【短編】不思議なハンカチ

森林公園

「僕、あいつ嫌いだ」

「僕、あいつ嫌いだ」


 親友のもといが言うのを意外に思ったのだろう。目の前で落ち着かなく椅子を揺り動かしていたひびきは動きを止めた。基の目線の先には、六年五組でリーダー格の男子が談笑している。


 スポーツはできるし女の子にはモテる。ベースボールキャップをいつも被っていた。彼のトレードマークなのだ。良い奴だから、響と基にだってもちろん優しい。『なのにどうしてそんなことを言うのか』、響の顔にそう書いてある。基はそれを苦々しく思う。


「あそう、何で? あいつの靴、僕は格好が良くって好きだけどな」


 その子が履いている靴は、どこか有名なブロンドやメーカーのものというわけじゃあないのだけれど、砲丸投げの選手が使うシューズのスタイルだとで、変わった形の物だ。


 それが黄色に塗りたくられてピカピカしている。その自己主張を思い出して、基は思わず鼻で笑ってしまった。小学生がするべきお洒落なんかではないと思ったからだ。


「だってアイツ、僕のいないところで悪口言ってるんだもの」


「珍しいね、誰かにそれ、伝え聞いたくらいじゃお前は信じないだろうに」


 響の指摘に、基はふてくされたように机にぎゅうぎゅう頭を押しつけて答える。


「……自分の耳で聞いたんだよ」


 それを聞いて、イスの背の上でグラグラしていた響は、

「そいつあ最悪だな」

と納得して頷いてから床に飛び降りた。


 本当のことを言えば、聞いたのは確かに基ではあるのだけれど、悪口を言われていたのは響の方だった。


「消えっちまえばいいのに」

 友達のことを悪く言われて、自然と良くない思いが零れた。


「ん?」


 振り返って笑う響を見て、

「何でもないよ」

と基は口の中でもごもご言ってから机に再び突っ伏した。


「そんなのいいから、ちょこっと見ていてよ」


 響は机をゴソゴソしてから、手を差し出すように基に促す。億劫に差し出した手のひらに、コロリとマンゴー味の飴がいくつか転がった。そこに白いハンカチを取り出して被せる。響のポケットから出したはずのそれは、不思議と皺一つなかった。


「見ていてね」

 響が目配せする。


ワン


ツー


スリー


 パッと取り払われた基の両手。何とそこにはもう何もなかった。タネが分からないことを悔しく思ったが、基はへぇっと生半可に声を出して、それがバレないように努めた。


「……上手いじゃないか」

「練習したもん」

「タネはわかんないけど、さっきの食べたいから戻してよ」

「残念、一度消したものは戻せないんだよねー」


 ごめんね。そう響に舌を出されて、基は不貞腐れた。その時はそれだけ。


* * *


 響の家は母子家庭だ。母親が家に戻るのが遅いので、基は夕飯ギリギリまで彼の家で過ごすことが多い。それか基の家で響も夕飯を食べたりもする。何故か響を一人にしないことが、基の使命のように感じていた。


 今日だって、風紀委員会が終わるのを待っとけと言ったのに、机の上には『先に帰る』という走り書き。基は寒い部屋に一人で響を帰すのが嫌いだった。基が悲しくなるからだ。


 そんな理由で大急ぎで彼の家に走った。今日はちょっと文句を言ってからきっと仲直りをして、宿題をして、ゲームして。オバサンが遅いようなら一緒にご飯を食べて。


「一緒に、いっしょに過ごすんだ」


 息は切れたけど、アパートが見えたところで明るい気持ちになれた。一種の使命感は実は言い訳で、本当は純粋に響を友人として好ましく感じていた。


 彼の家、アパートの堅い鉄製の扉は何故か開いていた。それを注意深く開けると、現れたのはあの黄色いシューズだったのだ。明るい気持ちは、すぐに奈落に突き落とされる。


「響」


 思わず人の家にも関わらず、靴を放り出して駆け込む。だってこの黄色いシューーズを履いていたのは『アイツ』だ。響の家のことや、彼のぼんやりした性格を馬鹿にしていた『アイツ』。


