自殺殺スイッチ

二石臼杵

転生スイッチ

 よし、死のう。

 アパートの自室で手首にカッターナイフを押し当てたところでインターホンが鳴った。

 誰だ、こんなときに。

 僕は今死ぬのに忙しいんだ。邪魔しないでくれ。

 しかしそんな僕の心中に構わず部屋のドアは開けられた。どうせ死ぬからと、泥棒に入られても構わないしなんなら誰かに発見されないと困ると思って鍵をかけていなかったのが仇となった。


「失礼しますよ」


 部屋に入ってきたのは、くたびれたトレンチコートに身を包み、モンブランの上に載っている栗みたいなベレー帽をかぶった老人だった。


「ちょっとよろしいですかな」


 頭のてっぺんの栗を取って、にこやかに老人は話しかける。その笑みが癪に障って、僕の声は自然と棘を帯びる。


「今取り込み中なの、見てわかりませんか」


 当てつけのように、手首に押し当てるカッターナイフに力を込めた。


「わかっていますとも。だからこそお邪魔したのです」


 老人は気の毒そうに目を伏せる。しかしその口元は笑みの形のままだった。


「よほどお辛いのでしょう。楽になりたいと思う気持ちもお察しします」


 その、哀れむような口調でぴんときた。ははあ、自殺はやめましょうという説得か。どうやって僕の自殺未遂を察知したのかは知らないが、目的はおおよそそんなとこだろう。


「悪いけど、言葉なんかじゃ僕は止まりませんよ。別にいじめに遭っているとか会社が倒産したとか親しい人が死んだとか、そういう不幸に見舞われたわけじゃありません。むしろその逆だ。僕の人生には刺激がない」


 誰かに話したかったのだろうか、僕の舌は思いのほかよく回った。


「恋人もいなければ、毎日の生活に変化もない。生きるためだけに働いて、そうして得た収入も税金や年金に吸い取られてしまう。親に合わせる顔も孫もなく、これからもこんな生活を惰性で続けなければならないと思うと気が遠くなりました。もううんざりなんです。これ以上生きるのは。僕は疲れたし、飽きました。死にたいんじゃない。生きたくないんだ。これはおかしいことですか?」


 老人は途中何度かうんうんと頷き、ひとしきり聞き終えたあと、まっすぐに僕の目を見てきた。


「いえ、あなたはまったくおかしくない。むしろ現代に生きる者として、ごくごく普通の悩みを抱えていらっしゃる。いるのですよ、なんとなく死にたがる人というのは。そこで私の出番というわけです」


 老人はコートのポケットに手を突っ込み、あるものを僕の前に差し出した。

 それは、黒い筒状のグリップの上に赤いボタンが一つ付いているだけの、おもちゃのような機械だった。

 思わず、しげしげとそれを眺める。


「なんです、それは」

走馬ソーマというスイッチです。走馬灯の走馬、と書きます」


 老人はひどく穏やかに笑った。目尻の皺が矢印の形に深く刻まれる。


「どうです、あなた、一度死んでみてはいかがでしょう」


 そのとき、確かに僕の中の時間は凍った。


「は?」


 やっとの思いで脳の解凍を終えたあとも、口にできたのはそんなまぬけな一言だった。


「僕の自殺を、止めようとしに来たんじゃないんですか?」

「ええ、その通りですよ。しかし、死にたいという衝動を抑えるには、死ぬのが手っ取り早いでしょう。このスイッチは、押すと限りなくリアルな死の感覚を味わえるんです。もちろん痛みや苦しみはありませんし、実際に死ぬわけではないので体に害もありません。騙されたと思って、一押ししてみませんか?」


 死の感覚を、味わえる?

