどころじゃありません。

「あのね、背泳ぎするペンギンがいたのよ」

「冬だからね。渡り鳥みたいに飛んできたんじゃない?」

「ペンギンって飛べるの?」

「海をわたってきたとか」

「それから? どうやってお風呂まで来たの?」

「川まで流れちゃって、水道管の中に入っちゃって、蛇口から──」

 そこまで言って、夢子は眠り始めました。もっとも、夢子はそういう子です。のぼせる前に起きられるし、お風呂はひかりちゃんに合わせて少しぬるめです。しばらくすると、あの背泳ぎペンギンがまたひかりちゃんの前にあらわれました。

「ほら、びっくりしただろう?」

「ダメなんだよ、お尻を突っついたら」

「ほんのちょっと突っついただけだよ。これで分かったろう? びっくりさせられると、びっくりしただろう?」

「うん。びっくりしちゃった」

 背泳ぎペンギンはパシャパシャとお湯を掻きながら、もったいぶってこう言いました。

「申し訳ないんだがね……ちょっと突っついたというのは間違いだ。もしかしたら、きみのお尻に穴をあけてしまったかもしれない」

「えっ!」

 ひかりちゃんはまたびっくりして突かれたお尻に手をやって、「どこ、どこ!」と触りましたが、血も出ていないし、痛くもありません。そうしていると、グワグワとアヒルみたいな声で背泳ぎペンギンが笑うのです。

「ばかだなぁ、きみは」

「うそつき。もうびっくりさせないでよ」

「おや。ここに穴があいているじゃないか」

 背泳ぎペンギンはひかりちゃんのおへそを指して言いました。今度はひかりちゃんが笑います。

「これはおへそよ。知らないの?」

「知っているとも。空気穴だろう。そこから空気を抜けば、きみは私と同じくらいの大きさになれるんだ。どれ、ものは試しだ」

 背泳ぎペンギンがお湯の中にもぐって、ひかりちゃんのおへそをくすぐるからいけません。くすぐったがりな子ですからね。大声で笑います。そしてその笑い声がどんどん小さくなるにつれて、ひかりちゃんの体もどんどん小さくなっていきました。

「わあ! 夢子ったらなんて大きいの!」

 お湯の中から顔だけ出して、小さくなったひかりちゃんはまたびっくりしました。巨人のように大きな夢子が目の前にいて、すやすやと眠っていました。

 そして足がつかないのに、お湯を踏みつけて歩けるのです。いつものお風呂場の何もかもが大きく見えました。天井は空のように高くて、淡い色の壁はどこまでも広くて、ゾウやキリンのシールはまるで実物みたいに大きく、蛇口なんて工場のパイプのようです。

 そこへおもちゃの船がやってきました。ひかりちゃんのおもちゃです。いつもは手で持っているのに、今夜はものすごく大きいのでした。

 ぼおおお。

 汽笛が鳴った! またびっくりしたのもつかの間で、ひかりちゃんは船の上にいました。さっきまで裸だったのに、バスタオルで出来たドレスを着て、頭にはターバンのようにタオルを巻いていました。船の上を見上げると、まるで豪華なホテルをそのまま載せているようで、それに、どこからか良い匂いもします。

 セーラー服を着たペリカンがひかりちゃんの前に飛んで来て、

「ようこそ。おもちゃの船のお風呂の旅へ。早速で恐れ入りますが、ドレスコードがございます………ふむふむ、タオルのターバンにバスタオルのドレス………大変お美しい。このブローチをお着け下さい」

 セーラー服のペリカンの足から受け取ったのは、魚の形をした銀色のブローチです。が、ひかりちゃんはブローチなど着けた事がないし、バスタオルのドレスのどこに着けるものか分かりません。でも、前に愛お姉さんが胸に着けていたので、押し付けてみました。すると銀の魚のブローチはパチッとバスタオルを挟みました。

「素晴らしい。ではひかり様、こちらへ。お料理の準備ができております」

「お料理? お料理って何が出るの?」

 ペリカンの後を追って階段を降りながら、ひかりちゃんは尋ねました。

「それはお楽しみです」

「こんなお風呂上がりみたいな格好でご飯たべていいの?」

「これは妙な事をおっしゃる。ここはお風呂じゃありませんか。よくお似合いですから、ご心配なく」

「でも、あまりお腹空いてないの」

 と言うと階段が終わり、まったくホテルのロビーのようなところに出ました。深い赤のカーペットが敷かれた床で、裸足で踏むとすごく気持ちいいので、ひかりちゃんは走り出したくて仕方ありません。でもセーラー服のペリカンが大真面目なばかりに、そうはいきません。

