Kの白昼夢

K

消えたチョコレート

 壁のオルゴール時計が鳴って、からくり人形が踊り出すと、おやつの時間です。しかし先にはっきりさせておくべきことは、おやつにチョコレートのないことはガマンならないということです。子供はもちろん、立派な大人だってそうです。

 ひかりちゃんが開けっぱなしの冷蔵庫の前で涙ぐむのは当然でした。たしかにそこにあるべきチョコレートが、今は最初からなかったかのように、すっかり消えていたのですから。

 しかし、この女の子はすぐに泣きやんで、犯人さがしを始めました。せっかちさんが食べたにちがいない。

「そうよ、夢子にちがいないわ!」

 夢子は、ひかりちゃんより少しお姉さん。この光の園の大きな家の住人です。でも名前どおり、ずっと夢を見続けていて、眠りながら起きて生活する、いつもパジャマ姿の風変わりな子でした。

 ひかりちゃんは部屋のベッドでぼんやりしている夢子に、

「食べたでしょ! チョコレート!」

 と、どなりましたが、夢子は伸びっぱなしの髪を真っ青にして首を振りました。きっと、青い夢を見ているんでしょうね。

 その青い髪がきれいな茶髪になると、夢子は夢から覚めて、こう言います。

「知らないよ、チョコなんとかなんて」

 後で分かったことですが、夢子はこの時、チョコレートという名前も、それが食べ物でお菓子の一つで、どんな味のするものかさえすっかり忘れていて、そもそも知らない、分からないような感じだったのです。でも、まだこの時、ひかりちゃんはそうとは知りませんから、

「寝ぼけないでよ。チョコレートよ。昨日、買ってきたでしょう?」

 と、当たり前のように言いましたから、夢子がどんなに困ったことやら。知らないものを忘れ物のように言われたらなんだか怖いじゃないですか。

 夢子はハアとため息をついて、

「……知らないったら」

 すると、きれいな茶髪だったのが、どんどんギラギラしてきて、むき出しの電線みたいな色になりました。こんな子ですから、ウソがつけないのです。ひかりちゃんはよく知っていました。でも、試すだけ試してみました。

「こう、茶色くて、板になってて。あ、形はいろいろあるの。甘くて。あ、苦いのもあるよ。口に入れると溶けるの」

「まずそう」

「一年に一日、好きな人にあげるんだよ」

「ヘンな話」

「そっかぁ」

 夢子にこれ以上話してもダメだと思ったひかりちゃんは、いろんなものにチョコレートを知らないか聞いて回ることにしました。

 台所に行って、一番、甘そうなシュガーポットは「お砂糖ほどに甘いものなんてないのよ」と、もっともらしく言い、結局は「角砂糖でいいじゃない」で終わりました。逆に、一番、甘くない塩のビンは「オマエだけが知っていて、他は誰も知らないなんて、しょっぱい話だな」と素直でした。となりのコショウのビンも「それだけ話してウワサしても、そいつのくしゃみが聞こえない。つまり、ないことを証明しているんだ」と学者みたいに言いました。フライパンやカレー鍋なんかは「茶色いやつは大体コゲだから食べないだろう」と言い出すので、

「カレーやシチューだって茶色いじゃない。あ、カレールウみたいなものよ」

 ひかりちゃんは最高に良いたとえ話をしたと思いましたが、古い雑巾がのらりくらりと言います。

「カレールウはな、もとから茶色くないんだな。もとから茶色いとか黒いとかそういうものはな、拭いてしまうに限るんだな」

「そうなのかなぁ」

 台所のありとあらゆる場所から、まるで合唱みたいに「そうだとも」と聞こえました。

 仕方なく、それから廊下を歩いていると、ダンゴムシが歩いていました。

「やあ、お嬢さん。探し物かい?」

「チョコレートって知ってる?」

「いや、初耳だ。でも、響きが良いな」

「台所は誰も知らないって」

「あいつらはダメだ。いや、ダメでないとあいつらでなくなる。つまり、あいつらは自分の持ち味に値打ちがある。それ以外は大体知らない。かと言って、他を知れば持ち味がなくなる。するともう値打ちがなくなるだろ」

