夜道
永見亭
夜道
夜道
男が暗い道を歩いていた。彼には寄り道癖があったが、今日は珍しくまっすぐ家に帰っている。とはいえ、冬の日が落ちるのは早い。等間隔で立っている街灯と、やんわりと光る家々の窓だけが彼の帰途を照らしていた。乾いた風が、どこかの家から焼き魚の匂いを男のもとへ運んでくる。
男は前方のやや離れたところに、ベージュのコートを着た女が歩いているのを見つけた。髪を後ろで束ねている。背中が少し丸まっていて、労働による疲れがにじんでいた。男はもともと歩くのが早いため、とぼとぼと歩くその女の後ろ姿はだんだんと大きくなった。そして彼は、女の髪が暗い茶色であることや、コートの材質がウールであることを、一つ先の街灯の青白い光の下に発見した。
また街灯は黒いアスファルトの道に男の影を暗く映し出した。男が一歩前へ進むたび、影はにょきにょきと大きくなり、それに合わせて凝縮されていた漆黒が溶け出すように薄くなった。そして次の街灯が近づくと、足元から再び濃い影がぬっと生えてきて、やはり歩くたびに大きく薄くなる。男の影はたまに二つ三つに分裂しながら、不気味なほど規則的にその運動を繰り返していた。それが前を歩く女を怯えさせているような気がして、女をさっさと追い越してしまおうと、男は歩みを速めた。
闇路をゆく人たちの中でしばしば発生するこの駆け引きに、男は人一倍敏感だった。彼は臆病者で、背後に人の気配があると全身に少し力が入るし、人とすれ違う時でも、その人の人相が悪いとすれ違いざまに腹を刺される映像が頭をよぎってしまう。そんな彼だから、夜の道で人の後ろを歩くときには自分が相手を威圧しているような罪悪感を覚え、勝手に決まりが悪くなってしまうのだった。
歩速を速めたのに反して、女との距離はなかなか縮まらなかった。男は、自分が女を追い抜くというより、追いかけるために早歩きしているように思えてきた。まず追いつくことがこんなにも大変だとは、全くの想定外だったのだ。女を追いかけているような感覚は、男のもともと持っていた罪悪感を増幅させ、それから解放されたいという思いが彼をさらに加速させた。
気づけば男は顔に冷たい空気の流れを感じるほどの速さで歩いていた。そしてようやく、女の背中がじりじりと近づき始めた。この、女の後ろ姿のシルエットがだんだんと大きくなる様子は、男がその前方に女の後ろ姿を認めてから女の髪の色やコートの材質に気づくまでにみたのと同じであったが、しかしその距離の縮まり方は先ほどより随分ゆっくりのようである。男は今、確実にそのときよりはやく歩いているはずなのに、これは妙である。
そして男は、女が逃げているのではないかということに思い当たった。女を追い越そうと早足で近づく際に、男が追いかけているような感覚を持ったのと同じように、女も追いかけられているような感覚を持って、被食者の本能的な恐怖から、男から逃げようと歩みを速めたのかもしれない。そのため速く歩いてもなかなか追いつけないのだろう。ただ、女の背中はそのような恐怖や萎縮といった感情を全く発しておらず、最初に見たときと変わらずくたびれているような感じで少し丸まっているから、男は自分で立てたこの推測にあまり現実味を感じなかった。
ともあれ、推測が正しければ、男が歩を緩めれば女は遠ざかってゆき、この微妙な距離感からなる気まずさは解決するはずである。男は、女を追い抜かすことばかりに気を取られていた自分を恥じながら、歩速を落としていった。
自分を怖がって逃げている人間の後ろ姿を眺めることは、暴力的な強さを好むものにとってはある種の快感があるだろうが、無論男はそうではなく、むしろ相手を恐怖させていることに申し訳なさを感じていた。そのため、彼は歩を緩めてからしばらく前を見ず、自分の掌を観察するふりをしながら歩いた。
観察を始めてから二回目にその掌が街灯に照らされたとき、男は視線を前にやった。遠ざかり、小さくなっているはずの女の背中は、驚くべきことに手が届きそうなくらい近くにあった。男の心臓は飛び上がりそうになったが、同時に彼の頭は、この予想外が、自分が無意識に早足で歩いていたために引き起こされたのか、それとも女が歩速を落としたために引き起こされたのか、ということについて冷静に検証していた。掌の向こうで一歩一歩踏みしめるように丁寧に歩いていた自分の足についての光景を思い出して、男は女が歩く速度を緩めたのだと結論した。そしてその結論から男は、女が彼を弄んでいるに違いないと確信した。
次の瞬間、男は走り出していた。なんとしてもこの女を追い抜かねばならぬ。目の前で、女の束ねた髪が規則的に揺れる。その揺れ方は、確かに歩いている時のゆるやかな波のような揺れ方なのに、走っている男はそこにたどり着けない。冬の住宅街の空気はしんと凪いていたが、彼の疾走によって掻き回された。男は自分が空気を掻き分ける音をきいた。それは高校の体育祭以来きいていなかった懐かしい音だった。彼は風となっていた。
男が全力で走っても、女との距離は一向に縮まらず、それどころか徐々に離れていった。それに気づいた時、男はついに観念して、走るのをやめた。減速するにつれて、女の背中は男を馬鹿にするように近づいてきたが、やがて男が膝に手をついて立ち止まってしまうと、するすると離れていってしまった。息を吸って、吐いて、その原初的な快感を存分に享受しながら、ついぞ顔すら拝むことの叶わなかった女の背中に、彼は別れを告げた。
女の後ろ姿を見送ると、男はへなへなと座り込んで、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。全身から汗が吹き出し、口から血の味がして、視界に眩い閃光がちらついた。それらの感覚もまた、高校のマラソン大会以来忘れられていたものであった。
息が整ったころ、男が駆け抜けてきた方から、痩せた中年女性が歩いてくるのが見えた。それを見て男は、大の男が道に疲れ切って座り込んでいる異様な醜態を晒すことと、再び追い越す側になることを避けるために、よろよろと立ち上がって再び歩き出した。が、あっさりと追い抜かされてしまった。中年女性はすたすたと歩き去ってしまったため、あれやこれやと余計な駆け引きについて考える必要がなくなったのに、男は安堵した。
家につき、適当にものを食べ、シャワーを浴び寝てしまうと、男はこれら一連の奇妙な出来事を夢のように忘れてしまった。そして夜道では相変わらず臆病によって心身を疲れさせている。ただ、あるときから、男は早朝にランニングをする習慣を身につけたという。
夜道 永見亭 @wieschade
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