第7話 in祭壇

「ここが、祭壇室か……」

「流石、特別な許可がないと入れないような場所ね。厳かさというか……色々と、礼拝堂とは違うわ」


 礼拝堂の奥に設置された扉を抜けた僕らは、室内を見回して感嘆の声を上げた。

 部屋の面積は礼拝堂の四分の一にも満たない。各所にガラスケースの中に保管されている聖遺物と思しき物体が展示されており、まるで博物館のようにも思える。恐らく、これらは一般には公開していない聖遺物だろう。初めて見るものばかりだ。


「これ、全部何千年も前に使われていたものなんだろうね」

「だと思うわ。少なくとも、こんなに錆びついて年季の入った物を近頃の物とは言えないわね。って、じっくり見物している場合じゃないでしょ?」

「そうだね。さっさと、儀式を済まそう」


 もたもたしている間に誰か教会の関係者が来たらたまったものではない。ここまでやったことが、全部無駄になってしまう。急いで儀式を済ませないと。

 見物もいいところに、僕らは聖杯の祭壇だと思われる物体──部屋の最奥に鎮座する、女神を模したと思われる青銅像へと近づいた。薄いベールのようなもので身を包んだ女神を表しており、布の彫刻はまるで本物のように繊細。年季が入っているためところどころに僅かな錆が見られるが、全体の美しさが損なわれる程ではないだろう。

 そして、鎮座する女神が前に突き出した掌の上には、聖杯と思しき杯が。

 聖杯の祭壇=女神の両掌。ということなんだろうね。


「あれが聖杯の祭壇らしい」

「みたいね。かなり高い位置にあるけど、届くかしら」

空間遊泳メグアを使えばいい。宙を浮けば、高さなんて関係ないから。フィオナ、儀式で使うものを」


 僕はフィオナが持っていた儀式で使う道具の入った袋を受け取り、空間遊泳を発動して二人一緒に女神の掌に近づいた。

 定期的に手入れがされているらしく、聖杯には汚れ一つない。綺麗な黄金色に輝き、薔薇窓から差し込む月光を受け止め輝いている。神聖な聖杯となれば、恐らく純金で作られているはず。この杯一つで、一体どれだけの価値があるのか想像もつかない。歴史的価値を含めれば、とんでもない値段になるだろうね。

 普段は目にすることができない聖杯を短い間にじっくりと観察し、僕は本に記されていた通りの方角に必要な物を置いていく。

 魔法で生み出した拳大の氷を北に、リシーナの白い鬣を東に、七種の果実を合成した高級果実酒を南に、白と琥珀が混ざった色の岩塩を西に設置。四方に儀式道具を置いた後、僕は指先をナイフで浅く切り、血を一滴聖杯の中に垂らす。

 これで記されていた手順は済んだ。あっているならば、儀式の成功ということで何かしらの変化が訪れるはずなんだけど……。


「何も起きないわね」

「そうだね」


 数十秒が経過しても、特に何かしらの変化が起きる、ということはなかった。材料はあっているし、手順に間違いがあったわけでもないだろう。本にはこれ以上のことは書かれていなかったし。

 何の変化も起こさない聖杯を見て考え込んでいると、フィオナが肩を落とした。


「ここまで来て、無駄骨ってことなのかしら。ここまで来た苦労は一体何だったのよ……」

「まぁまぁ、例え無駄骨でも、僕はフィオナとこの街を歩けただけでも楽しかったよ。今度は、しっかりと観光で来たいくらいだ」

「そう言われると、何も言えないわね。いいわ、次は二人で観光に来ましょ?」

「うん。ただ、少し気づいたことがある」

「ん?」


 小首を傾げたフィオナから聖杯に視線を移し、僕はその中身を覗き込んだ。僕が落とした一滴だけの血が入った、中身を。


「もしかして、魔力が全く足りないんじゃないかな」

「魔力?」

「うん。恐らく、この儀式を成功させるには魔力が必要なんだいよ。エネルギー源となる魔力が全く足りないから、儀式は発動しない」


 人間の身体もそうだけど、動かそうと思ったらエネルギーとなるものが必要になる。生物の場合、身体を動かすためには食べ物が必要。魔法ならば魔力が必要。儀式と言うのは、一種の魔法。つまり、発動には魔力が必要になるわけだ。

