頭花

亜済公

頭花

 体育館から外へ出ると、校舎が白く浮かび上がる。そこは今や、学習の場でなく避難所だった。制服のスカートが風に揺れる。前髪がまつげにちょっかいを出す。広々とした校庭に、人の姿は見られなかった。

 絵の具を水で溶かしたような、薄紫色に染まった空が、こちらをぼんやり見下ろしている。これから暑くなるぞ、と私はいつもの予感に溜息をつきつつ、携帯端末で写真を撮った。夜明けの画像は三十枚。この街が閉鎖されてから、丁度一ヶ月が経過している。

 校庭の端に植えられた、大きな杉の木の向こうには、硝子張りのビルが窮屈そうに並んでいた。じっとその場で見つめていると、太陽の上昇に伴って、彼等の表面が陽光を反射し輝き始める。かつて多くの人間を収容していた、巨大な高層建築は、それ以外、するべきことを知らないかのように思われた。遠くうねる高架道路に、車の姿はもはやなく、微かな葉擦れの音以外、聞こえてくるものは何もない。全く、あらゆるものが静止している。そんな中で、ビルのもたらす風景の変化は、私の気分を多少和らげてくれるのだった。

 日の光は、急速に力強さを増していき、やがて目一杯の輝きで、私の眼球を突き通す。学校を囲う街並みが、一斉に明度を上げていた。赤い屋根、青い屋根、新しい屋根、古びた屋根……。屋上に干された洗濯物は、雨風にさらされ灰色をしている。真っ黒い電線が、風景をまっすぐ横断し、電信柱が思い出したように立っていた。

 そして……そして何より目立っているのは、色とりどりの巨大な花の姿であった。人間の頭部ほどの大きさをした色彩が、ビルの中、横断歩道、あるいはアパートの共用廊下、そう言ったあらゆる場所に根を張っている。あたかも、街の全てを装飾しようとするかのように。あたかも、自分が人間であると言うかのように。

 私は体育館へと歩き始めた。じりじりと睨めつけるようなしつこい熱気が、早くも周囲を漂い始める。

 ――太陽は、嫌いだ。

 ピンク、緑、青、黄色……多彩な花の色合いが、ちらりと視界に入る度、私は例えようのない嫌悪感に囚われる。陽光は、あまりに全てを照らしすぎると思うのだ。

 私はふと、ある老婆の姿を想起する。彼女がついに「死んで」から、既に二週間が経過していた。


   ※


 自宅の近所の商店街に、小さな文房具屋がたたずんでいた。何のことはない、時代錯誤な品ばかり置く、個人経営の店である。

 ひょいと覗けばいつだって、古びた蛍光灯がチカチカ騒がしく瞬いていた。ガラス戸に貼り付けられた交通安全のポスターは、雨に塗料が抜け落ちて、亡霊のような様子をしている。そこを一人で営んでいた、腰の曲がったしわくちゃの老婆。

 彼女の「死」にまつわる記憶で、酷く印象に残るのは、僅かに緑がかった皮膚の色。おそらくは恐怖のためだろう、眼球は絶えず痙攣し、脇から溢れる冷たい汗は、妙な青臭さを伴っていた。もはや死は避けられない。仰向けなった身体の下に、レジャーシートが一枚敷かれ、埋葬の準備が整っている。私は離れたところで眺めながら、「この人は嫌いだ」なんて、考えていた。

 体育館には、昨年新調された空調設備が備わっている。扉を閉め切り、スイッチを入れると、多少の騒音を伴いながら、心地良い風が頬を撫でた。内部の大半を占めるのは、金属製の骨組みに、薄っぺらい布を張った、簡易な個室。四方の壁に沿って並び、中央に向かって口を開ける。そこに……起床して、外へ出ると、否応なく目につくその場所に、老婆は置かれているのだった。

 避難所にいる全員が、周囲にじっとたたずんでいる。男女合わせて計六名。人数に対し、空調はいくらか効き過ぎていて、肌寒いように思われた。騒音があるだけ、静寂よりはマシかも知れない――と、そう感じさせるだけの息苦しさ。あるいはまた、重苦しさ。

