第1話 新見 啓一郎のこと

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 高速道路沼津インターを降り、伊豆縦貫道から三島市街に入ったのは午前8時を少し回った頃だ。三島警察署の駐車場に車を停め、残暑の日差しが未だ眩しい秋晴れの空に目をやると、つがいの白鶺鴒はくせきれいがチュチチ、チチと鳴きながら飛び交っている。

(古巣に帰ったか……)

 署の玄関前で旭日章を見上げ敬礼した後、ロビーに入ると所轄の川村警部補が出迎えてくれた。

 身長は新見とそう変わらない。角刈りの短いもみあげに白髪が目立ち始めた55歳のベテラン係長。高卒で機動隊から叩き上げ、来年は、警部への昇進が決まっている稀有な逸材と言える。


「川村さん、ご無沙汰しております」

 新見は曽ての上司に再会の歓喜の念を込め深く頭を下げると、川村の右掌を両手で掴んだ。


「警部、こちらこそ。この度はよろしくお願い致します」

 新見の手の甲に左掌を添え力強く握り返した温もりと、真っ直ぐ見つめる笑顔に、20の歳の差へのわだかまりは無かった。


「早速で恐縮ですが10時から捜査本部会議が開かれます。只今、署長は外出中で留守にしておりますが、会議迄には戻られるそうです。これまでの捜査資料を纏めておきましたのでお読み下さい」と、カウンターに置かれていたA4ファイルを手渡した。

 新見は時系列にファイリングされた資料にざっと目を通した。

(これだけの資料を短時間で……)

「川村さん目が赤いですね、ご苦労様です。会議の前に現場を見ておきたいのですが」


「解りました。私は9時に司法解剖の結果報告を聞くことになっていますので、代わりの者に案内させましょう」と言うと、内線電話で巡査長を呼び出した。

 程無く2階から足早に階段を降りて来る青年が目に映った。年齢は30前か、身長は165㎝前後、細身だが肩幅が広く、体育会系であることが伺える。もみあげを長く残した、五分刈りのスッキリした坊主頭がよく似合っている。

 10㎝程の身長差がある新見を見上げると、白い歯を見せながら蟀谷こめかみに素早く右手を添え、

「巡査長の大木おおき 颯人はやとであります。お勤めご苦労様でございます。わたくしが、現場迄ご案内させて頂きます」と、緊張した面持ちで挨拶をしてきた。

 新見は少し口角を上げ優しい目をむけて、「正装ではないから、畏まる必要はないよ」と言った後、大木の頬に赤みが差すのを認知してから、「よろしく頼む」と笑顔で答えた。チラリと川村に視線をやると微笑んでいる。

 制服制帽の場合は敬礼を要すが、それ以外は普通に頭を下げる挨拶が一般的だ。


 三島警察署から駅前の殺人現場迄は車で15分程の距離だ。大木が運転するパトカーの後部座席に座った新見は、すぐさまファイルに目を通した。

 発見からの捜査状況が時系列で克明に書かれており、被害者の運転免許証のコピー、バッグとその中身等の遺留品のカラー写真も添付してある。被害者の背景詳細に関しては捜査会議の中で明らかになるだろう。

(ガイ者のことで解っているのは、家族、親族等の身寄りが皆無だということだけか……)

 5分程読み、頭の中を整理しようと顔を上げると懐かしい景色が目に飛び込んだ。


 署から箱根に向かう国道一号線を横断し、市街を目指す旧下田街道を走ると、神前結婚式で全国的にも知名度が高い三嶋大社がある。

「三嶋」とは「御島」。即ち伊豆大島、三宅島等から成る伊豆諸島を意味するとされ、古代には伊豆諸島の噴火を免れた人々から崇敬を集め、中世には伊豆国一宮として源 頼朝始め、多くの武家から篤く崇拝された。近世以降は、安藤広重の東海道五十三次の三島宿として描かれた三島の中心部に鎮座することから、世間一般に広く知られる様になる。

 境内の金木犀は樹齢1200年を越える巨木で、昭和9年、国の天然記念物の指定を受けた。円形に広がり地面に届くほど垂れている枝先が、この木の生きた歳月の長さを物語っている。

 新見はサイドガラスを半分程開け外気を吸い込んだ。

 陽光をたっぷりと浴びた二度咲きの金木犀は1回目の満開を迎えていた。例年9月上旬より中旬にかけ黄金色の花を全枝につけ、再び、9月下旬より10月上旬にかけて満開になる。

 ほんのり甘い香りが、緊張を和らげてくれた気がした。


「警部が三島署に赴任されたのは、10年前とお聞きしていますが」


「ああそうだ、君と同じ巡査長刑事として初めて入署した。あの頃川村さんは巡査部長デカチョウで、随分とお世話になったな」


「難事件を解決したと、聞きましたが」


「私が解決した訳ではないよ。協力してくれた一市民のアドバイスがきっかけで、たまたま犯人を割り出すことが出来た程度のことだ。それに、誇れることでもない……」


 一市民。新見の瞼に忘れることの出来ない女性の姿が浮かんだ。彼女がいなければ、あの事件で警察は、冤罪の不幸を生んでいたかも知れない。

 麻生あそう 真由理まゆり ……

 文学部出身で、市立図書館の受付をしながら、小説家を志していた彼女の洞察と聡明さに、憧れ以上の感情を抱いていた。

 あの事件以降、新見の思考回路には『真由理の部屋』が存在し、彼女の思念と照らし合わせることで、事件のともいえる刹那を、平明に捉えることが出来るようになる。

 そのきっかけとなるエピソードは、また、別の物語と共に語らねばなるまい。

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