終幕 雪華の竜にさよならのキスを

(――ベア、エレベアさんッ!)


 呼ぶ声に目を覚ます。

 まぶたを開くとプクリとあぶくがまろび出て浮き離れていく。


「エレベア!」

「シャ、ラ?」


 不思議な空間だった。

 水の中のようであるのに息苦しくはない。周囲は真っ暗で、あちこちに夜光虫の軌跡がそのまま残ったような光の糸が浮かんでいる。

 視線をめぐらせれば背後に、都合つごう五本の光糸が束ねられたかたまりが寄り添っていた。


「……! そうです、聞こえますか!?」

「聞こえるけど、微妙に遠い……というか、どうしたのその恰好かっこう、ちょっと痩せた?」


 声は空気を震わせていない。もとより空気そのものがないのだから。頭に直接響くそれは、ちょうど空でシャラと心を通じ合わせたときのような。


「むぐ。いえ……分かりません。わたし、エレベアが落っこちたのをみて飛び込んだんです。そしたら……」


 寝ぼけた頭へ自分に起きたこと、それにイステラーハの最期がまざまざと浮かんでとっさに胸を押えた。


「おばあ様……」

「ぁ、あーあと、エレベアも人のこと言えませんからね?」


 指摘され自分の体を見下ろす。胴と足があるはずの場所には四本の光糸。それを横へ束ねるもう一本は腕の位置。


「これ、体脈ナディ?」


 魔杖士なら幾度となくイメージし、寸分たがわず位置を合わせられるよう訓練する五体の中芯。

 それだけがむき出しの状態だった。胸の傷もどこへやら、自分という存在がひどく簡略化されてしまったように感じる。


「わたしたち、死んじゃったんでしょうか?」

「ん……そうね、案外幽霊ってこんなのかも」


 シャラの頭があるはずの場所にじいっと目を凝らせば、まぶたや唇のかすかな体脈がみえてくる。


「アタシの杖をしらない?」

「いえ……すみません、わたしも気づいたらここにいて」

「そ」


 焦点をあわせるように続けるとその輪郭はじょじょにハッキリして半透明なシャラといえるくらいになった。


「というか、ホントについて来ちゃったのね」

「な、なんですか、いいって言ったじゃないですか」

「いや言ったけども」


 あれはあくまでエレベアから伸びる親愛の矢印の太さを表したに過ぎず。シャラが本気なのは分かっていたがイザとなれば人間ためらいなどあるんじゃないだろうか。無いのか?


「まさか今さら重いとか思ってませんよね!?」

「ないない、ないったら! ただカタギでまだ若いのにって思ったら申し訳なくなっただけ。アンタのお母さんに!」


 低めの声ですごまれて慌てて否定した。

 シャラは腰に手を当てめいっぱい視点を高くする。

 

「年のことをエレベアに言われたくないですし。わたしだってもう門人ですからカクゴはできてます!」

「何の覚悟よ、べつに魔杖士は命を粗末そまつにするもんじゃ……ごめんなさい」


 ものすごい怒気が伝わってきたのですぐに謝った。今のは失言。


「粗末になんてしてませんっ、メーワクならそう言えばいいじゃないですか!」

「そうは言ってないでしょ!?」


 言いがかりだ。よくそんな信頼感で後追いに踏み切れたものだと思う。

 シャラの怒気が伝わってか自分までカリカリしている気がした。それに前後して。


(――自分がもっと強ければ――)