 にわかに信じがたいその言葉に、しかし僕はひどく心惹かれた。

 真っ赤なボタンに視線が釘付けになる。どうせ死のうと思っていたんだ。もし本当に死んでしまったとしても、ボタン一つで死ねるのなら安上がりじゃないか。

 知らずカッターナイフを床に落とし、僕の人差し指は震えながらも未知のスイッチへと吸い寄せられていた。

 かこん。プラスチックに似た硬い感触と指を押し返す弾力が伝わる。

 そして、全ての電気が一斉に消え果てた。

 いや、停電ではない。僕の視界から光という光が取り払われ、辺り一帯が暗闇に包まれた。勝手知ったる自分の部屋のはずが、どこに何があったのかすら思い出せない。すぐ目の前にいた老人の影も形もない。もはや右も左もわからず、上も下もなかった。

 ここにいるのは自分であって自分でない、そんな疑心に駆られた。まるで何年も使われなくなったおもちゃ箱の奥底に閉じ込められたかのような不安に襲われる。そして自分の胸にぽっかりと穴が開き、その穴の中に自分が取り残されたような喪失感と孤独感が全身を満たす。力が抜け、魂も抜け、なんにもない自分だけが空中に浮かんで放り出された気分だった。

 やがて、闇の中に白い亀裂が走る。その亀裂は次第に大きくなっていき、少しずつ光が差し込んでくる。僕は必死でその亀裂に手をかけ、広げた。僕は今、卵から這い出す雛と化していた。光は温かく、柔らかく、どこまでも優しく僕を包み込んでくれていて、母さんみたいだった。

 闇の殻を全部破り終えたところで、僕は元の自室へと戻ってきていた。


「お帰りなさい。どうです? 生まれ変わった気分は」


 目の前には幻覚ではなくあの老人が立っている。


「生まれ変わった……?」

「そう。そのスイッチはあなたを一度確かに仮死状態にした。あなたが今まで味わっていたのはまぎれもなく本物の死の実感。そしてスイッチの効力で仮死状態は解除され、あなたは生き返ったというわけです。寝起きのようなものです。一度死んで生き返ると、少しは頭がすっきりしてはいませんか?」


 言われた通り、僕の心にシームレスのように張り付いていた不安感はなくなっており、不思議と爽やかな気分だった。死。さっきまで僕を覆っていた闇は、紛れもない死の塊。実体化した死そのもの。そこから僕は這い出し、生まれ変わることができたんだ。

 ああ、しかしなんということだろう。生き返っているとき、光に包み込まれて新たなる生を受けたとき、全身に電流のような快感が走り回ったのをはっきりと覚えている。いや、電流なんて鋭いものじゃない。電子レンジがマイクロ波で物体を温めるときみたいな、体の奥底からじんわりと温もりが滲み出ているかのような感覚だった。その温度に名前を付けるのなら幸福だ。生まれた喜びを僕は今、思い出したのだ。

 生まれ変わったような気分、というのを比喩ではなく本当に思い知った。確かに今なら、なんでもやれそうだ。全身に行き渡る生命のエネルギーが発散させられる場を求めている。


「ええ、とても、悪くない気分です」

「それはよかった。では、また来ます」


 そう言って老人はベレー帽をかぶり直し、踵を返して部屋のドアを開けた。いつの間にかスイッチは彼の手の中に戻っていた。僕が死と転生を体験している間に回収されたんだろうか。


「待ってくださ――」


 部屋を後にする老人を追いかけようとしたところで、足に小さな痛みが走った。見ると、さっき落としたカッターナイフの刃が足の小指の縁をわずかに傷つけていた。

 か細く赤い線から、赤い玉が膨らむように出てくる。僕はその様子を、手当てするでもなくただ呆然と見ていた。痛い。血が赤い。これが、生きているということ。僕は今、生きている。カーペットに移動する小さな赤い染みを、僕は時間が経つのも忘れて眺めていた。

 今日、死なずに済んだ。その事実を目で噛み締めるように。





 それから僕は心機一転、心を入れ替え真面目に働き、気持ちのよい汗を流し、心身ともに充実した日々を送る――ことができたら物語としてはきれいだったかもしれない。少なくとも寓話的には正しいだろう。

