NEW ERA   作・網代陸

「ダメだよ!」


 それは僕の妻である希海(のぞみ)の口癖だった。いつもそうやって可愛らしく、僕の行動や性格に苦言を呈すのだ。そして目の前にいる彼女はまた言葉を続ける。


「ダメだよ、そんなに悲観的なことばかり考えてちゃ」


 僕は彼女に反論する。


「いや、むしろ君が楽観的すぎるんだ」


「どうしてよ」と、きょとんとした顔の希海が返す。


 目の前の食卓に並んだ、彼女が作ってくれた料理は、ほとんどが魚介系の食材を用いたものだった。この百年で、僕たちの食生活は大きく変容を遂げた、らしい。


「こんな異常気象が続く世の中で、そのうえ今回の新型ウイルスだろ? なんで希海がそれを前向きに捉えられるのかが、僕には分からないよ」


 心からの疑問を僕は彼女にぶつける。


「そうじゃなきゃ、頑張っていけないもの」


「ただでさえ希海の仕事は危険なのに……」


「心配してくれて、ありがと。でも、あなたが心配性で悲観的すぎるだけだって」


 そう彼女は笑いながら、箸で掴んだ煮魚を口いっぱいに頬張った。


「そんなことないさ」などと口にしつつも、僕は現在進行形で、この絶望的な現状について考えている。


 地球温暖化とそれによる断続的な降雨の影響で近年、海面は著しく上昇を続け、今や地球表面の八割五分は海に覆われてしまった。海に沈んだ地域もあるし、おまけに日本でも塩害により農業全般が大きな打撃を受け続けている。


 そんな不遇の中で、新たな厄災が突如としてその姿を現した。数か月前から世界中で流行している新型ウイルスだ。


 主に肺などの呼吸器系を破壊するそのウイルスは、すでに世界で数千万人が感染しており、その三割は死亡、五割は人工呼吸器の装着を余儀なくされている。残りの二割も完治するというわけではなく、慢性的な呼吸不全を抱え生きていくこととなる。


そして何より絶望的なのは、症状に対する明確な治療法が見つかっていないという事実だった。


「神様はね、私たちが乗り越えられる試練しか与えないんだよ」


 得意げに希海は言う。


「神はいないし、そういうのは都合のいい生存バイアスでしかない」


 僕が言うと、彼女はにやりと笑いながら、こう返した。


「でも、そんな楽観的な発想をしちゃう私のことが、あなたは大好きなんでしょ?」


 僕はついに何も言い返すことができなかった。歯に挟まった煮魚の骨を引き抜こうとしたけれど、なかなか抜けなかった。




 ***




 翌朝。僕はテーブルに置いてある笹かまぼこを手に取り、包装を外してそのまま頬張った。起きる時間がばらばらのことが多い僕たちの朝食は、いつも大抵こんな感じだ。


「さて」


 そして身支度をした僕は、リビングにあるデスクの前に腰かける。新型ウイルスの感染拡大を避けるため、僕の勤めている会社でも最近はもっぱらリモートワークが中心となっていた。


 コンピュータを起動し、会議用のツールを開く。目の前の画面には、同僚である山野の顔が映し出されていた。


「川里、おはよう」


「ああ、おはよう」


 山野の挨拶に軽く返事をして、僕は画面内に複数の資料を開いていく。商社で働く我々は、今日の午後に大事なリモート商談を控えていた。この危機的なご時世の中でなんとか漕ぎつけた取引で、今から行うのは、そのための打ち合わせだった。


「おい、聞いたか? 部長の話」


 山野が先ほどよりも少し声を潜めて言う。彼は自宅勤務だし独身の一人暮らしだから、誰に気を遣うこともないであろうに。


「いや、知らない。どうしたんだよ」


「部長の娘さん、『クビキレ』に感染しちゃったらしい。まだ十歳なのにな……」


「……そうなのか」


『クビキレ』というのは、件の新型ウイルスの俗称である。感染者のほとんどは、何故かその首の両側に亀裂のような傷が発生することからそう呼ばれている。


正直、何と言っていいか分からなかった。もちろん気の毒に思う気持ちはあったけれど、自分の家族、つまり僕にとっては希海がウイルスに感染したときの心情なんて、想像できなかったし、想像したくもなかった。


