1-常夜の如き君なりき
◆
それは男の一切の嘆きを認めない。それは男の一切の叫びを認めない。男は涙を流して走る。振り向かず、もはやこれまで、と呻き叫ぶ己の身体を無視して走る。前へ、もっと前へ!「それ」より先へ一歩でも前へ!躓き倒れ伏してなおもがき、足掻く。
男が見上げた瞬間、背中を追いかけていた「それ」は男の真っ正直へと回り込んでいた。狼狽え振り向いた男の頭上からもう一つ、「それ」が轟音を上げて降り立つ。
前から。後ろから。人が大地を踏みしめた時から常に、死はお前に寄り添っている。故に一人で逝く事はない、生命を惜しむな、心配するなと両の掌が男を強く優しく包み込む。しかしそれを男は理解する事はないだろう、男に聞く耳はなく刮目すべき瞳もない。闇夜に蠢く真実を嗅ぎ分けることもなく、それを思考する脳も潰れた。
しかしぐちゃりぐちゃりと音を立てながらも男は不思議と幸せそうに笑っていた。
嗚呼ようこそ我が血肉よ。祝福しよう。君もまた永遠となる。
◆
いつものようにあてもなく街に繰り出す事もなく、珍しく家に居た夜九時半の事であった。
例によって例のごとく、俺は幼馴染である
『夢を叶えさせて欲しい。十時半、日ノ出町台空通りハンバーガーショップにて待つ』
顔の筋肉が歪み、口元がひくひくと震えだす。無論笑いではなく怒りである。
腹が立つのは上良内のこういったスマートフォンでのやりとりだけは異様に淡白な所だ。普段の奴はアガラナイなんて蒙昧なあだ名とは裏腹に、天井知らずのテンションで大仰な身振り手振りをかまし踊るように講釈を垂れ口を塞がれるとそのまま死ぬような男なのだ。
そのくせ文章のやりとりとなると最低限で、曖昧、不明瞭、もったいぶってよくわからん表現。一度顔を合わせ怒鳴ってやりたい。それこそ奴の思う壺だ。あからさまにこちらに解釈を任せて放り投げたような文面から闘牛の前に赤い布をちらつかせ、お前の扱い方など心得ているのだと言わんばかりの顔が暗い部屋に浮かぶ。それが上良内文雪の常套手段だった。
「ちっ」
付き合う道理もないが、一発ひっぱたく道理はある。特にこれといった急用もない。舌打ちと共に俺はひょいと家を抜け出し、奴に会いに行く事にした。
ハンバーガーショップの時計は十一時を指していた。
幸か不幸かこんな時間になっても店は混雑していてフロアを流れる音楽と四方八方からの話し声が互いに干渉し騒がしく自分達の領域を守っている。おかげで多少声のボリュームの遠慮は必要なさそうだ。
しかしそのテーブル席の一角に座る白皙細面の男は一向に本題に入る気配を見せず、大仰な手振りでジュールヴェルヌがどうだのと長々演説し、青い髪を振り乱すばかりであった。
「───で、あるからしてだ。人が「ない」と思えばそれは存在しない。ならば、「ある」と言えばそれは有るんだよ鬼崎クン」
「アガラナイ、禅問答なら他あたれよな」
苦りきった顔でそっけなく全身で興味がないと示す俺に、上良内は困ったように眉をひそめ口元に手をやった。
「仕方ないな。じゃあ手短に言おう
射るような重みのある視線で上良内が告げる。
「ふうん用心棒ね…用心棒!?」
ぼーっと天井を眺めていた頭は確信と共に目を覚まし指令を送り出した。腕が鳴る。血が躍動する。身体は今にも走り出さんと前へ寄る。
「喧嘩か!喧嘩だな!?相手はどいつだ!」
口の減らないこいつのことだ、大方タチの悪い高校生でも小馬鹿にして絡まれあれよあれよと大惨事…という流れが大方予想できる所だが恐れる事はない。腕っぷしなら一番の取り柄だ、歳上だろうが大人だろうが小馬鹿にする連中は必ずぶちのめして来たのだ。それも友人の願いというなら尚更闘志が沸き上が
「鬼崎クン、話は最後まで聞くことだよ」
上良内がそっちのけにさえぎる。
「あ?」
「相手…そう、君が戦う相手はそこらの学生でも大人でもない!」
「おうっ!」
ばん、と机を叩き上良内も立ち上がる。そして人差し指を天高く掲げ━━
「君の相手は……!」
「……!」
ゆっくりと振り下ろされた指が、ぴんと俺の身体を指した。
「妖怪だっ!!」
「任せろっ!!!」
勢いで力こぶを作りアピールしたと同時に、脳がありえない言葉を認識した。
妖怪?