「死にたくないよぉ……死にたくないよぉ……」

 うめき続ける老婆のそばに、ダンボール箱が一つ置かれる。人間が入るとは思えない、茶色く軽い立方体。窓から差し込む陽光に、輪郭がくっきり照らされている。数人の男が老婆の周囲をぐるりと囲い、陳腐な葬式が始まった。

「ああ言うの、何だかとっても見苦しい」

 様子をじっと見つめつつ、友人は冷淡な調子でそう言った。背中まで伸ばした黒髪が、微風に煽られ揺れていた。視線の先で、老婆の身体が持ち上げられる。いくらか抵抗の意志は見られるものの、さほどの効果は期待できない。箱の中では、街の外から送られた、色とりどりの千羽鶴が丸まっていた。それを潰し、あるいはまた押しのけながら、老婆の四肢は小さく縮こまっていく。あたかもそれは、胎児のように。

 やがて、身体の殆どが、すっかり箱の中に収まってしまうと、私は以前目にした手品を、その格好に重ね合わせた。

 ――紫色の箱の中に、一人の男が詰め込まれる。手品師は巨大な剣でもって、それを二つに切り分けるのだ。避けることの叶わない、丁度腹部に当たるところで。うめき声。小さな窓から見えている、苦しげに歪んだな男の表情……。

「人として、同情すべきだとは思うんだ」

 友人は言う。

「思うんだけれど、やっぱり何も感じない。あのお婆さん、昔から嫌いなんだよね」

 ――分かれた箱が、再び一つに繋がれる。中に入っていた人間は、けろりとした表情で姿を見せる……。

 老婆のこわばった顔だけが、箱の上に飛び出していた。箱そのものより、顔の方が大きいのではあるまいか――。ふと、そんな錯覚に囚われる。眼球は絶えず痙攣し、僅かに頬が引きつっていた。ぴくぴく、ぴくぴく。私は携帯端末を取り出して、その格好を写真に収める。

「死にたくないよぉ」

 老婆の声が五月蠅かった。

「あたしはやっぱり、死にたくないよぉ……」

 頭上で蓋が閉じられていく。それに押されて、首がカクンと折れ曲がる。小さく、小さく、まとまっていく。ぱきり。ぽきり。不吉な音が鳴り響いた。

「容赦ないね」

 私は呟く。

「他の人をしまう時と、やり方は何も変わらないのに」

 箱の中から、なおも聞こえていた老婆の声は、やがてぱったりと途絶えてしまう。そして最後に、レジャーシートで、ダンボール箱が包まれた。それはまるで、骨壺のよう。

 ――おばさんの店の包装紙、花の模様が入っていたの。

 私はぽつりと口にした。

 ――私の家の、トイレットペーパーと同じ柄。

 だからあの人は気にくわない。

 成る程ねぇ、と彼女は頷く。

「私が嫌いなのはあの目かな」

 どこにでもいて、いなくてはならない嫌われ者は、こうして姿を消したのだった。


   ※


 ――全く私は、死んだ老婆と同じくらい、夏の太陽を嫌悪している……。

 そんなことを考えながら、体育館の中へと戻る。どんよりとした空気が身を包み、足音がやたらと大きく響いた。だだっ広い空間に、残響がしがみついて離れない。空調も、電灯のスイッチも切ったまま。窓枠の形がくっきりと、板張りの床に貼り付いていた。簡易個室の殆どは、二つを除いて既に無人となっている。例外はなく誰も彼もが発症し、当たり前のように死んでいた。

「――ちょっと来て」

 並んだそれらの一つから、友人の声が発せられた。私は「なあに」と応えつつ、呼ばれた方へ歩き始める。右から三つ目。いち、に、さん。扉代わりのカーテンは、留め金でぴっちり閉められていた。

「開けるよ」

「どうぞ」

「開けました」

 ベッドの上に腰掛けた、Tシャツ姿の同級生。彼女は決まり悪そうに笑いつつ、ぎこちない様子であたまを掻いた。白くきめ細かかったその肌が、緑に変色を始めているのだ。

「……本当にごめん。なんて言っても仕方ないけど」

 私は全体、彼女の肌が好きだった。スカートから覗く足であるとか、素直な形の腕であるとか、あるいは首筋、そして頬。艶があり、微妙な曲線を描き出し、健康的な白さを持った彼女の皮膚には、抗いがたい強い魅力が、確かに備わっているように感じられる。それが失われてしまったようで、何だか無性に悲しかった。