「だから娘さんは完全隔離で、部長と奥さんも緊急に検査だって」


「大変だな」


 その話題を早く終わらせてほしくて、僕はわざと当たり障りのない返答をした。希海がウイルスに罹ってしまう恐怖について、考えたくないのに考えてしまう。完全隔離なんてことになったら、二度と彼女を抱きしめることができないかもしれないし、それだけならまだしも最悪の結果になったら……。


「さ、とりあえず打ち合わせしますか」


 その言葉は、また悲観的思考に陥っていた僕にとって救いとなり、僕と山野は真面目に商談のための打ち合わせを始めた。


 そして打ち合わせ開始から十分ほど経ったときに、妻が寝室の方からリビングへ出てきた。僕は打ち合わせを中断させないように、ちらりと彼女の方を見る。彼女の今日の勤務は夕方からのはずで、それにしては早起きだと言えた。


『おはよう』


 妻は笹かまぼこを口にくわえながら、「手話」を使って僕に挨拶をした。


 これは以前、看護師である希海が、聴覚障害を持つ子供を担当した際に覚えたもので、その学習に僕も付き合わされたという経緯がある。「どうせ僕には何の役にも立ちやしない」と言う僕を、彼女は例によって「ダメだよ!」と叱ったのだ。


 そんなことを頭の片隅で思い出していると、画面の向こうで山野が言った。


「と、いうことで午後からもよろしく」


そうして打ち合わせを終えた僕の背後から、希海が僕の体を抱きしめた。


「おつかれさま!」


 その体温を感じながら、僕は彼女とずっと一緒にいられるようにと強く願っていた。






 午後。山野と共に商談をうまく取りまとめることができた僕は、勤務のために病院へと向かう希海を、玄関で見送っていた。


「気をつけてね」


「ありがと。夜が明けるまでには帰れると思うから。それと、食料品が夕方に届くから、受け取っておいてね」


「うん、分かったよ。でも……」


「でも?」


「本当に大丈夫?」


 希海は困ったように笑って言った。


「私は新型ウイルスとは関わりのない科のお仕事だから、大丈夫だって」


「それは分かってるけど……」


 新型ウイルス『クビキレ』の存在を知ったあの日から、僕の心の中にはいつも不安が渦巻いていた。もしも希海がウイルスに感染してしまい、僕の前からいなくなってしまったら……。考えただけで、恐ろしくてたまらなかった。


「あ」


 希海が思い出したように言う。


「ど、どうしたの?」


「冷蔵庫のイクラ、勝手に食べちゃ、ダメだよ!」


 好物を守ろうと必死な彼女に、思わず笑ってしまった。僕とは正反対にいつでも前向きで天真爛漫な彼女の姿を見ると、少しだけ勇気が湧いてくる。この絶望的な世界で、生きていくための勇気が。


「分かってるよ、いってらっしゃい」


 僕は玄関のドアから顔を出し、去っていく希海の姿を見ながら思う。彼女だけは、失いたくない。


僕の命を救ってくれた、彼女だけは。




 ***




 五年前。その日も、いつものように豪雨だった。


 当時付き合っていた女性に振られ、その直後に両親が事故で亡くなり、そのまた直後に僕自身が病気を患って、入院生活を余儀なくされた。


 そして心身ともに衰弱しきっていた僕は、この歴史上多くの人がそう思ってきたのと同じように、こう思った。「もう死んだほうがましだ」と。


 入院中わずかに許されていた散歩の時間を利用して、当時たまたま工事を行っていた病院敷地内の現場から十分な長さのロープを盗んできた。そしてその日の深夜に、入院している階の談話室で、「それ」を実行しようとした。


