第1章 犬に育てられて 第2話

 前を歩いていた狩猟者は、東京からヤマドリ猟にやってきた天田である。

 

 後ろから「メスだ」と声を掛けたのは、地元で狩猟者の案内人をしている山里の祖父、英佳(ふさよし)である。

 

 窪んだ眼、深く刻まれた皺、白髪混じりの無精髭、節くれた指の関節、一見すると精気のない老人である。だが、ひとたび山に入ると、一世代若い、と言っても、すでに還暦に近い天田よりも、歩く速度は速く息もあがらない。


 英佳は、戦争から戻ると、山仕事の傍ら、進駐軍がレスト・アンド・レクリエーション(Rest and Recreation) で狩猟を楽しむ際のガイドをはじめた。

 

 セッターやポインターなどの鳥猟犬が日本に入って来たのは戦前であったが、普及するようになったのは、この時期だったろう。この頃の名残は、現在の鳥獣保護区標識などにも見られる。

 

 鳥獣保護区の標識は、赤地に白文字で鳥獣保護区 環境省と記載されている下に、「Wildlife Protection Area Ministry of The Environment」と英語表記がある。日本人にとっては不要だが、戦後の一時期には必要だったのだ。


 天田は、尾根を越えて新たな沢に入るたびに、この沢でヤマドリに出合えるだろうかと猟犬の動きの変化に注目しながら歩みを進めてきたが、流石に二時間も山を歩き続けると、疲れがたまってくる。

 

 すでに、三羽ほどの出合いはあったものの、すべてがメスであったために、撃つことはできなかった。

 

 今度こそという思いを込めて、猟犬が狩り進むままに後をついてきたが、そろそろ集中力の維持が難しい状況になっていることを感じていた。


「そろそろ、休憩にしようか」

と後ろから英佳が声を掛ける。

 

 正直、その言葉を聞いて、天田はやっと休めるとホッとしていた。

 日当たりの良い斜面に二人並んで腰を下ろし、水筒から水を一口含むと、体の中に新たな力が湧いてくる気がした。


「山里さん、元気ですね。僕より、一回りも年上なのに、全然息もあがってないですね」


「そうかい。天田さんだって、年の割には動けている方だよ。先週来た埼玉の人は、さっきの沢まで来るのに、倍の時間がかかったからね」


「そうなんですか。他の人と共猟することがないので、山里さんの足の強さを見るたびに、自分の体力の無さを感じて悲しい気持ちになっていたんですよ」


「そうかい。天田さんは、まだまだ大丈夫だよ。五十代でこれだけ動いていれば、六十代での動きは、会社勤めの人と比べれば月とスッポンだ。六十代も頑張って動き続ければ、七十代では、鬼に金棒だろう」


 というと、顔の皺を深くして、目を細めた。これがこの老人の笑顔なのだ。


 たわいもない話をしつつ、体力の回復を待っている間、さっきまで止まることなく動き続けていた猟犬は、山里の横で丸くなっておとなしくしている。


「相変わらず、いい動きをする犬ですね」


「まぁ、この子は、これまでの犬の中でも三本の指には入るね。この子の母親が抜群だっただけに、少々物足りなさもあるが、まだ若犬だからなぁ」


「そういえば、先代の犬も凄かったですね」


「あぁ、天田さんが来るようになった頃は、そろそろ引退させることを考えていた時期だったけれど、まだまだ頑張っていたね」


「私も、良い経験をさせてもらいました」


「まぁ、その子だから、あと一・二年も引けば、仕上がるだろう」


「そうですね。これからも楽しませてもらえれば良いですね」


「あぁ、それじゃ、そろそろ行こうか。おそらく次の沢にオスが入っているから、頑張りなさい」


「はい」


 天田と英佳が腰を上げると、傍らで休んでいた犬も腰を上げた。大きく伸びをすると、また天田の前を狩り進んでいった。

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