A New World
「あら、
都内某所の大学、その3階の一室に、
鮎喰の言葉を受けて、室内に居た西麻植が、PCのモニターから視線を外すことなく、気だるげに「ん~」と答えた。室内には西麻植以外の姿はなく、窓から差し込む日差しが退屈そうに部屋を照らしていた。
「この時間に居るの珍しいですね」
そう言って鮎喰は、コンビニの店名が印字されたビニール袋を、自分の机の上に置き、PCの電源を入れる。どの大学も不景気なのか、或いは単に彼女らの資金不足なのか、鮎喰のPCは大きな排気音と振動を抱えてのんびりと起動を始める。
鮎喰のビニール袋を横目で見ていた西麻植が、鮎喰に向かって「私のは?」と問う。
「無いですよ。まさか西麻植さんが居るとは思わないし……」
淡白に鮎喰が返すと、西麻植は軽いため息と共に後頭部を掻き毟る。
「常にあらゆる出来事を想定して動けるのが、優秀な人間だとは思わないかい?」
西麻植は再びPCに視線を戻し、キーボードをリズミカルに叩く。
「流石にそこまで想定して動けませんよ。エスパーでもあるまいし」
ガサガサと袋からパンを取り出しながら鮎喰が返す。
「そう冷たくあしらわないでくれよ。ちょっとした冗談じゃないか。キミの言う通りそれができる人間なんてそういないよ。だからこそ私はこんな時間までこいつと睨めっこしているんだから」
言いながら西麻植は立ち上がって背筋を大きく伸ばし、部屋の端っこにあるコーヒーメーカーへと足を運ぶ。
その姿を見て、鮎喰は食べようとしていたパンを口元で止めたまま「もしかして」と口を開いた。
「西麻植さん昨日からずっと居るんですか?」
若干引き気味の鮎喰の問いに対し、西麻植は平然とした態度で、「そうだよ」と答えた。
「嘘でしょ……え?じゃあ今の今までずっと作業してたんですか?」
「まぁちょこちょこ休憩はしてたけどね」
「食事は?」
「摂ってないね」
「昨日から?」
「昨日から」
「……食べます?」
コーヒーをマグカップに注ぎながら、淡々と答える西麻植に対し、鮎喰は口元からパンを外して、西麻植に向けた。
「ふふ、優しいね」
コーヒーを飲み、窓から外を眺めながら西麻植は「でもその必要はなさそうだ」と続けた。
「お腹空いてないんですか?」
パンを咀嚼しながら鮎喰は聞く。
「空いているよ。とってもね。でもほら」
西麻植が窓に向かって指を指す。視線の先には広場があり、小さく見える一人の男性が、広場の端に佇む喫煙所に入ろうとしていた。
「どうしました?」
鮎喰は立ち上がり、西麻植が示す方向を見る。
「彼と食べてくるよ」
「彼って?」
鮎喰が窓の外を見る頃には、男性は既に喫煙所へと姿を隠していた。
「友達だよ、私のね」
「へぇ~、西麻植さん男性の友達居たんですね」
「……その遠慮のない物言い、私は嫌いじゃないよ」
自分の机に戻り、パンを貪る鮎喰を見て、西麻植は僅かに口角を上げた。
「彼とは喫煙所でちょくちょく会っててね、つい最近話しかけてみたら意気投合したってわけさ」
空になったマグカップに、少量コーヒーをつぎ足し、西麻植は窓を開く。初夏の生暖かい風が室内を包んだ。
「へぇ~、西麻植さんから話しかけたんですね。意外でした」
「そう?」
「えぇ、だって西麻植さん社交性皆無じゃないですか」
「失礼が留まることを知らないねぇ」
食べ終わったパンの包装紙をビニール袋に詰め込む鮎喰の姿を一瞥して、西麻植は窓を閉めた。
「で、好きなんですか?」
マグカップを片手に佇む西麻植に、鮎喰は問う。
「何が?」
「何って、その彼の事ですよ」
鮎喰はにやけながら西麻植を見る。西麻植はほんの少し間を置いてから「黙秘する」と返した。
「それもう正解だって言ってるのと同じじゃないですか?」
笑いながらそういう鮎喰に対し、西麻植はバツの悪そうな顔で自身の机に座る。マグカップのコーヒーを飲み干しながら「別に好きとかじゃなく気になってるだけだから」と鮎喰に向かって訂正の言葉を投げたが、鮎喰はそれを「はいはい」と受け流した。
「行かないんですか?」
机に座りなおした西麻植に、鮎喰が聞く。
「ん?ああ、まぁ、ね」
鮎喰の問いかけに対し、西麻植はもぞもぞしながら返した。
「……ビビってます?」
「え?何?もしかして私が誘う勇気がなくてビビってると思ってる?そんなわけないじゃないか」
「図星中の図星ですね。いつもみたいに飄々と誘えばいいじゃないですか、ごはん行こうって」
「簡単に言ってくれるね」
「いや、簡単な事ですし」
「そうだけど……」
俯いて手遊びをする西麻植を見て、鮎喰は自身の引き出しから消臭スプレーを取り出し、西麻植に吹き出し口を向けた。
「どうせシャワー浴びてない事を気にしてるんでしょ、ホラ」
シュッシュッと、2度西麻植に吹きかけ、鮎喰はスプレーを仕舞う。空中に霧散した霧は、日光に照らされキラキラと光って、やがて消えた。
「デリカシー……」
一連のスムーズな流れに対し、西麻植は小さく呟く。若干赤らんだ頬を隠すように、口元へ着ている服の袖を持っていった。
「ほら、これで大丈夫ですよ。というかそんなに気にしなくても西麻植さんは普段から割といい匂いなので問題ないと思いますよ」
鮎喰の言葉を受けて、西麻植は仏頂面で「ありがとう」と答えた。
「早くしないと彼喫煙所からいなくなりますよ。私もやることがあるので早く行ってください」
払いのけるジェスチャーをしながら、鮎喰はPCのモニターへ視線を移した。
鮎喰の言葉を受けて、西麻植は立ち上がり入り口付近へと向かう。
「ねぇ」
ドアの前で立ち止まり、西麻植が呟く。
「まだ何か?」
キーボードを打つ手を止めることなく鮎喰は返す。
「これデートだよね?」
「まぁ食事に行くだけですけど見様によってはそうかもしれませんね」
「なんかプランとかあった方が――」
言いかけた西麻植の言葉を「そんなもの」と鮎喰が遮った。
「無くてもいいんですよ。西麻植さん」
モニターの横から顔を出して、鮎喰はにっこりと西麻植に微笑む。
「……そうだね。行ってくるよ」
「はい」
勢いよくドアを開けて、西麻植は廊下へと歩き出す。
遠ざかる足音を聞きながら、鮎喰は一言「私も煙草吸い始めてみようかな」と呟いた。
World World World 赤鐘 響 @lapice
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