 降りしきる雨粒が地面を強く叩く音。その大きな音が、自分の生も死も、全てかき消してくれるような気がしていた。


 失うばかりの人生、後悔などなかった。


 そして固く結んだロープを握り、首にかけようとしたときだった。


「ダメです!」


 思えばそれが、妻の口癖を初めて耳にした瞬間だった。僕の体は小柄な看護師の体当たりによって、椅子の上から突き落とされた。


 床に倒れた僕の上に彼女が覆いかぶさる形になった。僕に抵抗する意思がないことに気がつくと、彼女は慌てた様子で僕の上からその身をどけた。


 そのときの僕は混乱する頭の中で、自身の自殺遂行を妨げた女性が何を言うのだろうかかとぼんやりと考えていた。


「ごめんなさい……」


 迷惑をかけているのはどう考えても僕の方だったのに、なぜか彼女は謝った。そして彼女は続けた。


「本当にごめんなさい、でも、私はこうするしか知らなくて……」


 暗闇の中に、なぜか彼女の瞳だけがはっきりと見えた。うるんだ瞳は、凪いだ海のような穏やかな印象を僕に与え、荒んでいた僕の心がそれに合わせて落ち着きを取り戻すかのような感覚が確かにあった。


 雨音はもう、僕の耳には聞こえていなかった。






 実はそのときの、つまり五年前に自殺に使おうとしたロープを、僕は希海に内緒でまだ持っている。押し入れの奥にある、祖父の形見である旅行カバンの底に、だ。異常気象のせいでろくに旅行もできないこの時代に彼女がわざわざそんなカバンを開くはずがないから、まずバレる心配は無いだろう。


僕自身も怪しまれないように、この五年間で一度もそのカバンは開けていない。


 希海と出会った思い出の品、という意味もある。だけど一番の目的は、彼女が僕を残して死んでしまったときに、それを使って後を追うためだった。そうすればそのロープが僕と彼女をまた繋いでくれるかもしれない、と馬鹿げたことを僕は考えていた。


 ピンポーン、とインターホンが鳴った。


「食料品のお届けに参りました」


 女性の声が、豪雨の音に交じって、マイク越しに聞こえてくる。そういえば希海が、夕方に荷物が届くと言っていたな、と思い出す。


「はーい」


 僕はウイルス対策用のマスクを着け、玄関のドアを開けた。同じくマスクをし、カッパを着た女性配達員が、ドアの前には立っていた。


「指紋認証をお願いします」


 空中に出した僕の指を、センサーがスキャンし、認証が完了する。


「ありがとうございます」


僕は食料品が入った箱を受け取ろうとする。


「ねえ」


 配達員が発したその声に、僕は一瞬体を震わせた。どこか懐かしくて、どこか怖ろしくて、どこかシンパシーを感じる、そんな声。


「私、鏡子(きょうこ)、覚えてる?」


 僕が自殺を図ろうとする直前、つまり希海と出会う直前に付き合っていた女性が、目の前に立っていた。




 ***




 豪雨が降りしきる中で僕と鏡子は、近くの丘の、大きな木の下に座っていた。枝葉のお陰で、雨粒はあまり落ちてこなかった。


「これが今日最後の荷物なの。少し出かけない?」


 彼女は僕の家の玄関で、そう誘いを持ちかけてきた。様々な事情を考慮して断ろうと思ったけれど、車は消毒してあるから大丈夫だし、今更あなたと触れ合おうなんて思っていない、という鏡子の言葉に納得し、ドライブに連れていってもらうことにした。


郵便配達車の中では、まったく会話が無かった。


なぜ配達員に? 銀行は辞めたのか? どうして僕の家に? 尋ねたいことは沢山あったけれど、どう切り出していいか分からなかったし、きっと向こうもそうだったんだろうと思う。


