第2章 狩猟者のDNA 第6話
「警察官は、腰を抜かして動けなかったので、鉄砲を担いでから俺が子熊をわなから放したけれど、母グマから離れやしないのさ」
「まだ、乳離れしていなかったのですかね」
「そうだな。一晩わなに掛かったままで母グマが面倒を見なかったら、脱水症で衰弱死するだろうって思っていたくらいだから、死んだ母グマの乳を吸おうとするのさ。切なかったね」
「それは、可愛そうでしたね」
「母グマを失っては山では生きていけない大きさだし、どうするか役場と警察官と相談して、殺処分するかどうかしばらく話した結果、市の動物園が引き取ることになって、動物園の職員がくるまで、俺が面倒をみることになったのさ」
「そりゃ、良かったですね」
「佳人も見たことがあるだろう。市の動物園で展示されていたメスのツキノワグマのこと」
「あぁ、知ってる。あのクマが、その時の子熊だったんだ」
「妙子が、小学校の高学年だったから、かれこれ四十年くらい前か」
その話を台所で片付けを終えた妙子が聞いていたようで、
「いやだ、お父さん、歳がわかっちゃうじゃない」
と言いながら、囲炉裏のそばに戻ってきた。
「妙子さんが、小学生の頃の話なら、覚えていますか」
「えぇ、覚えてますよ。わなの場所まで車が入らないので、結局家までお父さんが子熊を抱きかかえて帰ってきて、最初は犬でも貰ってきたのかと思ったら、クマなですもん」
小学生にとっては、珍しくもあり、また可愛くもある子熊の突然の訪問は、四十年の時を経ても強烈な出来事であっただろう。
「一目見て、可愛くて、飼いたいって言ったけれど、その後にリヤカーに積まれた母グマがいて、その姿を見たら一気に怖くなって部屋に逃げ込んじゃった」
結局、動物園から来た職員が子熊を持ち帰り、母グマは地域で分け合うこととなり、その時の毛皮は、子熊のわなを外そうと頑張った警察官のところへ行ったらしい。
今では、考えられない事だが、その当時の集落ではそれが当たり前のことであり、誰も文句を言うような時代ではなかった。
その流れが大きく変化し、クマを駆除しようものならば、役場に抗議の電話が鳴り続けるような状態になったのは、それから十数年後くらいかららしい。
最近はこのような錯誤捕獲が発生すると、県から獣医師が麻酔銃を持ってやってきて、クマを眠らせてから放獣するようになっている。
とはいえ、子熊がわなに掛かって、その周囲に母グマが居座っていると麻酔銃で太刀打ちできないので、英佳(ふさよし)のところへ銃を持って警備に協力して欲しいという依頼が来るのである。
「クマかぁ。狩猟者として一度は撃ってみたいとは思うけれど、絶滅が心配されている現状では、県からも捕獲自粛依頼がでているし、山中で出合ったら悩むだろうな」
「そうだな。悩むだろうな。でも、それじゃ間に合わん。撃たないと決めているから、迷わない。そうしないと、一瞬の間が生じるから、撃っても当たらないし、仮に当たっても気持ちの良いもんじゃない」
「そうですね。安全も考えれば、迷うということは、決して良い結果には繋がらないのが、狩猟ですね」
「あぁ、そうだな。メスを撃たないという決めごとも、オスとメスを見分ける上では重要だからね」
「そうですね。今日もヤマドリのメスには拳銃練習しただけでしたね」
このような囲炉裏を囲んでの猟談義は、還暦間近の天田にとっても楽しいひと時でもある。
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