今こいつ、妖怪って言ったのか?
中学2年生にもなって?
いや、なったからこそ言えるのか?
一瞬静止した思考はすぐさま行き場を失った衝動を、溢れんばかりの脱力を怒りへ変換し拳をわなわなと震わせた。「ガキかてめえは」と腹の底から叫びが込み上げる。口元をひくつかせ荒ぶり始めた衝動もまるで気にせず上良内は無言で微笑んでいる。網膜がそれを焼き付け脳が稲妻のようにストレスを走らせ罵声が一気に加速して身体中を駆け巡る。
胃を飛び出し食道を昇り光の矢のごとく一直線に自分の身体を突き抜けんとして今、ギリギリと食いしばった歯が門を開けた!
「オメーなあっ」
「んー、モノノケ、オバケとも呼ぶかな?」
とぼけた顔の上良内を前にその叫びは虚しくかき消え、ため息と共に空へと溶けて行き身体は先程までのように急激に冷めていった。
「聞いてねえってんだよ……」
突っ伏した机から上半身を起こす気にもならない。辛うじて動かす気力がある指がのそのそとトレイの上を歩きポテトを口へ放る。
しかし上良内はお構い無しに口を動かす。
「人生の本質とは未知なるものを踏破する事にある。この世界でもっとも未知なるものは何か、知ってるかな?」
「知るか…どうせ妖怪だろ、要するにお前が言いたいのは…わざわざ何度も何度も夜遅くに呼び出しやがって今度は妖怪と俺を戦わせる?本当お前な……」
「あまり結論を急がないことだよ」
舞い上がった俺の感情は脱力、怒り、と2回ほど宙返りを決め恨み節というマットに華麗に着地した。
ころころと変化を見せ一気に力の抜けた俺の顔を一人の観客は面白がってにやにやと笑うばかりだ。
「ええとどこまで話したか…そう、妖怪だ。━━知られている事はその特性や習性の言い伝えばかり……そいつが実際にどんな形をして、どんな手触りをしているか、その存在は「妖怪」なんて曖昧な言葉で括るものではなく既存の生物なのではないか、どんな身体の作りをしているのか……誰も分かっちゃいないんだよ、おかしいとは思わない?」
言葉の洪水はこちらを押し流さんとする勢いで溢れてゆく。
その勢いに俺は眉根を寄らせ口元を引きつらせてどうにかこうにかしがみつく。
「あー待て、アガラナイ。今なんつったよく聞いてなかったや」
「いいかい?つまりね、僕たちは何も理解をしていないという事なんだ」
「今度は端折りすぎなんだよ!」
「キミって奴は何を言っても文句を言うねえ…」
上良内がため息混じりに呟く。
「…鬼崎クン。君は今僕の事を中学生にもなって妖怪だなんて…って思っているだろう?」
「おうさ、鼻で笑う気力もないね」
「僕もそうさ。妖怪なんか信じちゃいない。いやむしろ信じていないからこそ、キミに力になって欲しいんだ」
「へ?」
あれだけとても真剣な眼差しで語っておきながら、「妖怪など信じていない」とのたまう上良内にボーッと聞いていた俺は思わず間抜けな声をあげた。
「伝説や言い伝えという形でその存在は残っている。けれど、人はその伝え聞いた話ばかりで満足して誰もその妖しく怪奇なるものの真実を知らず、求めようともしない。故に、その存在の先に誰もたどり着いた事はない。それって不思議な気持ち悪さを感じないか?」
「お、おう…」
少しずつ動き出した脳は必死に一文字一文字を噛み砕きながら、なんとか上良内の話に追いついている。奴も奴ですらすらとまくしたてているようで自分の中の衝動を他人に上手く理解できるように言葉を紡ごうと、どこか神妙な顔をしている。