 家を出て最初に彼女が口を開いたのは、丘の上の木陰に着いてからだった。


「結婚してたんだね」


 この五年間、お互い全く連絡を取っていなかったから、知らないのも当然だった。


「そうだね」


「配達先の名字が君と同じで、まさか奥さんかな、と思ったらそのまさかだった」


 ちらりと見た彼女の目は、昔埋めたタイムカプセルの中身を眺めるときのような眼差しで、僕は複雑な気持ちになる。


「きょ……君と別れたすぐ後に出会った人だ」


「そう、私と同じね」


 彼女が僕のことを知らないのと同様に、もちろん僕も彼女の五年間を知らない。


「結婚してるの?」


「してる、というか、してた、というか」


「……」


 詳しく尋ねるべきなのか迷った。かつての恋人に、無神経だと思われたくなかったのが正直なところだった。しかし彼女は、自ら話を続けてくれた。


「君と別れてすぐ出会った男の人と結婚した。君と違って、すごく明るくて楽しい人」


 暗くて悪かったな、と心の中で悪態をつくけれど、彼女の目が、それが親愛を含んだ冗談であることを物語っていた。


「銀行も辞めてね、専業主婦になって彼と暮らし始めたの」


「そうだったんだ」


「でも三年前、彼は会社をクビになった。詳しくは教えてくれなかったけど、どうも上司の不正をなすりつけられての事みたいだった」


 僕は驚いた。話の内容と言うよりも、そんな重い話を淡々と話す鏡子に対しての驚きだった。


 思えば付き合っていた当時から彼女は、どこか冷静で、人生に対して悲観的だった。僕たちは似た者同士のカップルだったんだ。いや、それにしたって今の彼女は当時よりもずっと、絶望を身にまとったような雰囲気で……。


「その上司は凄く信頼してた人だったみたいで、彼は心を病んで、たぶん私も含めて何も信じられなくなって、そして死んだ」


「え」


「自殺したの。クビになってから一か月の話。私のお腹に娘がいたとも知らずに、彼は勝手に死んでいっちゃった」


「……大変だったんだね」


 そう相づちを打つけれど、僕には彼の気持ちの方がよくわかった。何かを失って、周りが見えなくなって、死に救いを求める。僕は希海にそれを防がれ、彼は誰にも防がれなかった。それだけの違いだ。