 でも、とフィオナは疑問を口にする。


「本には魔力源になるものが必要、とは書かれていなかったわよ。それこそ、必要ならば魔力を格納した魔晶石が必要、とか記載してあるはずだけど」

「現代ならば、魔晶石という高密度の魔力源を用いればそれで済むかもしれない。だけど、あの本は今から何千年も昔に書かれたもの。それだけ昔には、当然魔晶石なんてものはない。人が直接魔力を流しても駄目。となれば、魔晶石以外の魔力を多分に含んだ代替物を使う必要があった。それは、僕らの身体に流れている」

「……まさか、セレル──」


 僕がやろうとしていることに気が付いたフィオナが手を伸ばして静止させようとしてくるけど、既に遅い。僕は手に持っていたナイフで自分の右手首を深く切りつけ、一拍遅れて噴き出した血を聖杯の中に注いでいく。

 静脈を切断したので、思ったよりも多くの血が出るね。だけど、これだけの血が聖杯に注がれたのなら、きっと──フィオナが血の流れる僕の右手を掴み、治癒魔法を行使して傷を塞いでいく。彼女の瞳には、激しい怒り。


「馬鹿! 私の前で自傷行為をしないで! それも、こんなに深く切って……」

「ごめん。でも、必要なことだからさ」

「だとしても! あぁ、もう……こんなに血を流して……」

「どれくらい溜まった……あぁ、十分だね」


 中を覗くと、聖杯の七割を満たす程の血が注がれていた。これだけあれば、恐らくは十分。加えて、僕の血液には常人よりも高濃度に魔力が含まれているから、これで発動しないなんてことはないだろう。

 空間遊泳を解除して床に降り立つと、フィオナが僕の右手を両手で包み込む。流石の魔法技量。軽傷のため、傷は既に塞がっていた。


「はぁ。本当に、貴方は平気で危ないことをするから目を離せない」

「母親みたいなことを言わないでほしいな。それよりも……成功みたいだ」


 儀式を行った場所を見ると、聖杯が淡い光を放ちカタカタと揺れていた。加えて、聖杯の四方に設置した道具も姿を消している。

 儀式の発動は成功。果たして、一体どんな結果が見られるのだろうか。


「何だか、不気味ね。杯が独りでに踊っている光景なんて、悪夢でしかないわ」

「そうだね。あれ? 昔フィオナの部屋に泊まった時、真夜中になったら部屋に置かれていたティーカップがカタカタ動いていたんだけど、あれは一体……」

「こんなところで地味に怖いこと言わないでくれる??」

「冗談だよ」


 右手を握る力を強めてきたため、慌てて宥める。掌に皹を入れられるわけにはいかないからね。怖い怖い。

 と、フィオナと会話を交えながら聖杯の様子を注視していた時、不意に聖杯の周囲に小さな魔法式のようなものが浮かび上がった。目を凝らして式を見てみるけど……僕の記憶にはない、未知の魔法式だった。しかしながら、太古に造られた古代魔法と類似する形状をしていることから、聖杯と同時期に造られたものであると推測。大変興味深いことだけど、今はじっくりと解明している暇はない。今は、儀式によって引き起こされる聖杯の変化に注意しなければ──と、その時。


「! セレル」

「あぁ。あれが、儀式の結果だろうね」


 頷き、僕は今一度空間遊泳を発動し、聖杯へと近づいた。

 女神像の掌に鎮座した黄金の聖杯は今、淡い赤い光を纏っている。そして、持ち手の中央からはひと際強い光が放出されており、それは一本の光線となって、部屋の天井に向かって伸びていた。

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