「ひかり様。恐れ入りますが、こちらにサインをお願いします」

 受付のデスクからペリカンが呼びます。来たときは確かにデスクは背が高かったはずなのですが、ひかりちゃんが振り返るとちょうどいい高さになっています。そして真っ白なデスクは石けんの香りがするのでした。

「この机は石けん?」

「これはお目が高い。箱から出してすぐの、下ろしたてでございます」

「サインって?」

 目の前に置かれていたのは、お湯を張った洗面器でした。これも白くて、中のお湯はオレンジ色をしています。そういえば今夜のお風呂に入れた入浴剤はオレンジの香りで、色もオレンジ色でした。

 ペリカンは背筋を伸ばして、その翼で大事そうに洗面器を差して、

「こちらのお湯に指を入れて頂きまして、お名前を書いて頂きたく存じます」

「でも、サインにならないよ。お湯には何も残らないもん」

「その通りです。なんとお利口なんでしょう!」

 ペリカンは指揮者のように翼を振りました。ひかりちゃんは嬉しくなりました。褒められたら誰だってそうですよね。今すぐサインしてもっとこのペリカンの気を良くしたいと思ったのですが、まずは相手の話を聞くのが大切ですから、ひかりちゃんは待ちました。何事も慌てないのがコツなのでした。

 ペリカンは身振り手振り、いや、翼を振って続けます。

「これまではタオルとシャンプーがサインの当たり前でした。しかし、ああいったものでは大切なお客様の名前を失くしたり、すぐに泡立ってしまいました。しかも、お客様もまた書きにくいという御迷惑を長らく掛けてまいりました。ですが、この洗面器にお湯を張るという新しい方法なら、書きやすくて、しかも泡立ったりしないのです」

「でも、やっぱり名前は残らないよ?」

「そこです。わたくしどもは目に見える文字などでお客様を預かるなど致しません。そうですとも。お湯に書いた名前など残りませんが、でも、ひかり様がここを訪れ、このお湯にサインしたという事は決して、決して消えません。わたくしどもも宝石より大切なものとしてきちんとお預かりしますので」

 ペリカンがていねいにお辞儀すると、ひかりちゃんはますます嬉しくなってさっさとサインを済ませました。それというのも、まだまだ文字は練習中。ひかりの「ひ」なんてヘビみたいで、「か」は変な漢字みたいになって、でも「り」だけは上手いのです。

 でも、お湯に書くのなら大丈夫です。ペリカンも翼で洗面器を押さえていてくれました。

 チン! と受付のベルを鳴らしたペリカンは、襟に付いたマイクに言いました。

 ──ひかり様をご案内します。ラッコ料理長、よろしくお願いします。

「では、ひかり様。食堂はあちらです。ここからはセルフサービスとなっておりますので、どうぞお好きに。なにか分からない事がありましたら、近くの誰かにお申し付け下さい」

 なぜか急にお腹が空いてきました。

 それに船に乗ってすぐにした、あの良い匂いを辿るように、ひかりちゃんは食堂へ向かいました。本当は思いっきり走りたかったのですが、受付で深々とお辞儀するペリカンが後ろにいるし、バスタオルのドレスがはだけたらお尻が丸見えになってしまいます。ここはお姫様のようにゆっくり歩いて行くのが正解なのでした。



 ふかふかの赤い絨毯に、真っ白なテーブルクロス。それに全面ガラス張りから見える、広くて大きいお風呂の海──食堂は、素晴らしく綺麗なところでした。

 ツヤツヤの木の椅子に座ると、コック服のラッコがワゴンを押して来ました。ワゴンの上にはまだ銀のフタがしてある、良い匂いのするお皿が一つだけ。

「ようこそ。こちら、『素敵なスープ』です」

 ひかりちゃんの目の前で銀のフタが開き、こがね色のスープがお皿を満たしていました。

 スプーンのナプキンを取って食べようとしましたが、コック服のラッコが止めました。

「おっと。お召し上がりの前に、こちらのソースをお掛け下さい」

 テーブルに置かれたのは、小さな銀のポットです。思えば一人で、しかも知らないお店でご飯を食べるのは初めてです。でも確か、愛お姉さんとよく行く喫茶店で似たようなものを見た事がありました。中にはミルクが入っていて、愛は「コーヒーが美味しくなるの」と言って入れる時もあれば、「コーヒーが薄くなるわ」と言って入れない時もあるのです。