 そして鏡子は続ける。


「辛かったけど、私、本当はどこかで分かってたのかも」


「分かってた、って、何を?」


「彼が自殺しちゃうかもって、死ぬ少し前から」


 胸のざわつきが増して、苦しくなった。でも、彼女と話し続けることが今は何より大事な気がした。


「……止めようとしなかったの?」


「……止めて、どうなるの?」


 何も言い返すことができなかった。


そして彼女はあくまで淡々と言葉を続ける。


「彼は死にたがってた。そうしないといけないほど辛かったから。それを止めるのは、私が彼に苦しみを強要するのと同じ」


 やはり僕と鏡子は似た者同士なんだな、と改めて思った。


だけど、彼女の言うことをそのまま受け入れたくなかった。だってそれは、僕を救ってくれた希海を否定することになるから。


 目の前に広がる景色は、まるで世界の終わりのようだった。


丘から見下ろす町はほとんどが海に沈み、その上を雨と風と雷が踊り狂っている。かつて僕と鏡子が共に過ごした浜辺も、この町にはもう無い。


 僕は考えた末に、思いを鏡子に伝える。


「君の選択は間違ってなんかない。だけど、もし自殺を止めていても、それだってきっと、間違いなんかじゃない」


「どうして?」


「生きるのは一回きりだけど、生きてる限り、死ぬチャンスはいくらでもある」


 僕が言うと、彼女は一瞬だけ目を丸くし、そして大きく笑った。


「ネガティブなのか前向きなのか、どっちなのよ」


 その言葉に僕は、はっとした。


こんな風に考えることができるようになったのだってもしかしたら、希海の影響なのかもしれない。その可能性に答えを与えてくれるかのように鏡子が言う。


「変わったんだね、君」


 その声は、別れる前も含めて、今まで聞いた鏡子のどんな声よりも明るかったように、僕には思えた。


僕とこうして話したことが、鏡子がこれから生きていく勇気を少しでも育てられたならいいな、と思った。あの日希海が、僕のことを救ってくれたように。




鏡子は僕をマンションの前まで送ってくれた。そして彼女は去り際にこう尋ねた。


「私と会ったこと、奥さんに言うの?」


「面倒くさいから言わないよ」


 それを聞くと彼女は、にやりと笑って言った。


「言った方がいいよ。女って、意外と旦那のこと何でも分かってるから」


 夫の死に勘づいていたかもしれないと先ほど告白してくれた彼女の言葉には、じわりと心に沁み込むような説得力があった。


 僕は去っていく郵便配達車を見ながら呟く。


「それじゃあ、正直に話すことにするよ」


 だけどその日、鏡子と会ったことを希海に話すことはできなかった。明け方になっても希海が、家に帰ってこなかったからだ。




 ***




 起きてまず、不思議に思った。いつもなら夜明け前に帰ってきて、既に隣で寝ているはずの希海の姿が無かった。


 リビングにいるのかな、と思いつつ起き上がり、携帯端末で時間を確認しようとする。そして僕は、ぎょっとする。


 着信がいくつも来ていた。三時間ほど前から、立て続けに、だ。慌ててその着信元を確認する。


 希海の勤める病院からだった。


 血の気が一気に引いて、僕は急いで着信を折り返す。コール音がとても長く感じられた。そしてガチャリと、通話が繋がる音がした。


「あの、そちらに勤める川里の夫ですが」


 間髪を入れず放った僕の言葉を聞いて、電話に出た女性が息をのむのが聞こえてきた。そして女性は、震える声で僕に告げた。


『落ち着いて聞いてください、奥様が新型ウイルスに感染した恐れがあります』




 ***




 昨日の夜、隔離されていた『クビキレ』感染の疑いがある患者数名が、武器のようなものを持ち、院内で暴れまわった。まだ症状の段階が軽く体力の余っていた彼らを誰も止めることができず、負傷者が数人、そして看護師控室に立てこもったその患者たちと、数時間同じ空間に居続けざるを得なかった職員が十数名。


 その内の一人が、希海だった。




 といった説明を、僕は半分狂いそうになりながら、電話越しに聞いていた。患者たちの暴動は既に収まっており、希海に怪我などの心配は無いらしかったが、だから一安心、という訳にもいかなかった。


 動悸が激しくなり、希海に会いたくてたまらなくなった。だけど、もちろん病院は全面封鎖しているらしく、彼女に面会することは不可能だった。


全身の震えが止まらない。僕は座ったまま布団を頭からかぶり、そのまま目をつむって、外で降る雨の音をただ聞いていた。


どれくらいの間そうしていたかは分からないが、自分が空腹であることに気づいて、ようやく僕はベッドから立ち上がった。


リビングのテーブルに置いてある笹かまぼこを食べるけれど、まったく味がしない。


仕事をする気は起きなかった。それからは、眠って、空腹になったら起きて何かを食べて、を繰り返していた。


雨の音が、常に耳にこびりついていた。




そして何度目かの夜に、再び病院から電話があった。


「も、もしもし」


 誰とも話していなかったせいで、第一声がうまく出せなかった。


 電話の向こうの医師は、一つため息をついてから言った。


『大変申し上げにくいのですが、奥様にウイルスの感染が確認されました』


 眼前が真っ暗になる感覚。そして次の医師の一言が、僕をさらに深い奈落の底へと突き落とした。


『大変危険な状態で、今夜が勝負です』


 もう少し猶予があるかもしれない、などと思っていた自分の馬鹿さ加減が、惨めなほどに僕の心を痛めつけた。




 ガチャリという音と共に電話が切れて、その瞬間に僕は膝から崩れ落ちた。


「希海が、死ぬ……?」


 声に出してみても、その恐怖が消えることはなかった。


 希望を持たないといけない、と分かっていた。きっと希海もそうして欲しがるだろう、ということも。だけど、僕の中の絶望は既にどうしようもないほどに膨らんで、頭の先からつま先まで蝕んでいた。


 希海が死ぬことが、そして希海が死んだ後の世界を生きていくことが怖かった。


 今まで経験したどんなことよりも、怖かった。


 五年前、鏡子も両親も、急に僕の元から去ってしまったけれど、それはある意味幸運だったのかもしれない。


 大切な人がいなくなるかもしれない状況で、ただ待ち続けなければいけないことが、どれだけ辛いのか、どれだけ怖ろしいのかを、僕は知らなかったんだ。


「怖いよ、希海……」




 そして僕は気付く。


 この絶望と恐怖から逃れる方法を、僕は一つだけ知っている、ということに。


 僕はふらふらとした足取りで、押し入れの方へ歩いていく。


「ごめん、希海……」


 あの日、自殺しようとしていた僕を突き飛ばした希海はこう言った。「ごめんなさい、私はこうするしか知らなくて……」と。きっと彼女はそうやって、人を助けることで生きてきたんだ。


