32.神の許しなど要りません

 大聖堂のいのりの広間は、蝋燭ろうそくの明かりも小さく、暗かった。


 もうすぐ日付も変わる夜更よふけだが、祭壇さいだんの上に黒い法衣と白の肩布かたぬのまとった人物が立ち、光をかたどった放射円を背負う正十字の像に頭をれて、祭壇下にいる修道士達と共に、祈りの言葉を唱えていた。


 大聖堂は石造りだが、正十字の像は木製で、まだ新しい。


 一度破壊されたのだろう。見渡せば、壁にも椅子にも、多くの破損があった。


 広間のすみで、椅子いすに足を投げ出し、シャハナ国軍兵士が眠っていた。


 マリリが背後から口をふさぎ、あごを上げさせ、のどを斬る。


 基礎教練の通りの、無駄のない動きで、てのひらほどの小刀しょうとうでも命を奪うには充分だった。


 ひたいに巻いた布の血は、返り血ではない。まだにじみ続ける、マリリ自身の血だ。


 声を止めた修道士達の、真ん中を進む。祭壇上の男に一礼した。


「お久しぶりです、教主様きょうしゅさま。幼い頃、ここで何度かお菓子を頂きました。ラスマリリ=カラハルです」


「ああ……覚えています。大きくなりましたね……ですが、罪深いことを……。彼のたましいに、神のやすらぎを。彼女の罪に、神のお許しを」


「神の許しなどりません」


 マリリが、決然として言った。


「フェルネラント帝国陸軍、特務部隊として申し上げます。ロセリア、シャハナ両国の占領軍を殲滅せんめつし、イスハバートを解放します。御協力を」


「それは……どうか、御容赦下さい。街の者の犠牲ぎせいが、増えるばかりです」


「今は増えていないとでも、言うのですか!」


 修道士達が、また祈りの言葉を始めた。


「街を見ました……。男達の姿はなく、女達は……哀れな姿ばかりでした。これが犠牲でなければ、なんなのですか?」


「それでも、秩序ちつじょがあります。滅びに向かうしかなくても、秩序が……平和があります」


「秩序……? 平和……?」


「平和の対極は、無秩序むちつじょです。戦争、飢餓きが、災害……それらが結果として呼び込む、秩序の破綻はたんこそが、平和からもっとも遠いもの……。逆を言えば、どんな状況であっても、秩序さえたもたれていれば……人は、平和を思うことが、できてしまうものです」


「暴力にしいたげられていても、ですか? 誰も救われない今が……こんな今が平和だと、本気でおっしゃっているのですか?」


 教主が、顔に深いしわを刻んだ。


「私は……私達は、凄惨せいさんな……本当に凄惨せいさんな人の姿を、ずっと見せつけられてきました……。人は、どれだけ人の状態を失えば、ようやく死ぬことができるのか……どれだけ尊厳そんげんを奪われれば、ようやく精神が解放されるのか……ずっと……ずっと……」


 祈りの声が、震えるように大きくなった。


 街の中、大聖堂からずっと聞こえてきた声に、広間を埋める数の修道士がいると推測していた。


 だが、はるかに少ない。そして、その誰もが、身体が奇妙にゆがんでいた。


 民族浄化みんぞくじょうかが行われている以上、彼らも、無事であるはずがなかった。


 顔の皮膚もかわいて、しわがれている。彼らだけで、傷ついた身体で、昼夜の祈りを連綿と続けていたのだ。


「今は……彼らにさからいさえしなければ、あのような……見せしめの犠牲が増えることは……。もう、私達には……神と……彼らに祈るしか、できることなどないのです……」


「教主様……っ!」


 マリリが、叫びかけた声を飲み込んだ。目を伏せる。ほんの少し、呼吸が止まった。


 だが、それでもマリリは、一歩を踏み出した。


 自分の足取りを確かめるように、ゆっくりと祭壇に上がる。祭壇の正十字像に触れる。


 教主を、修道士達を見て、頭を下げた。


「すまなかった……。三年間、本当にすまなかった……っ!」


 教主が、驚いたように顔を上げた。修道士達が祈りの言葉を止めて、全員が、初めてマリリを見た。


つらい思いをさせた、なにもしてやれなかった……おまえ達の苦しみがわかるなんて、思ってもいない。本当に、すまなかった……っ!」


 マリリの、正十字像に触れていた手が離れ、こぶしを握る。


 背筋を伸ばし、胸を張った。


「それでも言うぞ! 目を覚ませ! こんな物が今、なにをしてくれる? おまえ達の首の下にぶら下がっているのは、同じ木彫きぼりの作り物か?」


 大聖堂の静寂せいじゃくに、マリリの声が響き渡る。涙を混じえても、かすれることなく響き渡った。


「まだ生きている! まだ、生きているんだ! 生きているなら立て! 守るものに手を伸ばせ! それしか……それしか、ないじゃないか!」


「ラスマリリ……姫様、あなたは……」


「私は戦う! 戦うと決めた! 戦えない人達の代わりに……戦えなかった頃の自分の代わりに、罪と血と泥に汚れても、戦うと決めたんだ!」


 教主がマリリを見つめた。


 マリリは、背中を向けた。


「攻撃目標は王宮と、市街四ヶ所の軍施設です。せめて周辺からの避難指示を。攻撃開始は」


 リントをかいして、うなずいて見せる。すべて順調だ。問題ない。 


「たった今です!」


 マリリの叫びに、遠く上方からの風切り音、炸裂音さくれつおん、街そのものをゆるがす震動しんどうが、次々と重なった。


 そして連動する寸動制御電動機すんどうせいぎょでんどうき油圧筒ゆあつとうの駆動音が、狂人の高笑いのように、山脈の闇を震わせて木霊こだました。


 それは空から降り立ち死を振りまく、侵略者の咆哮ほうこうだった。

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