 いずれにせよ、これは“お姉さんっぽいもの”だとひかりちゃんは思いました。

「こちらのソースは『ごきげんなソース』です。ソースの機嫌を損ねない、弱火でじっくりと煮詰めました。これを入れて素敵なスープの完成です」

「素敵な? ごきげんな? なんのスープなの?」

「お風呂の海の幸のスープです。ボディタオルコンブと、カミソリカツオに、ブラシ付きドライヤーエビ……あまり大きくなくて持ちやすいサイズのものをベースに、石けん置き場にしかいないピンクホタテとハサミナシガニ、さいきん評価の高い高級シャンプーで育てた養殖マグロも使ってみました。そしてソースはお風呂フレンチの定番で、お風呂の底にいるカオアライウニをたっぷりと使いつつ、隠し味として風呂上がりのビールを少々入れてあります」

「ビール? お酒が入ってるの?」

「お酒と言いましても、きちんと煮切ってアルコールは飛ばしていますので。さ、お熱いうちに」

 ラッコに言われるまま、ひかりちゃんはごきげんなソースを注ぎました。中から出てきたのは鮮やかな青色のソースです。びっくりしましたが、こがね色のスープと混ざると美しい桜色のスープになりました。

「いただきます」

 手を合わせてから、スプーンにひとすくい、素敵なスープを飲みました。

 これもまたびっくりするほど美味しかったのです。たった一口で広がる海の旨み。ちょっと塩辛いのがクセになって、お酒の苦味やニオイなんてありません。一口、また一口と飲みました。エビやカニの香ばしさ、じゅわっと美味しいホタテ、まろやかなウニの味がしたかと思うと、コンブとカツオが香りました。

 あっという間にお皿は空っぽ。お腹はいっぱいです。

 コック服のラッコはお皿とスプーンをワゴンに戻すと、おもむろにコック帽を取って、その中から一枚のチケットをひかりちゃんに渡しました。

「これは?」

「帰るときは、外に出てこのチケットを海に投げるのです。すると、背泳ぎペンギンが迎えに来ます」

「あっ。あのペンギンはなんなの? おへそをくすぐられちゃって、気付いたらここに来てたの」

「背泳ぎペンギンは、お風呂で退屈してる子供をここに誘うのです。ひかり様も退屈でしたら、シャワーロデオなどで遊んでみては?」

 おかしな響きのする遊びは、廊下を出てまっすぐに行けば分かるそうです。

 そしてワゴンを押していくコック服のラッコを見送り、ひかりちゃんは食堂を出たのでした。



 陽気な英語の音楽が流れている部屋でした。床一面、お豆腐みたいに柔らかいマットで歩くのも精一杯でしたが、真ん中にひかりちゃんが乗れるほどのシャワーヘッドが、電話の受話器みたいにうつ伏せに置かれていました。

 シャワーヘッドの後ろには長くて太いホースが付けられていて、ホースは壁とつながっています。そしてちょうど持ち手のところに革のサドルがあって、三輪車のハンドルみたいなものの、その真ん中にレバーが付いていました。

「もしかして──」

 ひかりちゃんがシャワーヘッドのサドルにまたがると、

「オォー! びっくり! ヒカリ様デスネ?」

「ソウ、ひかり様デス」

 つられて変な口調になりました。なにせ話し相手はシャワーヘッドです。

「ればぁーヲ、右二回ス。ウォーター、すぷらっしゅ。アップ、アップ。左ハ、ウォーター、ストップ。ダウンダウン、ダウン。オーケイ?」

「おーけい」

 と返して、ひかりちゃんはいきなりレバーを右に回しました。

 シャワーヘッドから一気に噴き出した水で、天井近くまで飛び上がりました。ハンドルを片手に握ったまま、ひかりちゃんはけらけらと大笑いします。左に少し回せば水が少なく出て、床までシャワーヘッドが下がります。まるで空を飛んでいるよう。