 コショウのビンよりずっと学者らしいのがダンゴムシでした。前々から台所のヤツらは言うことが一通りしかないと思っていたのです。

「そりゃ、一揃いのヤツだから」

「ひとそろいって?」

「塩とコショウ、砂糖としょうゆ。片方だけでは成り立たないものさ」

「でも、持ち味一つでいくらかなんでしょう?」

「いい質問だよ。そのパラドクスについて、イエグモ教授と一晩も議論したんだがな。あ、僕は博士だ」

「それで答えが出たんですか、博士」

「ダメだった。いや、結論は出たんだがね。証明を書き記そうにも、落ち葉の余白が少なすぎたんだ」

「それは残念ですね」

「そうでもないさ。本当に残念なのは、イエグモ教授はもういないという事実さ。彼はトイレの深さを調べていた時に、君がおしっこをした」

「まさかそんなつもりじゃ」

「いやいや、そうじゃない。少し難しいが、君のおしっこが当たった部分、おしっこが流れていく時間から深さを計算しようとしていたんだ。しかし、おしっこした後、どうする?」

「トイレットペーパーで拭いてから流します」

「それだ。あんな水量に巻き込まれて生きているとは思えん。残念だ」

 そう言い残してダンゴムシは去っていきました。しかし、肝心のチョコレートについては何の手がかりもなく、ただダンゴムシとイエグモの話を聞いただけだと分かると、ひかりちゃんはほんの少し腹が立ちました。

 腹が立つと、お腹が鳴りました。

 廊下の向こうで、電話も鳴っていました。受話器を取ると、

「あ、もしもし。ひかりちゃん?」

 女の人の声でした。その声はハープの音色のようで、夢子よりずっとお姉さんで、お風呂のお湯みたいなぬくもりで包んでくれるのです。

「もしもし、お姉さん?」

「やほー。愛だよー。チョコレートだっけ?」

「知ってるの!」

 愛はこの家のとなりのアパートに住んでいて、光の園の商店街で働いていて、いろんなことを教えてくれる物知りなお姉さんですから、今すぐにでも解決するような気がして、ひかりちゃんはつい足踏みしてしまいました。

 でも、

「ゴメンね、知らないの。夢子から話は聞いたけど。今帰るとこだから」

「迎えにいっていい?」

「うーん。今日はお休みだから遠出しちゃって。今、ステーキの駅なの」

 受話器から駅のアナウンスがかすかに聞こえました。「お足下、大変熱くなっております」「頭上にご注意ください、ソースが降ってきます、ステーキの駅」などと、愛はずいぶんヘンな駅にいるようです。

「ごめん、行けないかも」

「いいのいいの。やー、困ったわ。ウィンナーだと各駅停車しないから。ハンバーグ電車、少ないから……あ、来た来た来た! ゴメン、電車乗るから!」

 プツッと、あっけなく電話は切られてしまいました。

 愛が知らないとなると、いよいよチョコレートへの道のりが果てしなく遠いものに思えてきました。でも、この女の子は自分が納得するまでとことん頑張る子ですから、受話器を戻してから、廊下を行ったり来たりして考えます。ダンゴムシの話もすっかり忘れてトイレに向かい、おしっこをしながら考えます。この時、イエグモ教授の助手であるワタボコリが研究を引き継いでいたわけで、ついにトイレの深さを突き止めたのです。

 ひかりちゃんのお尻の方から、「やったー!」と聞こえてきました。

「やった? まだ何もやってないわ。考えてはいるけれど」

 後はいつも通り、きれいに拭き取って流すだけ。ワタボコリはびしょ濡れになりましたが、命に別状はなかったようです。イエグモと違って、もともと命がありませんからね。謎の正体を突き止めた喜びに舞うワタボコリと、謎が深まるばかりですっきりしないひかりちゃんはまるで正反対でした。身なりを整えてからトイレから出ると、夢子がいました。

「愛さんはなんて言ってた?」

「知らないって」

「クッキーでいいじゃない、ほら」

 夢子が差し出したのは、ボール紙で出来た箱でした。ひかりちゃんはまず、廊下を挟んで向かいの洗面台で手を洗おうと蛇口をひねりました。おやつの前に手を洗う事は、愛との約束ですから、破ったら怒られてしまいます。それだというのに、蛇口からは一向に水が出てきません。それを見ていた夢子が、意地悪く言います。

「あーあ、こわしちゃったぁ」

「ちがうもんっ!」

 すると、ハンドルが一人でにグルグル回り始め、蛇口がゲホゲホと咳き込んだのです。曇りひとつなかった流しに、なにやら茶色い水が飛び散りました。それは、ひかりちゃんのよく知る甘い匂いがしました。

「チョコレートだ!」

「へえ、チョコレートって蛇口のごみ──」

 夢子の口をひかりちゃんは押さえました。それ以上はきっとこれを読んでいるチョコレートを愛してやまない皆さんが、きっと夢子を嫌いになってしまいます。ひかりちゃんは少し怖かったのですが、蛇口が吐き出したチョコレートを指ですくって舐めてみました。でもこれがまったく美味しくない、ただただ苦いばかりのチョコレートでした。