 仕方がないよ、と私は呟く。

 仕方がないかな、と彼女は応える。

「準備をしないと」

「準備をよろしく」

 私は彼女を埋葬するため、ダンボール箱を探しに行った。小さな、軽い、薄っぺらい立方体を。内部に千羽鶴を抱え込む、善意の象徴のような茶色い箱を。それらは、街の外から送られてきたものだった。

 ――人間において。

 ふと、誰かの言葉を想起する。

 ――人間において、生物学的な生き死によりも、社会的な生死の方が、ずっと重要なのである。

 思うに人は、他者との関係性の中で生きている。だから肉体的な死の後に、他者に認識されることで、初めてその死は承認される。初めて死者は確認される。認識されない死は死ではない。認知されない死人は死人ではない。……しかしまた一方で、関係性の死が先立つこともあり得るのだと、私はここで学んだのだ。

 つまるところ、直接的に件の老婆を殺したのは、他でもない私達だと言うことである。

 ――果たして自分は友人を、老婆と同様に殺せるだろうか?

 死者の入った茶色い箱が、向かった先を思い描いた。校舎のどこかにある教室に、押し込められた骨壺の格好。狭苦しい室内に、高く積まれてたたずんでいる。詰め込まれた無数の人間。詰め込まれた無数の肉体。

 ――そしてある瞬間に。

 彼等は一斉に開花するのだ。包んだシートを破り捨て、箱の蓋を押しのけて見ると、中から色とりどりの花たちが、顔をにょきにょき覗かせる。奇妙に、奇怪に、奇態な様子で、グロテスクな光景が展開される。それは嫌だ。そんなものはもう絶対に見たくない。……ならばやはり、事前に埋葬、あるいは封印する以外道はなかった。


   ※


「学校で、引っ越した子はもういるの?」

 三人で囲う朝食の席で、不意に母親が問いかけた。父親は黙々と豚肉かみ、テレビはもごもごしゃべり続る。替えたばかりの電球が、妙に暗く感じられた。

 ――新たな発症者がD病院で見つかりました。小児病棟の看護師で……。

 私は一瞬箸を止め、少し考えてから口を開く。

「クラスの中では半分くらい。私らも、倣った方が良いんじゃないの」

 豚しゃぶサラダの盛られた大皿。大きめに切られた真っ赤なトマト。タマネギ、キュウリ、ほどよい酸味。ご飯は少し柔らかかった。

 ――専門家による対策班は、微細な種子が呼吸と共に取り込まれ、喉の粘膜で発芽する可能性を示唆しています……。

 父親が不意に口を挟んだ。

「そうは言っても、父さんの職場はこの街にある」

 あまり遠くには引っ越せない。それなら引っ越す意味がない。病気というのは、ある程度の範囲内で蔓延するのが常だから……。つまりは、そういう理屈だった。

 そう言えば。母親に向かって私は言った。

「明日から朝練」

「頑張って」

「お弁当よろしく」

「頑張ります」

 とは言えこの様子では、大会がどうなるかは分からない。きっと部員の面々も、遅かれ早かれ引っ越していく。当然と言えば当然だろう。命より大切なものなんて、日常で見かけることはまずないのだから。

 私はそっと溜息をつく。それからご飯を掻き込んで、壁にかかった時計を見やる――。

 と。

 ――ぽん。

 不思議に軽やかな音がした。

 ――ぽん。

 再び軽やかな音がした。

 それはまるで、世界の全てを鼻で笑おうとするかのような、どこまでも愉快な音だった。

 ぴしゃり、と生臭い何かが頬を濡らす。前髪にべったりした何かがかかる。口の中いっぱいの朝食の味。咀嚼する、ご飯がある、豚肉がある、タマネギがある、キュウリがある、噛む、唾液と混ぜる、飲み込む、戻る、再び飲み込む……。心臓が早鐘を打ち、風景が真っ赤に染まりつつある。