「うわー! すごい、すごぉい!」

 シャワーヘッドにまたがったひかりちゃんは上へ下へ、ハンドルを左右に振れば、ぐるんぐるんと回って、床も壁も水びたしにしましたが、なに、ここはお風呂です。お風呂だからどんなに濡らしたってへっちゃらです。それに、銀の魚のブローチで留めたバスタオルのドレスはどんなに足をバタバタさせて、体を揺らしても脱げないのでした。

 でも目が回って、ハンドルから手を離したからいけません。

 ひかりちゃんは床へ放り出されてしまいました。でも、お豆腐みたいに柔らかいマットだからへっちゃらです。ちっとも痛くないし、目が回っても気持ち悪くならないから、ものすごく楽しいのでした。

「もう一回、もう一回!」

 と、シャワーヘッドにまたがろうとしましたが、それが噴き出す水がバシャッ! とひかりちゃんに掛かりました。せっかく起き上がったのにまたひっくり返され、全身びしょ濡れになってしまいました。ちょっと痛かったかもしれませんが、それ以上に水の力強さに怖くなりました。それにものすごく冷たかったのです。氷水みたいでした。

 さっきまであんなに楽しかったのに。

 ひかりちゃんは泣きそうになりましたが、愛のお姉さんの言葉がありました。

 ──ちょっとやそっとで泣いてちゃ、楽しくないよ。

 ちょっと涙が出たのですが、びしょ濡れだから涙なのか水なのか分からないと気付いて、ひかりちゃんはその思いつきがとても気に入って、自分でも天才だと思えたのです。するとまた笑いが込み上げてきて、

「ひひっ、ひひひひひっ。んふふふふふっ! あははははっ!」

 また大笑いです。

 すると、お豆腐みたいなマットがどんどん柔らかくなって、とうとう吸い込まれてしまいました。急に眠くなってきて、とても開けていられないほどまぶたが重くて、ひかりちゃんはそのまま眠ってしまいました。

 そして柔らかいお布団に挟まれたまま、ゆっくりと下へ下へと落ちていきました。



 ひかりちゃんが目を開けると、そこはステージの上でした。

 スポットライトがまるで陽射しのように照るので、体の何もかも乾いていましたし、観客席の方は薄暗くてよく見えないから、想像していたほど恥ずかしくはないのでした。

 でも、どうしてこんなところにいるのだろうと考えるより先に、シルクハットの道化師が言いました。

「──みなさん、この勇敢なお嬢さんに盛大な拍手を!」

 大きな拍手と歓声が聞こえてきました。

 オォー、スゴイゾォー! リッパネェー! エライ、エライ!

 何が何やら分かりません。いったい何が始まるというのでしょうか。道化師が手を振ると、おかしな仮面を付けた黒ずくめの女の人が二人がかりで長いテーブルを運んで来ました。その上には三つのコップがあって、それぞれジュースが入っていました。

 一つは、鮮やかなブルーで金銀のラメが光っていました。

 一つは、透き通るようなピンクで、いちばん美味しそうです。

 一つは、どろっとした緑色で、スライムのようでした。

「うわあ、ヘンな色!」

「こちらがひかり様に飲んでいただく、今宵のスペシャルジュースです!」

「えーっ! わたしが飲むの!」

「おやおや。緊張でド忘れしちゃいますよね。わたくしもショーの最中はよくあります。おっと! 今日は忘れていませんよ、みなさん! 誤解しないで頂きたい!」

 ステッキを片手に大げさに胸を張る道化師に、観客らは大笑いします。ひかりちゃんはそんなに面白くないけどな、と思いましたが、言わないでおこうと口をつぐみました。だいたい、大人というのは目の前のジュースの色よりなお、ヘンな生き物ですからね。

 道化師はひかりちゃんの方に向き直り、テーブルを指しながら、

「では、おさらいさせて頂きます。こちらに用意しましたスペシャルなジュース。向かって左から、そう、この青いジュースは『男の子が見た昨日の夢』です。……まあ、十二時を過ぎていたら今朝なのでね、えぇ、賞味期限は大丈夫かという話!」