 だけどこれはおとぎ話じゃなくて現実だ。そう上手くいくはずもない。あれほどに満ち溢れていたやる気は最初の二、三日でたちまち萎み、僕は元の退屈で陰鬱で、現代人の多くがそうするように先の見えない未来に気の遠くなる毎日を過ごし直すはめになった。

 王子がキスをしようとも、ガラスの靴を履こうとも、あくまでそれはその場しのぎの一時的な変化に過ぎない。素敵な魔法は現代社会ではあまりにも無力だ。そもそも魔法なんて実在しない。

 だから僕の首には今、ロープが巻き付いている。もう一度死を望んだために。再び僕は死の引力に惹かれたのだ。

 そして足元の椅子から足を離して、まるで自分の人生を体現するかのように宙ぶらりんになろうとしたところで、またもやインターホンが鳴り響いた。


「お求めのものはこちらですかな」


 気づけば勝手にドアが開けられ、この前のベレー帽とトレンチコートの老人が入ってきた。その手にはあのスイッチが載せられている。


「なぜ、ここに」


 そう訊ねながらも、僕の視線は赤いスイッチに釘付けになっていた。


「なに、簡単なことです。自殺衝動というのは非常に厄介な病気だ。スイッチ一つぽんと押せば治るものなら誰も苦労しません。薬の処方と同じですよ。毎食後の薬のように、何度か服薬する必要があるのです」

「つまり、僕にもう一度そのスイッチを押せと」

「どうやら指先は素直なようで」


 言われて初めて、自分の手がスイッチのボタンに伸びていることに気づいた。


「いえ、いいのですよそれで。これは治療のようなものなのですから。治るまで何度も押せばいいのです」


 気の済むまで、生き返るまでね。そうささやかれたときにはもう、僕はもうあの赤いスイッチを押し込んでいた。

 かこん。

 この世から一切の光が消え、舞台は闇へと暗転する。夜よりなお暗い闇の中では僕を含めあらゆる生命の光が感じられず、足元にあるはずの自室の部屋の床の感触も見当たらなかった。どこまでも黒い闇の中をあてどなく彷徨い、光を探す。

 胸の中ではタールのように重くねばつく不安感と孤独感が魔女の鍋の中さながらにぐるぐると煮詰められていた。かき混ぜられるほどに不安は増し、僕は一人ぼっちになっていく。

 光を。命を。誰でもいい。もっと。もっとくれ。自分でも見えない手を差し出した先で、小さな月が浮かんでいた。

 いや、月に見えたそれは闇の中にぽっかりと開いた穴だった。穴の向こうから光は差し込み、僕という命を照らし出す。穴は徐々に大きくなり、そこから漏れる光の筋も増えていく。僕の全身が温かな光に包まれたところで目が覚めた。


「どうです? 少しは気が楽になりましたかな?」

「そう、ですね」


 僕は視線を落とし、自分の手を見つめていた。開閉される手は確かに自分のものであり、僕の念じた通りに動く。しかし、今はその手の中に光が握られている気がした。

 仮死状態、臨死体験を味わっているときに最後に僕を包み込んだ光。あれは、ヨロコビを可視化したようなものだった。あの中にいると多幸感が胸の中を満たし、それまで僕の中にあった不安や焦燥を押しのけて体の中に居座るのだ。

 その光が、ヨロコビが今も僕の腕の中に。

 すっかり頭の雲は散り、晴れ間が広がっていた。心の空は青く、澄んでいる。

 もはやこの不可思議なスイッチの効き目は身を以て実感している。疑いようもない。だけど、理性と固定観念が受け入れようとはしない。有体に言って、効きすぎて信じられないのだ。これはもうホラーの域じゃないのか。