 勝手知ったる友人の家だ。薄暗い廊下を歩いてすぐのダイニングに、響がぼんやりと立っていた。件の男の子は見当たらない。基は響の肩を掴んだ。


「おい」

「……基」


 響は少し驚いたようだった。肩をびくりと揺らして、不安そうに基を見上げる。


「アイツは? 無理について来られたのか?」


 ダイニングを見渡すが、やはり例の少年は見当たらない。


「今、トイレか?」


 あんな派手で特徴的な靴、あの少年以外思い当たらない。基は些か詰め寄るように響ににじり寄る。机の上には飲みかけのジュースのコップが一つ、それは半分に減っていた。口をつけてないコップがもう一つ。水滴を沢山付けたまま机に放置されている。


 それと白い布。


 薄暗い部屋の中で妙に薄光って見えるようだった。昼間のことを思い出し、基の背中を悪寒が駆け巡った。


 そんなわけ、あるはずがない。

 そんなこと、できるはずがない。


 でも基は凄い勢いでダイニングを抜けると、トイレをノックした。返事はなく、開けると誰もいない。それだけでは飽き足らず、走って寝室を見た。風呂場を覗き、押入れやクローゼットまでもくまなく開ける。


 カーテンまで開けたけれど、ベランダにも誰もいなかった。色づき始めた枯葉が隅の方に溜まっているのが見える。


「おい……響」


 震える声を、基は絞り出した。


「どこへやった?」


 それに響は小首を傾げて少し考えてから、

「ああ」

と笑んだ。


「消してしまったよ」


 その答えは基が予想していた物だった。


「だって基がさぁ、消えればいいって言ったろう?」


 汗が基の眉間を滑った。唇が乾いて縦に割れたようだった。

 そのまましばらく沈黙してから、唐突に響は声を上げて笑い出した。


「嘘だよ、うーそ」

「へ?」

「おっかしーの、基。いくら僕でも人なんて消せないさ。アイツがここへ来たとでも思ったのかい?」

「だって靴が……」


 眉を下げて基が言い淀む。響はさも可笑しそうに種明かしを始めた。


「靴は羨ましくって通販で買ったのさ、さっき届いたんだよ。ジュースはそろそろ君が来るかなぁって思って、ちょっと早く準備し過ぎたの。口つけてないほうが君の分ね」


 基は脱力してヨロヨロとイスにへたり込んでしまう。


「だ、だよなぁ、僕、どうかしてた」

「本当だよ」


 響がくすりくすりと笑うのに、基も安心して苦笑した。


「まぁ、本当に消しちゃったとしても、僕には戻すことが出来ないのを、君は知っているだろうけれど」


 ねえ?

 笑った顔が何だか恐ろしく感じて、基は机に残されていたジュースを一気に煽った。


* * *


 でも実際には、件の少年は次の日から学校に来なかったのだ。席も空いていて誰に聞いても「知らない」と言う。まるで彼の代わりのように、あの黄色い靴を履いた響が、グランドの隅に佇んでいた。


 白いハンカチのマジックで、みるみると彼はクラスの人気者になっていった。


 あの夕暮れの次の日、一度だけ響の母親を見かけたことがある。その日は母親の仕事が休みだとかで、響の家には行かなかった。


 夜七時近くに、基は外食のために両親と外を歩いていた。その時に響のアパートの前を通りかかったのだ。アパートのすぐ脇には小さな畑がある。そこから何だか疲れきった様子の響の母親と、道路を挟んですれ違った。


 元々綺麗な人であったが、その日は何だかまるで老婆のように老けて見えた。手は泥だらけで、スカートにも茶色い染みが幾つもついている。こちらに気がついて、向こうから深々とお辞儀してくれた。


「家庭菜園かしらね」


 母親が暢気な声を出すのに、基は何故だか胸がザワザワした。


 そういえばあの日あの時、基は響の家のある一ヵ所を確認しなかった。風呂場の、蓋が閉まっていた一人でも入るのが狭いようなあの浴槽の中を。


 基は確認するのを怠っていたことに気づいたのは、リビングの隅でベースボールキャップを見つけた時だった。


 振り向くと、背後には白いハンカチを持った響がひっそりと立っていた。


<了>

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