第18話 真夜中
寒くて暗い世界に、僕は一人で膝をついていた。
壁や天井、様々な場所に奇怪な絵や文字が描かれ、空間の端には小さく灯った松明がかけられている。しかし炎の熱はここまでは届かず、息が白く変わる程の低温は変わらない。足元に広がる床は、真っ赤。
ここは何処なのか、そもそも僕は何者なのか。
この場に至るまでの記憶は一切ない。ただ、心が空っぽになっており、謎の虚無感だけが支配していた。
両手両足、首や腰にも巻かれた、微かに光る銀の鎖は外れる気配は一切なく、執拗に僕を拘束せんと締め上げる。逃れる術はない。
僕はその鎖から目を逸らし、目を閉じる。
全てがどうでもいい。ただ眠ることだけを、この身体は求めている。極寒のようなこの場所で、眠ることだけを。
思考を止め、悠久の眠りにつこうと瞼を下ろし──突如、前方の壁が粉砕された。
飛び散り、床に散乱する壁の破片。それらに続いて、ゆっくり数人の男女が侵入してきた。
「ここは──ッ、男の子?」
集団の中にいた、淡い紫を含んだ白髪の少女は僕の姿を認めると同時に、こちらに向かって駆け出す。周囲の人間と比べて、明らかに若い。恐らく、十にもなっていないんじゃないか。
「王女殿下!? 危険です!」
護衛と思しき女性が少女の後を追う。けれど、それよりも早く少女は僕のいる祭壇の階段を上りきった。
少女は膝を折り、蒼い瞳は虚ろな表情をしている僕を覗き込む。
僕は微かに身じろぎをして、鎖をじゃらりと鳴らして喉を震わせた。
「……っ、──」
しかし、上手く発声することは叶わなかった。
このままやっても上手くいかないなと諦めて口を噤んだ僕に、少女は微笑を浮かべて頬に触れた。
「大丈夫。今、助けてあげるからね」
少女の優し気な微笑みを呆然と見つめていた時、不意に視界が白んだ。
あぁ、そうか。これは夢。
十年程前、僕の記憶にある最古の記憶だ。こうして夢に出て来るのは初めてではないけど、いつも不思議な気持ちになる。
感慨を覚えながら、僕は白んでいく視界から目を閉じ──。
◆
どれくらいの時間が経っただろうか。
僕は自分のものではない体温を感じ、目を覚ました。ぼんやりとした思考と焦点の合わない霞んだ視界。
僕は覚醒しきっていない中、枕元に置いてあった自動巻き時計で時間を確認しようと手を伸ばし──その手が誰かに優しく掴まれた。
次いで、聞き馴染んだ綺麗な声が鼓膜を揺らす。
「まだ真夜中よ。眠っていなさい」
「……なんでこっちにいるの」
魅力的な誘惑ではあったけど、僕はまず現状を確認しようと声の主に問う。
当然、それは隣のベッドで眠っていたはずのフィオナだ。彼女は暗がりでもわかる程の蠱惑的な笑みを浮かべながら僕を見ている。
彼女の言う通り真夜中なら、眠っていてもいいと思うんだけど。
「もしかして、入って来る時にでも起こした?」
「違うわよ。私が勝手に目を覚ましただけ。で、何だか寝付けそうになかったからセレルのベッドに移ったわけ」
「なんで僕のベッドに……」
「寝顔を眺めていたのよ」
「面白くないだろう」
「そうかもね。でも、見ていて飽きないわ」
話しているうちに覚醒してきた思考と、鮮明になる視界。僕は少々照れくさくなりながら、フィオナから視線を外した。
窓の外では月が輝いており、まだ起きるにはかなり早い時間だろう。月は頂点に到達してもいない。
「それで、学校長と何を話していたの?」
「あぁ。問題を起こした教員たちの処罰についてだよ。全員、謹慎後に裏方の事務に回されるそうだ」
「随分と甘いのね。私なら即座に全員クビよ。例え魔法士として有能だとしても、生徒に恫喝するような人間を教育現場には置かないわ」
「君ならそうするだろうね。けど、僕としては生徒と関わりがなくなるという点では評価してもいいと思う」
教鞭を取る場から追放したのだし、これでしばらくの心配事は消えただろう。あとは、彼らが何も行動を起こさずに静かにしてくれれば万々歳なんだけど。