 ひとつの後悔が浮かび上がって胸をついた。この思いは自分のものかシャラのものか。二人のという感じもする。

 同じ悩みを二人で抱えているとしたらちょっと可笑しいとエレベアはふっと肩の力を抜いた。


「……美意識の問題ね」

「はい?」


 後悔を口にしたところでお互い否定し合うに決まっている。だからといって手打ちにならないのは、ごく個人的な問題だからだ。

 エレベアの抱える申し訳なさは結局、自分がそうしたかったという心残り。


「幸せにするって言ったのにね」

「っわ、わたし、一緒に死ねて幸せですよ!?」

「だから覚悟がキマりすぎてんのよアンタは。その自己肯定感どっから出てるの? あと死ぬとか言わないでよ怖いから」

「フォローしてるんですけど!? いきなり三回も刺してくるの何なんですか!?」


 軽口に反応してくれるシャラに安心する。


「照れたの、ごめんね」

「む……ぅ」


 素直にあやまると噴火はスンとおさまった。


「じゃアタシはもう気にしないわ。しょうがないことだもの。シャラさえよければもっと建設的なコトをしましょ?」

「け、ケンセツテキなこと、とは」


 いつ終わるとも知れないから。ごくりと喉を鳴らしそうな彼女へ身を寄せる。


「シャラのしてほしいこと。なんでもしてあげる。どうせ今は動けないわ、ならせめて楽しくいたいじゃない?」


 さっきから上も下もわからないような状態だ。いつまで続くのか。ずっとこのままなら悪くはないが望み薄だろう。


「そう、ですね……」

「代案あって?」


 煮え切らないシャラに尋ねるとモジモジと体をひねりだす。


「いえその。こんな時くらい年上らしくしたいというか。エレベアのしたいこと、してあげたいなーって」


 なにかないです?と上目遣うわめづかい。

 その仕草に言葉づらはとても魅力的だが。


「ふぅん、このに及んでまだそんなおためごかしを言うのね」


 誘いが透けて見える。それに乗ってやるのも余裕というやつだろうがその前に。


「トンでもないこと口走ってドン引きされるのが怖いんでしょ。シャラお姉さまはずいぶんこじらせたシュミをお持ちだものね?」


 意地悪く笑ってつついてやると、むぐっとシャラが息を詰まらせた。笑わせたいし安らいでほしいけれどやっぱりこういう顔も見たい。


「っ、そんなつもりじゃ――!」

「キスして」

「――ぁ」


 我ながらややこしい、と嘆息するかわりに誘いだされた言葉を吐き出した。

 くりっと見開かれるシャラの目。だが。


「いつぞやの貸し、まだ返してもらってなかったでしょ」


 そう付け加えたとたんジトッとすがめられる。


「……エレベアこそ」


 こんなときまでそういうコト、と呟いて。


「なんて?」

「あーもういいです! さっさと唇だしてくださいっ」

「なんで喧嘩腰なのよ……」


 呆れつつも、ん、と唇をつきだす。目を閉じてから、しおらしすぎるかと片まぶただけ持ち上げた。


「――、」


 けれどシャラはどこかあさっての方角を見つめていて。


「うん?」


 引かれるようにエレベアもまたそちらへ振り向いた。


「げ」

「……なんでしょう、あれ」


 シャラの疑問には答えられなかった。が、明確に異物であるのは間違いない。

 光のかすみ。そうとしかいえないぼんやりとしたものが川霧のごとく周囲一面に迫りつつあった。まるで上下のない世界にひとつ、水平線をなすように光の帯の環が狭まってくる。


「きれい……」

「そう? 世界の果てって感じだけど」


 目を奪われたままのシャラを背に隠した。とはいえ全方位からくる霞から逃れる手だてなどありはしない。

 自分の体を見下ろした。体脈の透けて見える薄い体。


(試さないよりはマシかしら)


 杖はないができるような気がした。感覚がすでに変化する一歩手前のように張りつめている。思うにここは。


「――使うでないよ、エレベア。この場所自体が巨大な魔法の杖の内だ。魔法を唱えれば何もかも巻き込んでしまう。おもとの大事なものまでね」

「っ、おばあ様!?」


 霞のむこう、いやそのものが震えたような響きにハッとした。

 光はエレベアの目の前に集まってひときわ強い光を発すると、あいまいに人の形をとる。


「オアシスは聖樹の切り株が腐りおちた巨大な虚洞うろられた株は今でも養分を吸い続けている。ここにはそれが溜まりに溜まっているのさ」

「……それって神話の」


 聖樹伐採。イステラーハらしき光はあたかもそれが現実であったかのように語る。


「ここが杖の内側っていうのは?」


 聞きたいことが山ほどあるのを全部のみこんでエレベアは訊ねた。イステラーハの口ぶりにはまだ現状をどうにかする方法が潜んでいる気がして。


「魔杖は自然の形を組みかえるもの。逆雷樹ユーピト・ハッドゥは大地を枯らした聖樹が上に伸ばした毛根。つまりオアシスの外郭がいかくこそは魔杖の大元。ここではあらゆる想いが叶う」

「じゃあ……!」


 ただし、とイステラーハがエレベアを遮った。


「体中の水と引き換えにね。そもそも魔杖が人の体を変化させるのはそのためだ。形の定まった人間をそのまま吸いあげることはできないから、別の形へ変化する不定形の最中をねらって水をもっていく」