「おや、何かお気に召さない様子で」

「いえ、そんな。……ただ、そうですね、いろいろ思うことはあります」

「ほう、例えば?」

「あなたは何者なんですか? なぜ、僕が死にたくなったときにちょうど駆けつけることができるのですか? 心でも読めるかのようだ」

「ははは、とんでもない。まだ科学はそこまで進化していませんよ」


 こんな非科学的もいいところの装置を作っておいて何をおっしゃる。


「セロトニンという神経伝達物質をご存じでしょうか?」

「セロトニン?」


 聞いたことがあるようなないような、なんとも半端な語呂の物質だ。


「別名しあわせホルモンとも呼ばれています。要は脳をリラックスさせたり疲れを癒したりする脳内ホルモンですよ。このスイッチは押した者にセロトニンやドーパミンなどの幸福物質を与え、眠っていたやる気と生きている喜びを目覚めさせるのです」

「いや、僕が聞きたいのはこれがどういう仕組みなのかではなく――そっちももちろん気にはなりますけど、なぜ僕が死にたくなるときがわかるのかということなんですが」

「ああ、これは失礼。ですが話を脱線させたわけではないのでご安心を。つまるところこのスイッチは、体内にセロトニンやドーパミンが非常に不足している、極度にストレスを抱えた人間を発見するレーダーの役割も備えているのですよ。ストレスを抱えすぎた人間の行きつくところはみな同じですからね」

「なんだかわかったような、わからないような、とにかくすごいということだけはわかりましたよ」

「それは素晴らしい。なんとなく、でいいんですよ。今の世を生きるためには、考え方なんて」


 何がおかしいのか、老人は肩を小刻みに震わせて笑っている。いや、この老人が笑っていないところなんて、一秒たりともなかった気がする。


「でも、この繰り返しはあまりにもきつすぎませんか? 死にたくなって生きる気を取り戻す、また死にたくなっては活力を与えられる。僕の感情がジェットコースターにされるのはまっぴらですよ」

「もっともな不安です。しかし心配ご無用。このスイッチ『走馬』は六度押すことでこそ真の性能を発揮するのですから」

「六度?」

「ええ」


 老人はにたりと歯を見せた。歯はところどころ欠け、あるいは金色になっていた。


「六度目に走馬を押したとき、あなたは本当の意味で生まれ変わることができる。それまでの辛抱です。お辛いでしょうが、頑張っていきましょう」

「六度……六度……なぜ六度目なんですか? それに、本当に生まれ変わるってどういう……?」

「それは押してからのお楽しみですよ。死すらも楽しむ。これが現代の娯楽です。では、私はこの辺で。またお会いしましょう」


 老人はベレー帽を目深にかぶり、背を向けて部屋を出て行った。

 僕の質問に答えはなく、あるのはただ体中に持て余すほど満ちている生気だけだった。





 それから一週間ほど経ち、インターホンが鳴った。


「どうぞ、開いてますよ」


 僕は沈んだ声で、しかし慣れた口調で客を招いた。


「失礼しますよ。おや、何をなさっているのですか?」

「ああ、」


 僕はすりこ木を動かす手を止めた。


「サクランボの種には青酸カリが含まれているらしいんで、すり鉢で砕いているんです」

「六度目ともなるとバリエーションも豊かになるものですね」


 感心とも呆れともつかぬ声を老人は漏らす。

 六度目。そう、今日でついに僕はあのスイッチを六度押すことができるのだ。

 リストカット。首吊り。睡眠薬。風呂場での入水。ヘリウムガス。そして今回のサクランボ。

 これまで僕は六度死のうとしている。今だって死にたい。本当なら五回もとっくに死んでいるはずなのに、まだ楽になれない。

 なぜ死にたいのか。生きたくないのか。その理由はもう思い出せない。けど、そろそろ限界だろうとは薄々感じていた。

 僕は、生きるのに向いていないのだろう。

 なぜ六度目にスイッチを押すと生まれ変わるのか、あれから少し調べてみると、「ソーマ」というインド神話の霊薬が引っかかった。確か例のスイッチの名前も「走馬」だったはずだ。

 ソーマとは、同じ信仰を持って六度死んだ人間が七度目に転生してできるソーマ草を原料として作られる神酒らしい。なるほど、僕は「死にたい」という信仰を持ち続けて六度死んでいるということになる。ソーマが完成する条件を満たしているじゃないか。