 私は時計から目を離し、ゆっくり家族を振り返った。

 ――花。

 ――花、だった。

 そこには全く、この世のものとは思えない、美しく、巨大で……グロテスクな花がたたずんでいたのだ。しっとりとした質感で、僅かに光沢のある赤い花びら。それは手の平よりも大きくて、生きているかのように揺れていた。……破裂した頭部のあった位置に、我が物顔で鎮座して。あらゆる場所に、頭だったものが飛んでいる。生温かい細胞が、ひたひた音を立てている。身体全体がぬめりに包まれたようだった。

 私は暫く呆然として、それから自動的に大皿の豚しゃぶへ手を出した。振りかけられた何かに気づき、生臭さをはっきり感じ、ようやく吐き出すことが出来たのは、随分経ってからのことである。

 今に思えば、替えたばかりの電灯は、少しも暗くはなかったのだ。残された身体の皮膚の色は、僅かに緑がかっているようだった。


 ところで私は、ある新聞の見出し文句を、どうしてかはっきり記憶している。回収を、いつまでもいつまでも待ち続けている、資源ゴミの一つだった。待ち続け、一週間が、経過しているはずだった。

「原因不明の奇病蔓延――災害庁がF市封鎖を強行」

 私が一人になってすぐ、閉ざされた小さな街の内部で、瞬く間にその病は広がっていった。人間が罹り、犬が罹り、猫が罹った。警官が罹り、教師が罹り、医者が罹り、知人が罹った。誰も彼もが発症し、誰も彼もが死んでいく。――頭部を瞬時に破裂させ、美しい花を代わりに据えて。つまるところ、それが唯一の結末だった。

 皮膚を破って飛び出しながら、地面を目指す無数の根。養分をすっかり抜き取られ、しぼんでしまった下半身。彼等はもはや、巨大な花と、そして鉢とに過ぎないのである。母親にすがりつく子供、ひざまずいた老人、首をくくった若い女性……。そう言った無数の肉体が、抵抗虚しく花を咲かせているのがあちこちにあった。

「政府により避難所が指定されています。近隣住民の皆様は、速やかに移動を御願いします」

 今から丁度、一ヶ月前のことになる。ヘリコプターから撒かれたビラには、そんな文句が記されていた。

 ――私は不思議に運が良い。あるいは絶望的に運が悪い。

 こうして一人生き延びて、街の風景を意識して、悲しいほどに実感している。


   ※


 校舎の三階に到着すると、薄暗い廊下が伸びていた。それはまるで、弛緩した肉体のようである。目的の箱がしまってあるのは、手前から二つ目の教室だった。ミルク色の扉はがたついている。レールには黒々とした埃がつまって、人間的な印象を見る者に与える。

 教室に足を踏み入れた。壁一面に設置され、幾つにも枠で分割された、窓がボウッと浮き上がる。校庭に敷き詰められた白い砂、青い硝子張りのビルディング、吸い込まれるような暗い黒板、薄汚れた床のタイル……。装飾された街並みの色と、電灯の消えた教室との対照に、私は不思議な感銘を受けた。明暗が、ごくごく薄い板きれで、決定的に区切られている。私の周囲と、俯瞰との深い断絶が、ただはっきりと示されている。その感覚は、排水孔の汚れのように、まとわりついて離れなかった。

 床に並んだダンボール箱の一つから、適当なものを選び出す。教室一杯、胸の高さまで積まれた彼等は、内部に大量の食料と、千羽鶴とを詰められている。……そう言えば、週に一度の配達日が、そろそろやって来るはずだった。

 私は中から、乾パンと水を放り出し、千羽鶴の重みを持って、元来た道を引き返す。

「持ってきたよ」

「……お疲れ様」

 彼女はレジャーシートを床に敷き、ごろんと横になっていた。考えてみれば、彼女と私が最後に二人残されたことには、単なる偶然では片付けきれない節がある。運命じみた偶然と言おうか、偶然じみた運命と言おうか――。

 ダンボール箱の蓋を開ける。彼女はよいしょと立ちあがり、ぎこちない様子で動き始めた。自ら棺桶に入る気持ちは、一体どのようなものだろう?

