1-2


「……黎月れいげつだ」

「え……?」


 問い返す声は、私がどれだけ勇気を振り絞っているのか、きっと知らない。龍神族りゅうじんぞくにとって、真名まなは特別なもの。それでも、今この少女に呼んで欲しいと思ってしまった。


「私の名だ。呼ぶことを、許そう」

「……うん、黎月!」


 その瞬間に全身を駆け抜けた感覚を、きっと一生忘れることはないだろう。この名は、こうして呼ばれるために在ったのだ、と。


「ねえ、もう少しお話するなら、これを織りながらでもいいかな。今夜のうちに、無地の所は織り上げてしまいたいの」

「もちろん、構わない」


 コトリと足を踏み変える音が聞こえ、あの軽やかな音が再び響き始める。




 トントンカラリ、トンカラリ




 良い音だ、と思いながら息を吐き出す。


「鈴鳴……その、見ていても良いだろうか。そなたが織りなす布を、この目で見てみたい。小屋に立ち入らなければ、良いのだろう?」

「えっと……そう、だけど。でも今日は、お月様もお休みだから紋様もんようが見えないと思うの」

「……ならば次は、月の明るい晩に来よう」

「また来てくれるの?本当は、ちょっと寂しかったから嬉しいわ」


 心なしかはずんだ声を背中に感じて、自然と口元がほころぶのを感じた。


「約束ね」

「ああ、約束だ」



 

 トントンカラリ、トンカラリ




 そっと言葉を落として、またはたる音だけが響く。穏やかな時が、優しい闇に溶けていく。この宮中で、こんなにも心安らいだことがあっただろうか。


「鈴鳴、歌ってくれないか。先刻の……美しい歌だったから」

「……珍しい、歌じゃないと思うけど」


 何故か、彼女の声が戸惑いに揺れていた。


「いや、都の流行り歌には詳しいつもりだが、私は聞いたことがない」

「そう、なの……故郷はここに、あったのね」


 囁くような声が、震える。それは侵してはいけない悲しみのようで、私は声一つかけることが出来なかった。


 やがて、浅く息を吐き出す音が聴こえると、機を織る緩やかな調子に混じり、優しい歌声が響き始める。それは夜闇を包む星の瞬きに似て、静かな孤独をはらんでいた。




 果てのない旅路に一人

 消えない紡ぎ唄を抱き

 やまびこで呼びあった

 この名を胸に空を行く

 月明かりを浴びて――




 トントンカラリ、トンカラリ――




 ふと目を開けると、その心地良い音は止んでいて、空の果ては浅く白み始めていた。当然ながら鈴鳴の気配は消えており、明けのみょうじょうだけが空に瞬いていた。


 こんなにも良く眠れたのは久方振りの事で、折角の美しい夜明けをいつまでも留めておきたかったが、そろそろ現実に戻らねばならない時間だった。重い息を吐き、その足で大神殿へと向かう。奥へと歩を進めるほどに、無闇と高くなる天井の理由を、私は知っている。


「殿下!皇太子殿下っ!いつになれば、御自身の居室で大人しくお休み頂けるのですかっ!もう、私共は心配で心配で……」

「黙れ」


 冷ややかに命じれば、グッと喉を詰まらせたように雑音が止む。それで良い。その声は私を案じるものでなく、己の地位と出世の行く末を案じるものでしかないのだから。


「……し、しかし殿下、次代の王たるもの」

口説くどい。皇太子としての責務はこなしているし、ねやの事まで指図されるいわれはない。どれだけ取り入ろうが、余は傀儡かいらいの王にはならん。死にたくなければ、口を閉じていろ」


 そう告げて、私は人の身に封じた力を解き放った。この国を、人々を統べる龍神族の証、畏怖と信仰の象徴である龍の姿。人を傷付ける力しか持たない、異形いぎょうの姿だ。


「……ははっ!」


 人の子の姿であれば侮り、操ろうとする者達が、龍の姿をとれば途端に顔色を変えてひざまずく。実に滑稽だ……彼らではなく、己自身が。これは、力による支配。そこに心などあるはずもなく、人々はこの姿をおそれ遠巻きにし、近付く者はこの『暴力』を利用するのみ。


 これが、私だ。石造りの神殿の床を、ずるずると蛇のごとく這いずり、居室とは名ばかりの空洞に身を収める。人の身も、人の世も、窮屈でならない。


 それでも、この冷たい石床の上では得られない安らぎと温もりに触れてしまった。だからこそ、今の私は知っている……この冷たさが、静けさこそが孤独なのだと言うことを。




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