「出された問題文に対してどこまで必死こいて考えても何も答えが用意されていない、だから気持ちが悪い…みたいなもんか?」
「上出来だよ鬼崎クン!そう!僕の夢はね、その答えを何がなんでも見つけ!解き明かす事なんだ!」
右手で小さく丸を作り上良内が嬉しそうに応える。咳払いを挟み、前のめりになった身体を戻し奴は続けた。
「鬼崎クン、ダイダラボッチを知ってるかい?」
「あー…なんだっけ、デカい奴だよな?腕だけで山を作っただの動かしただの八つに割ったとか、足跡で湖を作っただの猟師の前に山よりでかい姿を現しただの…」
「よくご存知だ。それでその作られた湖や山、これがただの土砂崩れや雨によって生まれたものだったとしたら?」
「…まあ、現実的に考えりゃそうだろうがよ」
「よくよく考えてみなよ。「山より大きい姿」なんてのもデタラメ臭い話だろ?」
話に多少興味を示してきたのを感じてか、上良内はますます嬉しそうににやけた。誰もが突っぱねて討論の場に上がって来ない日々を過ごした鬱憤の解放感からか、それとも猿の知能テストをしている学者のつもりか。どちらとも取れるようないやらしさを含んだ笑みに俺は少し引きつつも思考を巡らせる。
「ん…クマを前にして恐怖のあまり慌てて猟師は逃げ帰った、んなもんバレると村の連中に一生舐められるので山より大きな化け物の姿を見た!なんてフカシた、とかか?」
「はははは!鬼崎クンもなかなかいい線行ってるじゃないか!」
なんとなく、こいつのやろうとしている事がはっきりと飲み込めてきた気がしてきた。
なんでもかんでも知りたがる奴だからこそ、一番腹を立てる物は曖昧な情報。
普通の人間が驚くだけ驚いて「ワア凄い」だけで済ませ通りすぎてきた歴史にこいつは中指を立て壇上へ駆け今まさに奇術師へ種を明かせと胸ぐらを掴もうとしているのだ。
誰もが信じていて、誰もが信じていないもの。それを自分たちの手で空想ではなく確かに実在すると証明するために。
「だいたいお前のやりたい事はわかったよ、要するにお前はマジックの種を知りたいわけだ。けどなんで俺まで巻き込む必要がある?」
「は?」
分からないという事が分からない、とでも言いたげに上良内が呆けた口を開ける。
そりゃあ3年生だって高校生だって大人だって気にくわない奴はぶちのめして来たが、さすがに幽霊にまで拳が通るとは思っていない。というか、今の今までそんな発想など無かったと言った方が正しいだろう。
「そうだねえ、荒唐無稽な存在には荒唐無稽な人間をぶつけるものだろ?なんなら祟られても君が身代わりになってくれるしねェ」
「性根ひん曲がりきって折れたのかてめえ」
「僕ほどまっすぐ筋の通った男はいないよ。そこらの将来だとか勉強だとか競争だとかでねじくれた連中なんかよりずっとまっすぐな夢があるさ、ほら!」
何処とも知れず指差した先には、確かな自信と希望が満ち溢れている。それが夢や空想だと笑われても必ず掴み取ってやると言わんばかりに。
その絶妙に人の好奇心を刺激し、ちょっと暇潰しに付き合ってやってもいいかななどと思わせる強引で奇妙なカリスマ性こそがこの男の一番の武器だという事を改めて俺は知った。
さほど思考することもない。どっかの偉いお人もこう言ったはずだ。踊る阿呆に見る阿呆。
迷いの一つも脳裏によぎる事はなく、むしろ気分は派手に高まっている。
「そもそもにして人は疑い続けて発展したようなものなんだ、褒められこそすれ性格が悪いだの夢がないだの言われる筋合いもなければ現実を見ろと思考停止の言葉に一蹴される道理もない。疑うということは人間が持つもっともクリエイティブな精神活動で━━━」
「乗った」
「ん?」
「乗ったって言ったんだよ!俺の相手にするならその辺の学生なんざ小せえ小せえ!妖怪幽霊かかって来やがれってえの!」
上良内は無言でふにゃりと笑って見せ、時計に目をやる。
「ふふ、ちょうど日付も変わった。よし!店出よっか鬼崎クン」
スイと立ち上がりこちらに目も向けず歩きだす上良内に向かって叫ぶ。
「お前、お前お前お前っ!まさかこのためだけにわざわざ何時間ともったいつけてたのか!?えぇ!?」
「一時間と三十分。むしろ君にしては理解が早い方だったんじゃないかい?僕は丑三つ時まで粘ろうと思えば粘れたしね。いやあ苦労したよ、僕と鬼崎クンじゃあおミソの詰まり具合が違うわけだからさ」
「てめぇ今なんつったおい!待てよコラアガラナイ!アガラナイ!!待てって!!!」
得意げに指を口元に当て、夜に溶け込んで行く上良内の後を追って俺は急ぎ店内を後にした。
◆
日付も変わると大半の店は閉まり、人気が少なくなるにつれ少し前の店での喧騒など嘘のように、賑やかな光も遠ざかって行く。
夏場に不似合いな冷たい空気が頬を撫でて、少し背筋が震えた。
数百メートルほど歩く。しかしそこに行くあてのようなものは無く小うるさいファンファーレも無く、沈黙と共に間抜けな行進が続く。
歩く。
歩く。
まだ歩く。
苛立つような靴音が響く。
「ちょっと休ませろや」
力を緩めゆっくりと歩道橋の階段に腰掛ける俺を見て、上良内がきびきびとした足取りを止めた。
「なあアガラナイ、いい加減目的地でもターゲットでもいい。まず目的を教えてくれねぇか」
元より期待はしていなかったがここまで連れ回した先に本当にゴールがあるのか俺はわからなくなってきていた。牽引役を任せるにはこの男はどうにも危険すぎるのだ。道中関係ないものに興味を示して方針がまるきり変わってしまったり、結局飽きてしまったり、数分後には気づけば崖下まで落ちているかもしれない。
「鬼崎クンは忘れっぽいんだなあ」
心底呆れたような物言いだが、そもそも一度たりとも奴が何を探しているのか言及された覚えがない。妖怪幽霊には違いないだろうが。
「言ったじゃあないか。ダイダラボッチだよ」
「は?」
いるわけねえだろ、そんなもん…と一蹴するわけにはいかない。すでに俺は奴の「信じていない、あるはずがないからこそ目を背けずに確かめ証明するのだ」という理屈に乗ってしまっているのだから。
「それにしたって山よりデカい妖怪なんてそうそう出くわす事あるか?」
「あるさ。ダイダラボッチの伝説はこの日ノ出町にも存在しているんだ」
「俺たちの街に?」
「ああ、それも少し違った解釈でね」
ぽつぽつと、上良内が昔話を語り始める。
日ノ出町に語り継がれるダイダラボッチは、他の伝承とは違い明確に悪役として語り継がれていた。
土砂崩れを起こすだけではなく、雨雲を一息で吸い込んで作物を枯らし、村に現れては家ごとひっこ抜いて若い娘を食らうなど、悪行の限りを尽くす妖怪であった。
侍達は徒党を組みこれを討伐せんと立ち上がり数多の屍を積み上げながらこれを討ち取った、しかしダイダラボッチは目を貫かれ腕を切り落とされその身を細切れにされてなお強い怨念で地震や洪水など様々な災いを現世にもたらし続け、村人達はこれを鎮めようとダイダラボッチを供養する墓を作ったという。
「で、俺たちは今からその墓へ向かうってわけ?」
「ちがうよ?」
「はァ!?」
「言ったろ鬼崎クン、話は最後まで聞くことだってさ」
月の光に照らされた横顔は、いつもの張りついたような柔和な笑みではなかった。どこか苦々しく、何かを嫌悪するように夜空を見上げていた。
「ダイダラボッチが山を作った伝承のある土地が7つ。足跡や手の跡を残して湖や川を作った伝承のある土地が4つ…」
「そ、それがどうしたってんだよ」
「その一つ一つの場所で20人の人間が身体をバラバラにされて殺されている」
怪訝そうな視線を受け止める事なく上良内はむっとしながら冷淡に告げた。
「ある者は片腕を取られ、ある者は首、脚、目、腹…切断したんじゃあない。何か強烈な力で引きちぎられたような痕を残して死んでいる。一ヶ月にきっちり20人ずつ殺し終えたら、また別の場所に移動して…」
「それって」
「伝承に乗っ取った模倣犯とは僕も考えたさ。しかし、情報を集めれば集めるほどその可能性は薄まるんだよ。どんなイカれた科学者だってその場で人智を越えた力で人間の身体をちぎって僅かな証拠も残さず立ち去るなんて芸当は難しい。警察だって宙ぶらりんさ」
上良内の声のトーンは変わらずその感情を読み取る事が難しい冷ややかなものだった。理不尽への諦観を滲ませたような、何かに怒りを覚えるような、僕は真実を知っているんだぞ、と滑稽なものを嘲笑うかのような。
「この街で人が死ぬ。いや、もう数人殺されているかもしれない。奴はバラバラにされた自分の身体の代わりを集めて最後の目的地であるこの街にもう来ている…」
「はいッ!はいはい、はーいッ!」
緊張に耐えきれず子供じみた動きで手を上に掲げる。ふと現実に引き戻されたように数秒きょとんとした後、上良内も教師の真似事のようにおどけて俺を指す。
「鬼崎クン、発言を許可しよう」
「そのダイダラボッチが身体のパーツの代わりを欲しがってるとしてだ、人間じゃあちょいとデカさが違うんじゃねえの?」
腕や脚の一部分を切り取った所で、どう考えても身体を構成するだけの大きさにはなれない。部位一つに20人の肉片を合わせたって不揃いな長さの脚をワラジムシのごとくうねうねと動かすみすぼらしいキテレツ千手観音が出来上がるだけだろう。
それはそれでちょっと見てみたいが。
「確かにそこも含めてこじつけるには不可解な所も多いな…悪役扱いしてるウチの地域ならまだしも信仰心がある土地の人間を殺す理由も薄いしねえ」
「なあ、つまりお前一つの根拠以外まったくのノープランで出て来たってことか」
「まあ心配しないでくれたまえよ」
顎に手をやりながらもふざけた調子で応える。何を心配するなというのか。伸び放題の髪をがしがしと掻き毟り、空を見上げる。
上良内もまた腕を組み、思案に暮れながら空を見上げた。
その時だった。
青い火の玉がひょいひょいと夜空を駆けて行く姿を俺は見た。
遠目でもはっきりと分かる、流れ星でも飛行機でもない。現実を打ち砕くように暗い夜空に踊る青い炎は何よりも美しかった。
上良内もそれを確かに視認したようで口を半開きにして見惚れていた。
それを見て俺は即座に走り出した。
「見たか!?」
「見た!霊気探知機も強い反応を示してる…!」
「何だそりゃ!?」
「通販で3500円!」
「安物じゃねえかおい!」
どこからともなくダウジングマシンもどきを取り出して興奮しながら上良内が走る。
青い火の玉はとっくに見失ってしまったが、その消えた先に何かの手がかりがある!