 肝心のソーマ自身の効能は、笑えないことに不老不死だ。まさか六度も自殺を試みて辿り着く先が死ななくなることなんて、たちの悪い冗談としか思えない。

 だが、僕は不老不死になることはないと踏んでいる。おそらくこの老人は、僕を材料としてソーマを作り出そうとしているに違いない。

 それを老人自身が飲むのか誰かに売りつけるのかはわからないが、不老不死の薬の材料が自殺者とは皮肉にも程がある。

 しかし、僕はソーマ草になれればそれでいい。自分という人間がいなくなって、完全に存在しなくなりさえすればそれで満足だ。

 僕からすればソーマ草なんて雑草と同じだし、ソーマ草になることは死ぬのと大差ない。これでやっと、本当に死ねる。


「お辛いでしょう。さあ、いよいよ六度目です。どうぞ」


 老人が笑顔で真っ赤なスイッチを差し出す。僕の指はその先端に引き寄せられた。


「やめろ! それを押すんじゃない!」


 走馬に指が触れる寸前で、見知らぬ男が部屋に飛び込んできた。壮年のスーツ姿の男だ。

 いや、見知らぬというのも少し語弊がある。そいつの顔にはどこか見覚えがあった。

 既視感の正体を探っていくうちに、気がついた。見覚えがあるのも当然だ。その男の顔は、僕によく似ていた。


「僕は二十年後の未来のきみだ。信じられないかもしれないが、聞いてくれ」


 彼の言葉以上に顔に説得力があり、思わず僕はスイッチを押す手を止める。老人が舌打ちをするのが聞こえた。


「いいか若い日の僕。君島きみしま侑史ゆうじ。きみはこれから二年後に事業に成功する。そして五年後に幸せな家庭を築く。かわいい子どもも生まれる。きみの人生はかけがえのないものになる。現に僕は今幸せだ。だから死のうとなんてしないでくれ。きみと僕の人生をここで終わらせないでくれないか」


 突然の未来のネタバレと勧告に僕の頭は処理が追いつかず、フリーズしてしまう。

 男――未来の僕は老人を指差した。


「そいつは役人だ。国の自殺者を減らすために動いているんだ。口車に乗ってはいけない」

「……自殺者を減らす? なら、何も問題ないじゃないか」

「問題なのはその方法だ。そのスイッチは人を殺す装置だ。スイッチを押した者の体を司令塔として音波を発信させ、近くにいる極度のストレスを抱えた人間――要するに自殺者予備軍たちの脳に大量のセロトニンやドーパミンなどの幸福物質を分泌させる。人間の脳は死を察したときに大量の幸福物質を分泌するが、そのスイッチはそれを逆手に取り、脳内を幸福物質で満たすことで脳を死んだと錯覚させて機能停止させる仕組みなんだ」

「……それじゃただの殺戮じゃないか。自殺者を減らすことと矛盾している」

「いいや、こいつは、国は統計データとしての自殺者が減ればそれでいいのさ。自殺者を減らすためには、死因が自殺の死者を減らせばいい。つまり、自殺する前に殺してしまえば『自殺者』の数は抑えられる」