「セレルも結構甘いのね。甘いのは、私だけにしてほしいわ」
「流石に君だけは無理だよ。シオン様やシセラ、リーロにも十分甘くないと。勿論、叱る時は叱るけどね。甘いだけが優しさじゃない」
「……貴方が怒ると怖いから、嫌なのよね」
「君に向かって怒ったことはないだろう?」
「傍で見ていたことはあったわ。私のためっていうのはわかっていたけど、隣で泣いちゃったくらいだし」
「そんなに怖いかな?」
「少なくともお父様よりは怖いわね。自然と、身体が竦むのよ。何故かしらね」
僕としてはそんな風に思わないんだけどな。でも、そんな風に激怒しないにこしたことはないし、そうならないように彼女たちにはなってもらいたい。甘いだけだと、とんだ我儘っ子になってしまうだろうし。
「……ねぇ、セレル」
「ん?」
「憶えてる? 私と貴方が初めて会った時のこと」
掠れ気味の声。
どうして突然そんなことを聞くのかはわからないけれど、まずは答えだね。
「勿論だよ。というか、僕の中にある最初の記憶なんだ。忘れるわけがない」
「……私、今でも思うことがあるの」
僕の布団に潜りこみ、胸元に顔を押し当てるフィオナ。くぐもった声で、その先の言葉が紡がれる。
「あの時、私が遺跡にいなかったらって。神殿最奥の祭壇に、鎖で繋がれた貴方を見つけることができなかったら、きっと今のような細やかな幸せはなかった。それが、凄く怖いって感じるの」
「……」
僕らの出会いは特殊で歪で、奇怪なものだ。
それは、恐らく運命的なものと言ってもいい。だからこそ、彼女はあの時の選択を一歩でも間違っていたら……そんな不安に苛まれているんだろう。そして恐らく、そんな不安を抱えている原因は──。
「一週間ほどとはいえ、ずっと僕が隣にいたから、離れ離れになって不安になっちゃったのかな」
「……うん」
「大丈夫。僕はこうして隣にいるし、君に黙っていなくなることもないよ」
頭を撫でてあげると、更に強くしがみついてくる。
全く、心はまだまだ子供ってことかな。
と、フィオナは布団から顔を出し、僕と至近距離から視線を交差させた。その表情は暗がりでも、真剣そのものであるとわかる。
突然、どうしたのだろうか?
「フィオナ?」
「これは独り言だと思って、聞き流してほしいんだけど」
「そ、その割には見つめ合いすぎじゃ──」
「私は貴方が何者であろうと、貴方を嫌いになったりしないからね」
「……っ」
言葉が詰まった。
聞いていた……いや、知っていたのかな。僕の、人生における最終目標のことを。彼女に話したことなかったと思うけど、国王陛下から聞いたのかもしれない。親馬鹿なあの人なら、あり得るな。
「例え貴方が過去に大罪を犯していたとしても、傍にいるだけで危険だとしても、私は貴方の隣に居続けるわ。ずっと」
「……僕は、君とは違う異質な存在なのかもしれないよ」
「だとしても、よ。セレルはセレルに変わりない。だから──」
その先を紡がれることはなかった。なるほど、それくらい察しなさいということか。中々に手厳しい……いや、理解できるけどね。
僕はあえて声には出さず、頷きを返す。何にしても、彼女の信頼には応えないといけないな。
話していたら、眠気は飛んでしまった。正直まだまだ起きるには早い……というか日も跨いでいないのだけど、一旦心をリラックスさせたい。
「フィオナは眠れそうかい?」
「しばらくは無理かも。目が冴えちゃったわ」
「同じか。じゃあ、ホットミルクでも飲もうか」
「ワインじゃなくていいの?」
「ワインを飲んだら、つまみも食べたくなるだろう? この時間に食べたら太るけど、いいの?」
「え、遠慮しておくわ」
流石は女の子。男以上に身体については意識しているみたいだ。正直フィオナはかなり細いし、少しくらいは大丈夫だと思うけど。
もそもそとベッドから下りた僕は、フィオナと一緒に寝室を出て、一階の食堂に下りて行った。
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