第1章 犬に育てられて 第3話
英佳(ふさよし)の言うとおり、次の沢の分岐までくると、中尾根に先行した犬がポイントしているのが見えた。
「出る」と天田が思った瞬間、犬の接近にいたたまれなくなったオスヤマドリが、天田の方向めがけて飛び立った。いわゆる「沢下り」というヤマドリ特有の逃避行動である。
最初、ピンポン玉くらいに見えたヤマドリが、銃を構える時にはソフトボール大に、いよいよ発砲しようと引き金を絞った時にはバレーボール大にまで接近していた。
これほど大きな的を散弾銃で撃つのだから、失中するはずはない。そう思った瞬間に、銃のスイング軌道が止まり、発射した時には、照星とヤマドリは一直線上に位置していなかった。完全な失中である。二の矢を引こうにも、ヤマドリはすでに天田の頭上を通過してしまっている。
その時、後方を歩いていた英佳の銃が火を噴いた。
天田が振り返りざまに見た瞬間は、赤い十字架のような姿で頭上を通り過ぎたヤマドリだったが、英佳の銃声の後には翼にも尾羽にもみなぎっていた力が完全に失われて、まるでぼろ雑巾が空中から落ちていくような状況だった。
完全な「雑巾落とし」、英語でいうところの「クリーンキル」だ。
ヤマドリは、慣性で英佳の後方へ放物線を描きながら落下していった。
猟犬が落下したヤマドリに向かって駆け寄っていく姿が視界に入った。
猟犬は、ヤマドリを咥えると、英佳の足元まで運搬して、そっとヤマドリを離した。
自分自身は失中したが、英佳のお陰で帰りの土産はできた。
自分で撃ち落としていれば、喜びもひとしおだろうが、猟犬の動き、英佳の射撃、ヤマドリの落下、さらに回収芸まで、ヤマドリ猟の醍醐味を最前列の観客席で堪能した気分で、失中した喪失感よりも十分な満足感を感じていた。
「天田さん、完全な引きどまりだぁ」
「すみません。油断しました」
「まぁ、いいやさ。お土産も出来たから、次頑張って」
「はい。ありがとうございます」
英佳は、猟犬から受け取ったヤマドリを片手に沢の脇に生えている太さ3mm、長さ15cmくらいの木の枝を折った。枝の根元に近い部分は、さらに両側に枝分かれしている部分があり、口でその一端が矢印の形状になるように、さらに枝を加工し始めた。
適当な大きさの枝ができると、今度は左手に持ったヤマドリの体をひょいとひっくり返し、お腹の辺りに息を吹きかけ始めた。
天田は、初めてこの行動を見たときには「何をするんだろう」と思ったが、今ではそれがヤマドリの腸を引き抜くための作業であることを知っている。
息を吹きかけることで、ヤマドリの総排泄口を探しているのだ。総排泄口を露出させると、適当に加工した枝を一気にヤマドリの体内へと挿し込んでいく。腸の匂いが肉に移らないようにするためには不可欠な作業なのだ。
挿し込んだ枝を二・三回転させてから、ゆっくりと引き抜く。先端を矢尻状に加工してある枝に腸が引っ掛かって、総排泄口からニュルニュルと出てくる。
凄惨なようにも思えるが、以前英佳に腸の匂いを嗅がせてもらったが、あの匂いが肉についてしまった方が食欲は失せてしまうだろう。
ところが、その引き出した腸を猟犬は、喜んで食べるのだ。
英佳に言わせれば、この匂いは猟犬にとっては、香水と同じで、耐えがたい魅力があるとのことらしい。この匂いを追いかけていると言われれば、確かに追いかけるには十分すぎる匂いだと思える。
しかしながら、人間にとっては好ましい匂いではないので、この腸抜きの作業は、ヤマドリの肉を美味しく食べるための儀式なのだと思うようにしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます