後編
見ると、目前には漆黒の巨大な球体。
その周りには、時空の歪みの様な光の帯が広がっている。
それが以前本で読んだことのあるブラックホールなのだと、躊躇無く認識出来た。
既に事象の地平線を越えているのか、特異点に向かって引きずり込まれて行くのが解る。
事象の地平線……
物理学における相対性理論に基づいた概念の一つ。ブラックホール周辺において光が重力に囚われ、外部に逃れられない範囲の境界面。また、膨張する宇宙で、観測者から遠ざかる速度が、光速を超えている領域との境界面。
……光の速度でも脱出不可な領域。
時間が永遠に向かって引き伸ばされて行く感覚のなかで、スクリーンを観るかのように、懐かしい映像が目の前に現れた。
この場所を知っている……
そこは既に手放した自宅の二階、かつての私の書斎だった。大きな窓の向こうには、南東の陽に照らされた富士山と、その裾野には周辺の山々が連なっている。
私を乗せた透明の球体はその役目を終えたかのように、ゆっくりと存在を消しながらその場に立たせてくれた。
ふらつく脚を進ませ窓際に立ち下を眺めた。すぐに理解出来た。あの日に戻ったのだと……
3年前の、あの日に。
庭の手入れをしているわたし。
玄関のドアを開けわたしに近づく妻と娘。
ああ
なんと美しい人
なんて愛らしい娘
知らせなければ……
とどまるようにと、早く!
力の限り窓を叩いた。一瞬妻がこちらを見たがすぐに目を逸らした。
私が見えていない、なぜだ?
実存する時空が違うのか、此処では私は幽霊の様な存在。
世界線が違う……
違う世界線であれば、現象と結果は多少なりとも異なるはず。ふたりの身に降りかかるものは違ってくるかも知れない。しかし、その結果を明らかなものにしなければ。
この世界では、私たち家族が悲劇で終わってはいけない!
渾身の力を振り絞り、椅子を窓に叩きつけた。窓硝子が、ガシャンと悲鳴をあげ破片が飛び散ると、三人が一斉にこちらを仰いだ。
其処にいるわたしは、訝しげな表情でこちらを凝視した後、妻と娘を諭してから玄関に向かった。
妻は、娘を抱き締めたまま座りこんでいる。
ふと
どこからか微かに
鐘の音が聞こえた
よかった、これでなんとか……
安堵に浸った次の瞬間、全身を貫く強い衝撃が私を襲い、視界は暗黒に包まれた。
・・・・・・・・
雑居ビルが連なる細い路地。消えそうに点滅を繰り返す街灯の下、'Keep Out'と囲われたエリアで二人の男が話している。
「お疲れ。それで、どうなんだ」
「はい、救急搬送された病院で死亡が確認されました」
「4階の屋上からでは仕方がないか。遺留品は」
「はい、スーツの胸ボケットに免許証と遺書が。このビルの3階に、2年前から賃貸しています。3年前に妻と娘を交通事故で亡くされ、その後、此処に移り住んだようです」
「……そうか」
「遺書には、亡くなった二人への想いが綴られています。この路地を行った表通りが、交通事故の現場になります」
「解った、事件性は無しだな。ではそれで、報告書をあげてくれ」
「承知しました。あっ主任、それと遺留品なのか、すぐ脇にカンパニュラの花が一輪、落ちていたそうです。これも報告しておきますか」
「ん、すまん、どんな花だ」
「はい少々お待ちを、検索してみます。……出ました、これですが」
「鐘に似た可愛らしい花だな。ん、花言葉は感謝、誠実な愛、……思いを告げる。……まぁ一応、上げといてくれ」
・・・・・・・・
「時間」はとても悲しく そして儚く
流れる川のように決して止まることはない
運命に逆らってでも守りたいもの
愛に満ちた果てない想いが天を流れる
【 了 】
カンパニュラ / 鐘の音 麻生 凪 @2951
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