「そんな…………」


 未来からの僕がもたらした情報は、とてもじゃないが荒唐無稽だった。

 けれども、その荒唐無稽を形にしたスイッチは今、僕の目の前に存在している。

 そして僕はそれを何度も押しているのだ。

 嘘と笑い飛ばす資格も自信も、僕にはなかった。

 だから第三者に否定してもらおうと、僕はすがるように老人を見る。


「本当ですか……?」


 声は震えていた。自分が死ぬならまだしも、人殺しの手助けをしていたというのなら話は違ってくる。嘘だと言ってほしかった。

 僕がスイッチに伸ばしていた手はとっくに引っ込められ、今はだらんと力なく下がっている。

 老人はスイッチから離れた僕の手を鋭い目で見やり、それから自分の手でスイッチを押し込んだ。かこんという、聞き慣れた音がこれまでとは異なる響きを放って聞こえた。


「残念ながら、彼の言っていることはすべて事実です」


 いつも笑みを絶やさなかった老人の顔が、今はにこりとも笑っていなかった。

 同時に、横にいた二十年後の僕が喉を両手で押さえ、苦しみだした。


「えっ」


 未来の僕は口からかすれた息と数本の涎の糸を吐き垂らし、膝を折って倒れ込む。

 そうして横になった彼はしばらくびくんびくんと痙攣したあと、やがて放置されたぬいぐるみのように動かなくなった。


「何を、したんですか」

「自殺者を一人、減らしただけですよ」


 老人は淡々と答える。


「自殺? この男は、幸せだと言っていたじゃないですか。自殺なんてするわけがない」

「過去のあなたが自殺を考えているのですから、結局は同じことです。早いか遅いか、それだけの問題ですよ」


 老人の声はどこまでも冷たかった。その冷たさに自分でも耐えられなかったのか、彼はコートのポケットに片手を突っ込む。もう片方の手にはあのスイッチが握られていた。

 強盗が刃物を見せつけるように、老人はスイッチの存在を僕に誇示する。その赤いボタン部分には彼の親指が添えられていた。


「さて、今までさぞお辛かったでしょう。でも安心してください。これであなたはやっと生まれ変われますよ。――本当に転生というシステムがあればですがね」

「……騙したんですね?」

「別にいいじゃありませんか。あなたは死にたい。私は自殺者を殺したい。お互いの望みが叶うちょうどいい落としどころでしょう。それとも、自分で死ぬのはよくても殺されるのは怖いですか。それはずいぶん勝手な言い分というものです」


 じり、と近づいてくる老人から無意識に僕は一歩後ずさった。それを二、三回ほど繰り返したところで背中が壁に当たる。目の前に無慈悲なスイッチが突き出され、僕は動けなくなった。


「嘘だ……スイッチ一つで人を殺せるわけがない」

「簡単ですよ。自殺を止めるなどという雲を掴むような絵空事に比べれば、遥かに現実的で容易いものです」

「いやだ、こんな、こんなことで死にたくない……」

「死を望んだ者は、最後には決まってそう言うのです。聞き飽きましたし、不愉快です」


 死に憧れているうちはよかった。しかし、いざ死が触れる距離までくると、後悔がどっと頭の中を駆け巡る。それはまさに走馬灯のようだった。


「では、さようなら。死ね」


 かこん。スイッチが押された。僕は力強く目を閉じた。






 …………

 …………?

 意識があることに違和感を覚え、恐る恐る目を開ける。


「どうですかな? 生まれ変わった気分は」


 目の前では老人が笑っていた。スイッチはコートのポケットにしまわれたのか、見当たらなかった。


「生まれ、変わった?」

「ええ」


 わけがわからず、口がぽかんと開く。


「どういう、意味ですか?」

「死ぬのは、怖かったでしょう?」


 老人の目がすうっと細められる。僕はさっきまでの殺される恐怖を思い出し、背筋が寒くなった。声を発することも忘れ、重く頷く。


「死ぬのは怖い。当り前のことですが、多くの人がそれを忘れがちです。私はこのスイッチを使って死への恐怖を思い出させ、自殺者を殺しているのです」

「その、男は」


 僕が倒れている未来の自分を指差すと、死体はむくりと起き上がった。それから彼は自分の顔を引っ張り、皮を剥がす。いや、皮膚に見えたそれは変装用の特殊マスクだった。マスクの下から現れた男の本当の顔は、僕と似ても似つかなかった。

 老人は男に頭を下げてから僕の方へ向き直る。


「彼はちょうどあなたと体形が似ているだけの赤の他人です。未来のあなた役にふさわしいとシミュレートしたうえで私が選び出した協力者ですね。訪問を六度にも分けたのは、彼を未来のあなたらしく仕上げるための準備期間だったのですよ」