「きつくない?」

 と問いかける。くるぶしが僅かに箱の縁へと引っかかる。

「大丈夫」

 と彼女は応え、そろそろ身体を縮めていった。

 四肢が曲げられ、千羽鶴を押しのけて、小さく小さくまとまっていく。あまりにお粗末な棺桶だ、と今更ながらそう思った。連結された鶴の色が、チカチカ視界で明滅していた。それはまさに、誰かの親切の象徴だ。あるいはまた、愛の象徴でもあるかも知れない。少し穿った物言いをすれば、哀れみであったり、同情であったり、どことなく不愉快な感情が、見えてこなくもないけれど。ともかくそれは「善意」であり、私達の死を包むものであり、それ以外に活かしようのない産物だ。これらの鶴の折り主が、別れ花じみた扱いを受けていると知ったなら、どういう顔をするだろう? なんて、そんなことを空想してみる。

「ねぇ、一体死ぬのが怖くないの?」

 ふと、思い至って口を開いた。老婆のように最後まで、「死にたくない」と口にする――往生際は悪いけれど、何となくそれが、まともな人間のように私は思う。友人の場合はあまりにも、あっさり過ぎるように見えたのだ。

 ――どうだろうね。

 くすり、と小さな笑みを浮かべた。

「何だかもう、分からない」

 彼女はそっと溜息をつく。疲弊した目、こわばった腕、緑になっても分かる肌荒れ。

「避難所に来て、最初の数日は良かったよ。商店街のおじさんや、同級生の家族の人、ご近所さんも多少はいたから。……いいや、違う。多分、違うね。なまじ知り合いが多かったから、返ってそれが悪かったのかも」

 避難所で、発症した二人目だった。ある男性が、頑なに埋葬を拒んだ挙げ句、全員の目の前で見事な花を咲かせたのだ。飛散した脳を私達に浴びせかけ、赤紫色の巨大な花が、ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら、ゆらゆら……。窓から差し込む陽の暑さ。どんよりと曇った空気の中に、生臭い臭いが充満していく。それはどこか、腐った太陽を思わせた。

「気づいてた? あの人、夜中に、私のベッドを覗きに来てたの。一日や二日じゃなかったわ。死ぬまで、ずっと。毎晩のように。真っ暗な中、白い目だけがぎょろぎょろしていて、伸びた髭の感触が、まだ頬に残ってる。学校の近くの電気屋のおじさん。何度か雨宿りさせて貰って、いつかはお茶もご馳走になった……。泥みたいな暗い口臭。ざらついた舌の感触が、まだ首筋にしがみついてる」

 ――私と彼女が知り合ったのは、丁度今いる、体育館でのことだった。お互いに、顔も知らない新入生。「あなたの名前は?」唐突に話し掛けられたその日は晴れで、風は夏の匂いを帯びている。「学校の近くの、文房具屋さん、行ったことはあるのかな?」彼女はいつだったかそう口にした。「お婆さんが一人でやってる店なんだ。凄く素敵な人なのよ。売ってる品は、どれも古びてはいるけれど、値段と質は保証できる。……今度一緒に行ってみようよ」体育の授業中のたった一コマ。教師の遠いホイッスルが、会話へ微かに紛れ込んだ。

 ――それが一体、いつからこんな風になったのだろうか?

 ――私達は、一体いつからあの老婆を憎んでいたのか?

 漠然と、そんなことを思い浮かべた。

 彼女の身体がすっぽり箱に収まってしまうと、残るは飛び出した頭だった。蓋を閉じ、無理矢理に内部へ押し込んでいく。首を折り曲げ、びっくり箱をしまうように、淡々と静かに作業する。えい、えい、えい、えい……。やがてポキリ、と不吉な音が鳴り響き、鈍いうめき声を伴いながら、それはようやく安定を果たした。

 レジャーシートを固く結ぶ。万一花が開いたときに、外へ飛び出すのはいただけないから。ダンボール箱は、ぎっしりとして重かった。両腕にすっぽり収まるくらいの、ごくごく平凡な立方体。そんな所に自分の友人が入っているなど、一体どうして実感できよう? ふざけたような印象が拭えず、時折笑いがこみ上げる。

「覚えてる?」

 ふと箱に問いかけた。物音一つ、返らなかった。

 ――友人と、件の文房具屋に行った時。会計を済ませた私達に、老婆は麦茶を差し出した。

「暑いでしょう。飲んでいきな」

 それは酷く不味かった。

 友人はコップを傾けながら、壁に掛かった写真を見つめて、こんな風なことを尋ねたのだ。

 ――これは、一体誰ですか?