「そんなこと、それじゃまるで」


 杖に意思があるようじゃないか、と。途端にこれまで平然と行ってきたことが恐ろしく思えてエレベアは身をひと震いさせた。


「おばあ様は、どうしてそんなことを知っているの?」

「昔ここで死にかけてね。使った魔法の性質でなんとか命は繋いだが色々なものを失った。……エレベア」


 光の輪郭がはじめてシャラのほうを向いた気がした。


「その娘と親しくさえならなければ、こんな仕儀ありさまにはならなかったろうにね」

「っ」

「ちょっと!」


 射られた言葉にシャラは息を詰まらせエレベアは反駁はんばくする。


「大きなお世話よ、だいたいまだ――」

「言っておくが戻る手段はない。アタシが帰れたのはもっと上層の話だ。ここからじゃとても」

「……!」


 差し込まれ文字通り絶望的な気分になる。それでも。


「だとしても……後悔なんてしてないわ。死んで死なせて、それでも切れない縁なんて素敵でしょ?」

「エレベア……」


 シャラの手がエレベアの腰を抱く。心配するような、繋ぎとめるようなその声に助けられたのは何度目だろうと思う。

 親友で、それ以上。ぐずぐずに崩れかけたエレベアを、いつだってもとの形へ固めなおしてくれる相手ひと


「そんなものがアタシの一生を蹴飛ばして得たものかい!」

「上等でしょ、ていうかコッチだってアタシの人生やってんのよ!」


 二人も三人も抱えていられない。シャラの事も結局はエレベア自身がそうしたかっただけ。


「アタシはおばあ様の後継にはなれないし、ならない。命を懸けるものはひとつしか持てないから。を通して死ぬんだから、後悔なんてしたらおばあ様だって怒るでしょう?」


 そんなことをされればそれこそ蹴飛ばされ損になる。

 光がフワリと輪郭をゆるくした。


「フン、そうかい。時間の無駄をしたもんだ。まあいいさ、マジメにやったところでアタシに並べたかは怪しいもんだしね。自分の才能を恨むことにするよ」

「む……まぁ、それは否定しないけど」


 正直あのままやっても勝てなかったろうと思う。本気のイステラーハは変幻自在で、もはやどんな型にもとらわれていないようにみえた。彼女自身が回転するクラブのように縦横無尽じゅうおうむじんな魔法と化していた。


「秘奥はみせた。受け取れるかはお許次第といったところか」

「え」


 光のもやが一筋、エレベアの前へと流れると文字となる。それは〝覚者かくじゃの文字板〟にあった最後の一字。


 ――過去θ――


「死だってのは俗説でね。我ら魔杖士の大師たいし様はいまわの際にあって時のみちを視た。かよえばさかのぼる、これはそういう魔法だ。地上にも戻れるだろう」

「さ……さっき戻る道はないって。だいいちそんな便利なものがあるなら」


 どうして自分で使わないのか、と。

 イステラーハの輪郭は時を追うごとにあいまいに散りつつあるようだった。


「魔法の初歩を忘れたかい。魔法には紋様もんようと言葉、それに理解が必要だ。過去を変えようと思った時点で時間の本質から目を逸らすことになる。つまり……」


 途切れた続きをエレベアは思案しそして。


「過去を過去と受け入れた人間だけが魔法を使える?」

「そういうことさ。アタシはすべてを受け容れるには長く生きすぎた」


 答えを最後に光が霧散した。周囲の水がゆっくりと大きく渦を巻きはじめる。


「お許たちなら使えるだろう。ただし戻りすぎないように。いろいろ忘れるよ。トシのとりかたや恋のしかたなんかね」

「ちょっとまっておばあ様、アタシは!」

「エレベア、だめ!」


 渦のほうへ泳いだ体を後ろから抱きしめられる。振り向けば泣きそうなシャラ。


「……っ、こんなこと、したいわけじゃなかったのよ」

「わかります、でも!」

「おばあ様の期待を裏切りたくなんてなかった。シャラのことももっとちゃんと紹介したかった!」


 あらゆる虚勢きょせいが必要なくなって、ついに耐えがたく痛む胸を抱えて体を折る。


「後悔なんてしたことない。どんな失敗だって挽回ばんかいしてきたわ。でも、今のアタシは」


 弱い。胸にぽっかりあいた穴が涙だまりになって内側からくずれていくようだった。埋めようのないそこは生涯の病巣びょうそうとなって痛み続けるのだろうか。だとしたらもういっそこのまま。

 ぐい、と伸びてきた手があごを引き寄せた。


「シャラ、――むぐ」


 呼んだその顔が大映しになる。唇を割ったやわい彼女の先端が口内を力任せにまさぐった。頭のもやが半ば無理やりに晴らされる。


「っぷあ、ぁ……?」

「これで貸し借りなしですね」


 ぐいと口元をぬぐった表情は妙な迫力があり。その据わった目に思わずドキリとしてしまう。


「約束、守ってもらいますから。もうしょうがないなんて言わせませんよ」

「う……それはまあ、でも」

「ちなみにさっきはああ言いましたけど。理想を言うならあと50年くらいは生きたいですし。エレベアよりは先に死にたいです。それで二三年したら次はエレベアが追いかけてきてください」