 また観客らがドッと笑いました。ひかりちゃんはちょっと腹が立ちました。自分たちは飲まないからそうやって笑えるけれど、自分が飲むとなれば笑えないはずです。それなのに笑うなんていうのは悪い人たちだと思いました。

「──で、このピンクはですね、『失恋した女の子の十年後の涙』です。ふむ、ヴィンテージというヤツでしょうか。わたくし、ヴィンテージというものはとりあえず古いものだろうという感じで使いましたけども! 観客席に作家はいらっしゃらない? 学校の先生でもよろしいんですが!」

 道化師がまた大げさに耳に手をかざしました。

 イナイヨー! と笑い声と一緒に返ってきました。ウンウン、と道化師は一人だけ納得しました。そしてステッキをくるりと回し、最後のジュースを指しました。

「そして最後はこちら。『病的な正気、あるいは健全とされがちなもの』です。わたくし自分でも何を言ってるか分かりづらい名前ですが、それは置いといて! ここからが本題になります、よろしいですか、ひかり様?」

 よろしいか、などと大人っぽく訊かれたのは初めてでしたから、

「よろしくお願いします」

 と答えてしまいました。

 道化師はまたウンウンと大きく頷きました。ステッキをくるくると回し、パシッと受け止めます。

「ひかり様にはこの三つの内、一つを飲んで頂きます。しかし、この三つのどれかは猛毒でして、飲むと眠るように死んでしまいます。つまりハズレ。ですが、残り二つはどちらも大当たりというわけで、それはもう夢のような──素晴らしい味が──口いっぱいに。さあ、どうぞ、お決まりでしたら今すぐにでも!」

 そのステッキに導かれるようにひかりちゃんはテーブルを見ましたが、首を横に振りました。ただ落っこちてきただけで、どうしてそんな恐ろしいことをしなくちゃいけないのでしょう。

「い、いや……。嫌だ、飲みたくない」

「おやおや。それはまたどうして? 三つに二つは大当たりですよ?」

「だって、その一つのハズレを飲んじゃったら……死んじゃう……」

「誰だっていつかは死するもの。それが今すぐなのか、ずっと先にするか。それだけでございますれば、怖がることは何一つありません。──さあ!」

 ソウダ、ソウダ! ノンジャエー! ノメェー!

 観客席からまた声が上がりました。すると、ひかりちゃんは怖さよりもずっとずっと腹が立ってきて、もうこれだけガマンしたんだからという気持ちになってきて、自分でもびっくりするほどの大声で叫んでいました。

「じゃあ! あなたたちが飲めばいいでしょ!」

 マイク同士を近づけた時のような、甲高い音がしました。すると、道化師も観客達もみんな、黙りこくってしまいました。まるでひかりちゃんしかいないかのように静かで、一人ぼっちでステージに立っているような気がしました。それがひどく長い間続いたように思われたのですが、ひかりちゃんはもう心に決めていました。

 ラッコにもらったチケットを取り出したのです。

 このおかしなお風呂のお話しもいよいよおしまいです。思いもよらない事が起きました。

 道化師も観客も、みーんな、ただの板になってパタンと倒れてしまって、観客席の奥の出入り口がパカっと開いたかどうか──その出入り口がものすごい速さでひかりちゃんに迫ってきて、あっという間に──。


 ひかりちゃんは船の外にいました。セーラー服のペリカンに出会ったデッキの上です。

「ペンギンさーん!」

 力いっぱい、お風呂の海へチケットを投げました。



 また夜がやってきて、お風呂の時間になりました。

 寒い寒い冬の夜は、耳が痛いほど冷たくて、吐く息は白くて、冷え切った肌の上でお湯がチクチクします。そしてじんわりと体の芯から温まってくると、少し眠いような退屈がやってくるのです。

 また湯船から髪を洗っている夢子に水鉄砲を向けましたが、

「こらっ。もう、悪い子め。こちょこちょこちょこちょ!」

 今夜は愛お姉さんの膝の上です。ひかりちゃんは昨日の分もくすぐってもらい、すっかり退屈な気持ちが吹き飛んでしまいました。

 お風呂場に三人の女の子の笑い声が響く中、低い男の声がぽつりと、

「今夜は退屈じゃなさそうだ」

 と、わずかに開けられた窓から小さなペンギンが飛び立っていくのでした。


 おしまい

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Kの白昼夢 K @superK

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