夜のしゃんだらだん

安良巻祐介

 我が家の近所の住人達は基本的に善良な人が多いのだが、そういう心根とは全く別の部分で、いわゆる世間一般の「普通」からは少々外れているらしい。

 夕食の後、坂下の自販機に虫篭を買いに行きがてらぶらぶらと散歩していると、青い月光の差す破れ塀のそばを八足歩行している圓氏を発見した。

「圓さん、何をしているんです」

 呆れて声をかけると、貴方と同じ散歩だという。

「散歩するにしたって、八本の手足でやることはないのでは」

「いえね。今日があんまりいいお月様だから…」

 氏曰く、月の具合のいい晩は、手足を増やす絶好の機会だという。

 そのひょろ長い影が、八つの手足を楽し気にわらりわらりと蠕動させて、敗れた塀の傍で不可思議な浄瑠璃のように踊っている。

 陶芸で身を立てている氏の普段は、世の中にも自分にもぴしりとした姿勢で臨む、大変に尊敬できる大人なのだが、夜になるとこのようにしどけなくなるので、全く困ってしまう。

「いい月はね、少しずつ色んなものの形を変えてしまうんだ。私も最初はね、窯の中に月の光が差し掛かって、青い色に染まった炎がまるで花細工のように踊るのを見ているだけで良かったのだけれど、そうしているうちにすっかりやられたらしくてね…」

 喋り続けながら、圓氏は、四対の手足を祈るように組み合して、空へと掲げた。

「だが、まだこんなものじゃあない。単なる蜘蛛もどきになってそこらをうろつくのがね、私だと思ってもらっては困る」

 別に、これ以上を期待してなどいないのだが。

「こんな月夜を幾つも重ねて、重ねて、増えた手足を数えるうちにね、いつかそれは数えられなくなって、私の周りを一回りする。そうして私は、最後には完全な円形になるんだ。この名前と同じように。持って生まれた名前にふさわしい形状になる事、それこそが、人に定められた仕事なんだね」

 まくし立てる彼に、かんなぎの髪を縒り合わせた特製の〆紐を括りつけ、溜息をつきながら引きずっていく。

「こら。何という失礼なことをするんだ。やめなさい桜月さつきちゃん。いくら坂上サカノウエだからって、礼儀というものがある」

 下手な大虎よりもよほど面倒な大蜘蛛もどきは、どの口が言うのかという図々しさで抗議していたが、いちいち取り合っていたら、耳がいくつあっても足りない。

 月の光を浴びながら、愚図つく圓氏を何とか牽引して(その体は私でも抱えられるくらいに軽くなっている)、坂途中の彼のねぐらへとたどり着き、少々乱暴にお尻を蹴って、中に押し込んだ。

 そうして、もう一度、溜息をつく。

 もう何度見上げたかわからない、我が家の姿を、坂の中途から、改めて見やる。

 この稲生坂の一番上にあるあの物見屋敷ものみやしきで、私の前には、祖母が管理人を請け負っていた。

 私たちの家はそうやって、兄弟姉妹のうちの一人が役目を継いで、一帯の住人達を睥睨し面倒を見る。

 一度後を継いだ叔父が早くに亡くなったので、祖母は律儀にも孫の代に引き継ぐまで、再び役目を果たしていたのだ。

 それにしたって、花の高校生活を終えるなりあんな古屋敷に住まわされ、おばあちゃんの後を継ぐ羽目になった私というのは、全く以て不幸だと言う他ないが、それでもこうやって逃げ出さずに毎晩の散歩と声掛けを続けているのは、幼いころから幾度となく行き来したこの坂と、此処にしかないどこか異様な月夜に、私もまた魅せられているからだろう。

 溜息を打ち切った私は、自販機で買った小さな虫篭を片手に引っかけて、そこに入れた小さな魂虫タマムシを信号代わりに、景気づけの鼻唄をふんふんと諳んじながら、坂の上へと帰って行った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜のしゃんだらだん 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