「つまり、全部芝居だった、と」

「あなたも言っていたじゃありませんか。スイッチ一つで人間が殺せるわけがない。私は役人ではなく、役者にすぎません」

「じゃあ、今までスイッチを押したときのあの生まれ変わるような気分は……」

「ただの幻覚ですよ。このスイッチの本当の機能は、幻覚作用のある催眠ガスを噴射することですから。もちろん私が押すときには電源は切ってありますけどね。そして、死にたくなったときに駆けつけることができたのは、最初にここを訪れたときにこの家に隠しカメラと盗聴器を仕掛けさせてもらっただけですよ。ああ、さっきあなたが死んだと思っていたときにもうカメラも盗聴器も回収は済んでおり、データも削除するのでご安心を」


 すべてが明かされたのを悟った僕は、大きく息を吐いた。体から力が抜ける。


「死にたいと思うこと自体は何も悪くありません。これから先、何度もそう思うこともあるかもしれません。ですが別に今すぐ死ぬことにこだわらずとも、またいつか、でいいではありませんか。そう思いませんか?」


 そう言いながら老人が浮かべた笑みは、今まで見たどの笑顔よりも優しいものだった。


「あなたは今日、初めてスイッチを押したのですよ」


 その言葉が、不思議と僕の胸の中に残る。

 そうだ、死ぬことはいつでもできる。けれど、生きるのは今しかできないことなんだ。

 それに、死ぬのはとても冷たく、怖い。できれば後回しにしておきたくなった。

 なるほど、ソーマとはこういう意味か。

 神が作った不死の霊薬。確かにこれは、死にたがる者にとってのだ。

 死にたくなっても、死ぬ必要はない。

 以前の自分では思いつきもしなかった、単純な発想。それに気づけただけでも、充分に生まれ変わったと言えるのかもしれない。


「さて、私の役目はこれまでです。お暇しましょう」


 老人はベレー帽を取り、会釈する。未来の僕役の男を引き連れて老人はドアを開ける。

 そこであることに思い当たり、僕は老人の背中に声をかける。


「あの、」


 老人は振り向くことなく歩みを止めた。


「なんでしょう」

「二回目以降は隠しカメラや盗聴器でタイミングがわかったのは理解できるんですが、なんで最初に僕が死のうとしたときにも駆けつけることができたんですか? そのときにはまだこの部屋に何も仕掛けられてないはずですし、まさかあのスイッチが本当にセロトニンだかの数値を計ってるわけでもないんですよね」

「ああ、そのことでしたか」


 老人はのっそりと首だけをこっちに向け、笑った。


「てきとうに家を訪れると、死のうとしている人に出くわすことは意外と珍しくないんですよ。もちろんただ単に生活をしている人もいますので、そういう場合は間違えましたと言って不法侵入にならないように引き下がるのですが。だいたい十軒中に三、四軒ほどは自殺未遂の場面に出くわすことがありますね」

「え」

「では、またお会いすることのないよう、祈っていますよ」


 最後にそう言い、ベレー帽をかぶり直した老人はドアを閉めた。未来の僕を演じた男も一緒に去っていく。

 玄関から差し込む光がなくなり、ドアから伸びる四角い影が部屋を暗くする。

 あの老人たちはこれからも自殺者を殺していくのだろう。

 でもそれは気の遠くなる作業だ。

 世の中には、死にたいほど疲れている人で溢れている。

 自分が思っている以上に、この世の中は人を死にたくさせているようだ。

 じゃあ、その中で生きている自分はいったい。

 そう考えると、死にたくなってきた。

 確かに自殺を止めることはできるかもしれない。だが、死にたいと思うことまで止めることはできないのだ。

 けれども、死にたいと思えることはまだましな方じゃないのだろうか。死にたいと思うことさえ許されなくなったとき、人は窮屈さで窒息死してしまうに違いない。

 果たして僕の息は、どこまで続くのだろう。

 それからときどき、どこかの街を彷徨っているはずのあの老人とスイッチを無意識に探すことが癖になった。

 しかし、僕が再びあの赤いスイッチを目にする機会はついに訪れなかった。

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