「お腹こわすよ、ひかり」

「夢子はしずかにしてて」

 ひかりちゃんは、もう一方の蛇口をひねりました。お湯の出る方です。こちらもやっぱり一人でにハンドルが回り出して、咳き込んで、なんと牛乳を出したのです。夢子もびっくりして、髪の毛が牛のような白黒になりました。びっくりしすぎて頭の中が牛だらけになってしまったのです。

「あっ!」

 ひかりちゃんが指さすと、さっきの蛇口から、今度はとろとろとチョコレートが出ています。流しの中で牛乳とチョコレートが混ざり、ココア色になっていきます。歯みがき用のコップですくって、ひかりちゃんは一口飲んでみました。(蛇口がこんな有り様ですから、ひかりちゃんは後で台所で手を洗いました)すると、今度はちゃんと美味しいチョコレートの味がするのです。

「そうよ、これがチョコレートよ!」

 嫌がる夢子に無理やりはよくないのですが、ひかりちゃんはコップに指を入れさせて、ほんのひとしずくですが、なめてもらいました。夢子の髪はたちまち元のきれいな茶髪に戻って、チョコレートの事を思い出したのです。

「ないの? 冷蔵庫に?」

「だから言ってるじゃないの!」

 台所へ向かおうとしたところで、玄関のチャイムが鳴りました。

「やほー。ひかりちゃん、いるぅ? 愛だよー」

 思いのほか、彼女は早く帰ってこれたようです。ひかりちゃんと夢子は大急ぎで玄関のドアを開けると、いつも以上におしゃれした綺麗なお姉さんが立っていました。長い黒髪をリボンで結った姿は、ひかりちゃんの憧れでした。

「お姉さん、おかえりなさい! あのね、夢子がチョコレートを思い出したの!」

「あら。それで何か分かったの?」

「愛さん、チョコレートっていうお菓子なんです。昨日まで冷蔵庫にあったのに、それがなくなってから、チョコレートが何なのか、分からなくなって」

「はわー。じゃあ、ふたりとも、おやつがなかったのね。かわいそうに」

 愛は優しく言って、紙袋を見せました。それはひんやりとしていて、白いもやと一緒にすばらしく甘い匂いがするのでした。

「ほら、駅前のケーキ屋さんで、プリンを買ってきたの。新作なんだって」

 チョコレートかプリンか、どちらかを選びなさいと言われたら、大人だって悩みます。それくらいむずかしい話ですが、この時ばかりは簡単でした。三人はリビングのテーブルを囲んで、愛の買ってきたプリンを食べながら話し合いました。

「じゃあ、その洗面台のチョコレートを飲めばいいのね?」

 愛は洗面台に向かいます。夢子はプリンに夢中でしたが、ひかりちゃんは違いました。こういう時、たいていのお話だと「うらぎり」がありますからね。もっとも、この女の子は何の裏を切るのだろうと思うくらいにはまだ幼いので、くわしくは分かっていなかったのですが、とにかく蛇口を見張らないといけないとは分かっていました。

「やはー。ほんとうだ、あるのね。こんなことって」

 ありましたありました、蛇口は「うらぎり」をしなかったのです。そして愛もまた、ひかりちゃんがやったようにコップですくって、それを飲みました。ここまで来れば、もう話はおしまいとなりそうなものですが、チョコレートの事を思い出した愛の口から、とんでもない一言が飛んできました。

「あはー。ゴメン、昨日、食べちゃったんだ」

 それならどうして、ひかりちゃん以外の誰からもチョコレートが消えてしまったのでしょう。ひかりちゃんは考えましたが、やっぱり分かりません。夢子も首を横に振るばかりで、食べてしまった張本人の愛も忘れてしまっているのです。でも、一番お姉さんの愛はこう言いました。

「やー。きっとお姉さんが悪い悪いと思って食べたから。でも明日、買いに行こうね」

 またオルゴール時計が鳴って、からくり人形たちが踊り始めました。

 ひかりちゃんがびっくりしたのは、その人形たちが手に一文字だけ書かれた看板を持って、順番に読むとこう読めたのです。

 あ、い、が、た、べ、た。

 愛が食べた!

 その看板がクルッと回ると、

 ハ、ン、バ、ー、グ、!

「ふわー。今日の晩ご飯はハンバーグだから、お楽しみに」

 エプロンの紐を肩に通す愛を見ながら、ひかりちゃんは心の中で、こう言いました。

 それはみーんな、知ってるよ!

 

 おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る