 だから僕も許してほしい、と思った。


希海に出会って少し変われたかもしれない、と思ったけれど、いざとなった時にはやっぱり僕も、こうするしか方法を知らないんだ。


 押し入れの奥から、祖父の形見である旅行カバンを引っ張り出した。


 雨の音が激しく聞こえてきて、この雨が僕の存在全てを流し去ってくれるんじゃないか、という気持ちになった。


これで希海を失う恐怖から、解放される。


埃が手に付いてしまうのも構わずに、僕はカバンを開け、ロープを取り出そうとする。


「ん?」


 僕は思わずそんな声を出す。


 そのカバンには、ロープ以外には何も入っていないはずだった。


しかし、丸められたロープの上には、折りたたまれた一枚の紙片が置いてあった。


 僕はそれを手に取り、ゆっくりと広げてみる。


そこには、たった四文字の言葉が記されていた。




『ダメだよ』




 心臓の奥がマグマのように熱くなり、そのマグマは涙へと姿を変えて、止めどなく溢れ出した。


 その涙を拭うこともせずに、僕は呟く。


「女って、意外と何でも分かってるんだな……」


 そして僕は、ゆっくりと冷たい床に倒れ込んだ。


 雨音はもう、僕の耳には聞こえていなかった。




 ***




 希海が『クビキレ』ウイルスに感染したことが発覚したあの日から、八年後。


 結果から言うと、希海は一命をとりとめたが、その症状が完全に回復することは無かった。


 だけど変化はあった。希海や僕というよりは、生物としての人間と、この世界全体との関係が、変わりつつあるのだった。




 まず『クビキレ』ウイルスに関して、新たな発見があった。ウイルスは肺や気管などの呼吸器系を破壊するが、その代替となるものを形作る可能性があることが示唆され始めたのだ。


 それは名の由来でもある、感染者の首にできる亀裂のような傷と密接に関係しており、その傷の付近に、新たな器官の発現が見受けられる症例が少なからず出現し始めた。


 新たな器官の主な役割は、水中や空気中から酸素を取り込み、二酸化炭素を排出すること。それは僕たちが今までエラと呼んでいた器官とほぼ同じ構造を形成できるのではないか、という説がにわかに力を持ち始めた。


 ここ百年で増え続けた、食料としての魚介類の供給量も、その変化に関与した可能性があるとか無いとか、そんな噂が囁かれてもいるようだった。


 新器官の発達に関する研究が進むと、その「計画」はすさまじい速度で進められていき、遂にはウイルスに積極的に罹患することすら求められるようになった。


 もちろん僕も志願して、感染した。そうすれば希海に会うことができると、希望を持って確信していたから。




 そして僕たちは、今日の日を迎えた。「計画」の最終段階だ。


 異常気象が続き、海面が上昇し続ける。つまり海が地上を侵食し続けるこの状況で、我々人類は、海という世界に暮らす道へと進み始めたのだった。


 もちろんすべての人間が一斉に、という訳にはいかない。少しづつ少しづつ、希望の名のもとに僕たちは変わっていかなくてはならない。




 絶望が必ず希望に変わるなんて、そんなことを思っているわけでは決してない。ウイルスで亡くなった人たちが戻ってくるなんてこともあり得ない。


だけど、逆境すらも利用して、よりよい世界へと変わり続けていくことが、僕たち人間にできる戦い方なのではないだろうか。僕はもう一度希海と出会えたことによって、それを確信した。




 首の側面から空気が入ってくる感覚が、どこかくすぐったい。だけど、息苦しいとかそういった感じはまったく無い。


 海中で目を開く。


 隣にいる希海と、視線がぶつかる。


 僕は彼女とこれからも世界を見続けていくことができることに喜びを感じていた。


『ありがとう』


 左手の甲を上にして、右手の手刀で切る仕草が、確かに希海に伝わった。


「手話、覚えておいてよかったでしょ?」という希海の声が、手話を使わずとも僕の中に響いてきた。


 海というフィルターを通した淡い光に、希海の笑顔が照らされている。


 地上の世界はどうやら、珍しく晴れているらしかった。

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九州大学文藝部・初冬号 九大文芸部 @kyudai-bungei

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