お互いそう直感で感じたからこそ、何も言わずとも奴はその背を追いかけてくれたのだろう。
◆
どれだけ走ったかわからない。どこまで行くのかもわからない。二人並んで夜の街を息を切らせて走り抜ける。だが、互いに言葉は交わさない。ただ一つの違和感に、デカい口を叩きながらも振り向く勇気が無かったからだ。
千鳥足で俯きながらふらふらと歩く気弱そうな中年が目の前に映る。
「っ!!」
急ブレーキが効かず、俺は中年とぶつかり尻餅をつく。
即座に立ち上がり全力で走る。「き、君!」などと呼び止める声がするが謝っている暇はない。
たったひとつの違和感。
到底人間の足音とは思えないザリ、ザリと何かを引きずっているような効果音。それが深い闇夜に紛れて青い火の玉を追いかけて行くうちにいつの間にか俺たちの足音に混じって身体を突き動かしていた好奇心をかき消したのだ。
すぐに上良内の元へ追いつくとザリ、ザリという忙しない音は消えていた。
数秒後。
超音波にも似た男の金切り声が響き俺たちは後ろを振り向いてしまった。
「鬼崎クン…!」
「お出ましだぜ、おい…!」
さすがの上良内も一歩も動けないようだった。それはおそらく、自分も同じである。
暗闇の中から巨大な顔が姿を現した。鼻もなければ目も眉もない。ただ薄く乾いた大きな唇を開け、白く鋭い牙を光らせる。真っ黒い肌の中でぐにゃぐにゃと白い人間の肉が蠢きみるみるうちに皮の一部となった。それが先程ぶつかった男のものである事は誰の目にも明らかであった。
「ダイダラボッチの首…!そうか、パーツの大きさは関係ない!こいつは人をまるごと食って自分の一部に…!」
「考えてる場合か!アガラナイ、逃げろっ!」
乱暴に上良内を蹴り飛ばして遠ざけた。
「君ね、もうちょっとやりようがあるだろ!?」
痛そうに立ち上がりながら上良内が文句を垂れたその時、突如として突き上げるような強い振動が響く。左右に世界を動かす巨大な揺れ。
地震だ━━そう気づいた瞬間、目の前で電柱が崩れ倒れ伏す。
「うわああああッ!?」
何が何だかわからないまま、俺は足を震わせながらも咄嗟に後ろへ避ける。
「き、鬼崎クン…!?」
「大丈夫だ、大丈夫だけどよ…!」
揺れが収まり、俺たちが座り込んだ先に━━━ダイダラボッチの顔がにたりと笑っていた。
それだけではない。先程の轟音と地響きと共にもう二つ、奴の右手と左手が現れたのだ。
どうする?逃げ回るより他にない、奴は自分の身体より何倍も大きいのだ。殴ろうが蹴ろうが敵うはずもない。
手はこちらをじわじわと追い詰め捕まえようと指を折っている。
化け物風情が舐め腐りやがって…!足を震わせながら奴の前に立つ。
「化け物がぁぁぁぁっ!!」
助走をつけて跳び上がり、大きく拳を振りかぶる。
手がそれを待っていたと言わんばかりに飛びかかってきた。
やられる━━━
そう瞼を閉じた一瞬、爆発音が俺の耳を切り裂いた。
俺は宙に浮いている。しかし、その身体を包む感触は違う。
今俺を包んでいるのは、あの腕ではない。
小さく、たくましく、あの巨大な手にしては不思議と優しく感じられた。
二、三度眼球を左右させて見上げた先には金色の髪をなびかせて俺を抱きかかえる少年の姿があった。
「お、お前…!」
「馬鹿げたコトしてくれるよなァ」
上からの目線で吐き捨てながら爆炎の中、少年が降り立つ。
身長は推定170センチ、身に纏った和装からは不思議と現代から浮いた雰囲気を感じさせた。
「おら、いつまで抱っこされてんだ」
「わああッ!?」
急に降ろされ地面の感触が俺の頬に伝わった。
「体感的には3匹か。ったく、めんどいなァ」
青くゆらめく炎の中に蠢くダイダラボッチの左手、右手、頭を指差し少年が不敵に笑う。