 老婆は応えた。

「息子だよ。昔どこかへ行ったきり、二度と戻ってこなかった」

 葬式をしたんだ、とそう言った。

「死んだようなものだからね」

 暫くの沈黙を挟んだ後に、もう一度、囁くように繰り返す。

「死んだような、ものだからね」

 箱の置き場は、先の校舎の二階にあった。教室に入り、積み上げられた茶色い山の一角へ、荷物をそっと置いていく。彼女は死んだのだ。完全に。これ以上ないほどに、しっかりと。


   ※


 ヘリコプターの音が近づいてくる。週に一度、食料が配達される水曜日。私は上空を見上げつつ、携帯端末を取り出した。

 乾パンと水、どこかの誰かが作ったらしい色彩豊かな折り鶴が、箱の中には詰められている。病気をうつすかも知れない、だから街の外には出してやらない、かといって、わざと死なせるわけにも行かない、だから必要なものは提供する、出来れば早く死んでくれ……。街を閉鎖し避難所を指定し、箱を送りつける誰かの本音は、恐らくそんな所だろう。病人ごと、病気がなくなってしまったならば、それほど楽なことはない。お望み通りの結末だ。予想通りの結末だ。

 灰色の機体が、視界の端から現れた。同時に真っ白いパラシュートが、雲一つない空に大きく広がる。見慣れた箱が、幾つも縛られ、一塊になって落下する。私はその輪郭を、目を見開いて睨めつけた。

 ――私達は、老婆を殺した。だが同時に、私達の全員は、既に殺されていたのかも分からない。

 端末に保存されている、無数の写真を削除していく。朝日、友人、近所の人たち、件の老婆に、それ以前の風景も。沢山の記憶を削除する。こんなものはどこにもない。もう、どこにもありはしないのだ。彼等は真四角に姿を変えて、二度と戻ることはない。老婆、友人、その他あらゆる人間が、皆箱に収まった。沢山の花と、善意の鶴とに包まれて、歪みながら溶けていった。

 そう思うと、街の外が許せなかった。……だから私は、微かな希望にすがることを決めたのだ。

 ――彼等は結局のところ植物だ。ならば、種子を飛ばすに決まっている。

 その空想は、徹底的に不幸であり、徹底的に幸福である。

 ――街中からから放たれる、それは巨大な暗雲となり、あらゆる場所へ旅立つだろう。花はあらゆる生物を侵し、あらゆる生物は侵される。……その時に、初めて私は――私達は、世界に参加できるのだ。

 そうして初めて、報われる。

 ヘリコプターが、バタバタと騒がしく遠ざかる。その後ろ姿を見送りながら、空っぽになった端末を捨て、私は空を仰ぎ見た。身体の最奥から押し寄せる刺激、精神の奥底から湧き上がる衝動――それは涙を伴いながら。

 閑散とした校庭に、蒸し暑い風だけが残された。

 ――自らの最後を精一杯に飾ることを決めたのは、その翌日のことである。


   ※


 箱を一つ用意する。校庭の真ん中に放り出す。私はあらゆる衣類を脱ぎ捨て、四肢を風に晒しつつ、白日の下に解放される。白い砂に白い肌。周囲を囲う街並みには、無数の花が混じっていた。ピンク、緑、青、黄色……。彼等は、私を祝福している。両腕を大きく広げながら、胸いっぱいに息を吸う。そこにはある種、達成感のようなものが存在していた。

 これから私は幾日も、箱に両脚を突っ込んで、背筋を伸ばし立ち続ける。開花の時がやって来るのは、一体いつになるのだろうか。原始の姿に花を供えた、グロテスクで、官能的で、背徳的なオブジェが完成するに違いない。……そして……そう、それこそが、私に出来る唯一の抵抗に他ならないのだ。


 ぽん。


 私はようやく、花になる。

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頭花 亜済公 @hiro1205

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