 お願いします、と。いい笑顔でいわれて天をあおいだ。


「……本当アンタって遠慮を知らないっていうか。ねえ、今だけ重いって言っていい?」

「ちゃんと抱えて運んでくれるならいいですよ」


 ため息ひとつ。どうやらまだ虚勢は張らないといけないし、自由はあまりないらしい。ただその選択肢のなさが今はひどく安らかだった。


「しょうがないわね。……帰るわ! お別れよおばあ様!」


 暗闇から答えはない。ただ冷たい水がぎゅるぎゅると渦巻く音が高くなるだけ。

 一度目をつぶってからシャラを見上げた。


「手をだして」

「うん」


 両手をつないで腕で環をえがく。あとは中央に分線を引くだけ。

 咳ばらいを一度、まつげにかかる髪の毛を振り払った。


「キスするわ」

「はい」


 こともなげに閉じられた目に気圧けおされて数瞬ためらい。思い切って覆い被さった。カチ、と軽く前歯同士がぶつかる音。


(はっず……)


 顔をおおいたくなる。仕返しに舌でもいれてやろうと思っていたがこの流れじゃがっついているようにしか見えないだろう。

 やり直したい、が叶わぬ相談だ。けどまあ。


(いいか、最初くらい。どうせずっと一緒にいるんだし)


 微笑ましげにうごめいた唇にむずがゆさを覚えつつ、いっそう強く押し付けた。

 魔法が発動する。なにかに引っぱり上げられるような奇妙な感覚。ふわりと足元を押し上げる力も手伝ってエレベアたちは急上昇する。遠く暗闇の天頂にひとつの星が輝き、それはどんどんと大きくなると見上げる水面へと変わった。


「ぷはっ、シャラ!」

「エレベア!」


 二人の体が別方向へと離れそうになる。その力に抗うように強く手を握り合った。

 飛沫が上がる、胸から水の塊がとびだして、かわりに空気がすべり込む。

 オアシスに浮かぶ仕合場に叩きつけられそうになったところを、冷たく白い花びらの風が受け止めた。


「これは……」


 誰もが呆然とその光景をみつめている。

 エレベアが落ちたときから時間は大して経っていないようだった。まるで自分の肉体だけが時間を巻き戻ったように欠けのない状態でここにある。

 そして、オアシスから。


「綺麗……」

「あぁ」


 無数の花弁はなびらが舞い上がっていた。

 自分たちをすくったその冷たさは氷の結晶。それが一連ひとつらねの竜のごとき群れとなって水面から空へと昇っていた。

 花弁が二枚、エレベアの肩へと舞い落ちる。


『――いいかい、アタシはおもとに負けたんだ』

「っ」


 まるで冷たい唇のように震える氷の切片。


『――負かした相手に気を遣うんじゃないよ。踏み越えてアンタは、アンタの人生をおやり』

「おばあ様ッ!」


 じわり、とけて水滴にかわっていく雪華へ叫ぶ。もう応えはなかった。


「……割り切れるわけないじゃない、そんな簡単に」


 へたり込んだ膝上でこぶしを強く握る。でも、それでも。


「ありがとう、心配しないで。アタシは大魔女イステラーハの娘だもの」


 それだけは変わらず背負っていこうと思った。いつか自身の道の果てにその称号にふさわしい自分と出会えたとき、この胸の空洞きずが癒えればいいと願う。それまで。


「さようなら、おばあ様。貴女アナタの娘でよかった」


 かすかに解け残った花弁へ唇をよせる。そっと雫を吸い取ると泣きそうな冷たさがみ込んだ。


「――ちゅう」

「んむっ、ぅ?」


 振り向けられざま奪われる唇。軽くすいあげたそれを解放してシャラはにへへと笑う。


「いきなり何よ」

「いえ、なんだかしたいなあって」

「っ……あのね」


 いろいろ言いたいことはあった。感傷にくらい浸らせろとか衆人環視の中だとか、そもそもアンタいま裸だけど大丈夫、とか。


「……まあいいわ、今くらい」


 どうせこれから鬼のように大変なのだから。言い訳に事後処理、おためごかしに脅しに透かし、あらゆる手を使って守らないといけない。


「シャラ」

「はい?」


 だから。


「支えてね、ずっと」


 公の場で口にできるのはそれくらい。一番大切で自分の弱味だらけの言葉はそっと耳元に寄せて。


「――」

「っ、ぁう」


 囁く。そうして出来あがったささやかな秘密をに立ち向かおう。


 ――お互いの温かさだけが確かで。

 ――お互いの肩越しに眺めた世界はそう悪くはなくて。


 雪華が空へ吸い込まれる。それをただ見送って、立つ。

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メズィス魔法国御前試合~雪華の竜にさよならのキスを~ みやこ留芽 @deckpalko

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