その瞬間、激昂するように両腕が握り拳を形作り俺達を押し潰さんと迫る。
「どうすんだよおい!?」
「んなギャーギャー騒ぐなって」
空にかざした小さな札が弾けてシャボン玉のような空間を周囲に形作る。挟み撃ちにしようとしたダイダラボッチの両腕は痺れ文字通りに指一本も触れられずに地面に崩れ落ちた。
残った顔が怒りに大きく口を歪ませ叫ぶ。邪魔をするな、と言っているようだ。しかし少年は冷や汗一つかかなかった。
「ちょっとそこの!」
「ぼ、僕かな?」
物陰から上良内がひょいと顔を出す。
少年は俺をもう一度軽々と抱えると額に白い札を貼りつけ上良内のいる方向へ投げ飛ばした。
「あああッ!?」
「鬼崎クン!」
「そいつ連れて飛んでとっととウチ帰れなァ、じゃっ!」
ダイダラボッチへ向き直り、少年が走り出す。
「鬼崎クン、キミ…今何してる?」
「何って……!?」
信じられないものを見るような上良内の問いにふと気付く。
俺の身体が地面に叩き落とされる僅か数十センチ手前で浮いている。
戸惑いながらも泳ぐように身体を動かしてみると、俺の身体はふわふわと宙を自由に舞った。
「お、俺…空飛んでる…!」
「夢じゃない…ど、どういう原理だ…?」
頬をつねる上良内を抱えて空に舞い上がる。釈然としない所ではあるが、確かにあの化け物は相手にするには次元が違う。文字通りに捻り潰されてしまうだろう。
しかし近くのビルの屋上から見下ろした先で、あの少年は戦っている。
先程の余裕綽々な笑みはなく、焦りを滲ませながら三体の敵を相手に立ち回っていた。
「……あれはいったい何だ?」
一息ついて上良内が呟く。
本来、それを追求し解き明かすためにここに来た筈なのに。
立て続けに襲ってきた不条理を脳が受け止めきれなくなっている。
俺だって同じ気持ちだ。
「お前に分からなきゃ、俺には一生分かんねえよ」
振り向かず応える諦観の声に、上良内は言葉を返さなかった。
じゅっと額が熱くなる。貼りつけられた札が効果を失いつつあるのは自分でもわかった。
俺には勝てない。あの少年にも、化け物にも。
見捨ててしまえ。
このままもう一度滑るように空を飛び全速力で安全な所まで降りて帰路につき、全て忘れ何事も無かったように寝る。それがきっと正しい選択であり、あの少年の願いだろう。あいつが勝とうが負けようが誰にも文句を言われる筋合いはない。「逃げろ」と言われたからそうしたまでだ。
そう俯いた肩を叩く弱い心に、「ふざけんな」と小さく吐き捨てる。
見ろ。あの少年だって今やあの顔から吐き出された黒い液体を避けるのに精一杯ではないか。ほら、避けた先には左手の鉄拳が。吹き飛ばされた先には右手が奴を捕まえる。終わりだ。お前みたいな弱虫が一生かけても敵う相手ではない。
見下ろした先のダイダラボッチの頭が、ふとこちらを睨んでそう言った気がした。
黙れ。
終わってない。
まだ何も始まっちゃいない!
借りを作ったまま素知らぬ顔でありがとさんと日常に戻るなんて誰よりも俺が許さない。
俺は何を求めてここに来た?奴は何を求めてここに来た?
非日常だ!
なのにこんな風に震え上がったままなんて男として、人間として情けないにも程がある。逃げてたまるか、終わってたまるか。ここで逃げたらきっと俺も奴もこの先一生進めない!
だったら、やることは一つきりだ!
「アガラナイ!飛ぶぞぉぉぉ!!」
「へっ?うわああああああああッ!?」
俺は上良内の手を取って暗い闇の中へ飛び込んだ。風を切り裂き、夜を切り裂き、前へ、前へ、深く!
焼けつく額など気にもせず、より高く上昇した後狙いを定め、姿勢を変えて━━━━━
「アガラナイ!足出せ、足ぃぃぃぃぃっ!!」
「わああああああああああっっ!!」
燃え尽きる瞬間、流れに逆らわず━━━蹴り込む!
「俺は負けねえっ!コケにされたまま!!終わってたまるかぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!!!」
急降下の勢いに任せて、二人の踵がダイダラボッチの顔面を深く抉り取る。同時に右手が少年の拘束を解き、左手が苦しみだす。
しっかりと大地を踏みしめ思い切り指を振り下ろし、人体模型のような姿を晒して悶える顔面に決めの台詞をかます。
「へっ!化け物野郎!どーだっ!鬼崎はるか様を舐めんなぁぁぁっ!」
「痛みが連動している…と、いうより彼らは独立した存在ではなく三体揃ってれっきとした一つの生命体と考えた方が正しいか。いや、それよりもあいつ…さっき人間の肉体を取り込んで無理矢理自分の一部へ変えてたけれど、あれは完全に馴染みきっていなかったんだ!その脆弱な部分を突けば…!」
かたや空から降ってきて蹴りを入れたかと思うと妖怪に思い切り啖呵を切り、かたやまじまじと眺めながらあれこれ喋った後こちらを振り向き期待を込めた視線を送る男。倒れたままの少年はあっけにとられた様子だったが、すぐに起き上がり二人をかばうように前へ出た。
「帰れっちゅーたろうに、ったく…つーかさァ、わざわざあげた呪符をあんな使い方するとかあんたら正気ぃ?本当めんどい連中だよなァ」
まとめて補食しようと怒りに任せて飛びかかる顔、両脇からは腕が迫る。
しかし少年はありったけの呪符を大きく開いたダイダラボッチの口と傷痕へ放り、一気に起爆させた!
「けどまァ、助かったかな……!」
飛び散る肉片と青い火の粉をニヤリと睨みつけ、少年は袖で汗を拭き、「ふぃ」と一息ついた。
「ん、アガラナイお前…こんな風に爆破しちゃったら生態なんざ調べられねえんじゃねえの?」
緊張の糸がぷつんと切れ、俺は大きく伸びた後疑問を呈した。自分でもこのタイミングでほざく事ではないと思うが、きっと奴にとっては重要な事だろう。一応聞いておく必要はある。
「しまった」、と上良内が額に手を当てる。
「うーん…これじゃあ記録のしようもないなあ。キミぃ、もっと出来るだけ苦しめた後生け捕りにするとか出来なかったのかい?」
「できるかァ!!」
少年が怒鳴りつける。ごもっともだ。電気ネズミでもあるまいに。
「しかし不思議な術を使うんだねえ、陰陽師ってやつかい?キミの事をもっと知りたいな、あの青い火の玉もキミか?あのダイダラボッチについて知っていることは?」
ますます詰め寄る上良内に少年は困り顔を浮かべこちらに救いを求める。
こういうやつだ、我慢しろと首を振って応えておく。
「うげ、青い火の玉ってお前、見える人だったワケね…つーかダイダラボッチって何?アレ黒坊主だろ?」
困惑しながら告げられた言葉に、俺たちは凍りついた。
あの化け物はダイダラボッチではなかったというのか?
「最近きな臭えからお前らあんましこんな時間に外出んなよなァ、じゃ!」
俺たちが驚いている隙を突いて少年は青い炎を纏って空へと舞い上がり去って行く。
黒坊主。確かに彼はそう言った。
思えば俺たちは恐怖のあまりそれを完全に身を分かたれたダイダラボッチの一部だと思っていたが、上良内の話していたバラバラ死体と今回まるごと身体を噛み砕かれて殺された男性の死に様はまったく一致していなかった。
では数多くの地域を移動してこの街へ訪れようとしている殺人鬼は?
居心地悪い事この上ない空気の中、俺は上良内を試すように提案した。
「行くか?ダイダラボッチの墓」
「…君がどうしてもって言うなら行くけれど、今日はやめといた方が良いと僕は思うな」
言い出しっぺはお前だろう。口を尖らせながら見上げた夜空で、流れる大きな雲が俺たちを嘲笑っているようだった。
あさっぱらから探偵団 猛忍組 3806 @yayoi3806
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