番外編 01 どん底に落ちたマリア
涙はとっくに枯れ果てたのに、世界はぼやけて見えた。
ここが何処だか分からない……私はいったい何者だったのか……。
いや、もう、私は何者でもない。
そうだ、もう、私は誰でもない。
私はお嬢様の信頼を失い拒絶された。
私には何もなくなった。
そう、始まりはあの日、お嬢様は頭を強く打たれて気を失ってから人が変わられた。人を寄せ付けないお方が、急に社交的になり、下々に気を遣われるようになられたのだ。
記憶を失われたお嬢様からは、残酷さのカケラも見えず、なんて寛大になられたのだろう感心していた。ただ同時に私の中で違和感と不安を感じていたのも事実だった。
このお方は本当に私の知っているお嬢様なのだろうか、と。
そして、その不安と違和感は次第に大きくなり、数日もすれば私の中では確信めいたものへと変わっていった。姿は同じであれど、このエリザベートお嬢様は私の知る以前のお嬢様とは違うのだと。
お嬢様が記憶を無くした事とは別に、その行動、言動や仕草はもはや別人の域だったのだ。
記憶を無くされる前のエリザベートお嬢様にはいつも鬼気迫るものがあった。ピリピリとした空気を纏い、近づく者は全て食べてしまうような、そんな美しくも残酷な狂気をお持ちだった。そして私は、少なからずその狂気に魅了されていた。お嬢様の周囲は恐怖で満たされ、それは私にとっての日常だった。
そんなお嬢様が別人のように変わり、今では私にも気を遣われているのだ。戸惑いを感じると同時に私の存在価値はもう無くなってしまったのではないかと、寂しさも感じていた。
もう、あのお美しく残酷なお嬢様はいないのだと。
それでも、今のお嬢様に私が落胆している事を知られる訳にはいかない。例え私の知るお嬢様でなくても、私の目の前にいらっしゃるお方は、紛れもなくエリザベート・メイ・ステイン様なのだ。人格が変られたからといって、私のお嬢様への忠義は変わる事はない。私の個人的な感情など、今のお嬢様に知られてはならない。そもそも己の感情など、どうでもいい事だ。今は、目の前のお嬢様をしっかりお支えしていこう。そう心に言い聞かせていた。
しかし、そんな私の感情とは裏腹に、すぐにお嬢様の身体に異変が起きた。
王都へ着いて、ステインのお屋敷へ入られたお嬢様が、姉上であるカトリーヌお嬢様とばったり対面した瞬間、急に顔色が変わった。
それを見た瞬間、私の背筋にゾクリとしたものが走る。お嬢様が放つ狂気に己の感情が昂るのが分かった。
自然と溢れる期待感からお嬢様の背中を凝視していると、お嬢様はカトリーヌお嬢様の頬を打ち、倒れたカトリーヌお嬢様の頭を踏みつけた。
あぁ、この姿こそエリザベートお嬢様だ。
私は感動に打ち震えていると、すぐにお嬢様の声が私を呼ぶ。
「マ……マリア!!」
応えは勿論決まっている。
「はい、お嬢様。分かっております。執事は人を呼びに行きましたが、まだ時間はございますので、ご存分に」
頭を下げた私に、満足そうに笑ったお嬢様は、カトリーヌお嬢様の頭を更に強く踏みつけ始めた。泣き叫ぶカトリーヌお嬢様は、謝罪を繰り返しながら、次第にお嬢様の噂を流したことを認めはじめた。
すると、お嬢様の雰囲気がガラリと変わり、周囲に放たれた恐怖はすぐに消えた。カトリーヌお嬢様から足をどかし、労り始めたのだ。
あぁ、また別人のお嬢様に戻られた、そうすぐに理解した。
それでも、私の胸の高鳴りは止む事はなかった。私が長年お仕えしてきたお嬢様はちゃんといらっしゃったのだ。別人のようになられたお嬢様の中できっと眠られている、そう納得していた。
それからのお嬢様は、度々その狂気の片鱗を見せる事があった。私はそのことが嬉しく、子供のようにはしゃぐ心を見透かされないよう隠した。
そして、ついにその時が来た。
カトリーヌお嬢様がグエン殿下を殺めたのではと噂される中、学園へ向われた日。
お嬢様が学園から戻られた時は、本当に驚いた。お嬢様のお姿は酷くズタボロだった。そして一緒にいたカトリーヌお嬢様も同じようにボロボロで怪我をされていた。
慌ててお嬢様へと駆け寄ったが、自然と足が止まる。お嬢様が纏う空気はピリリとし、周囲に恐怖を与えていた。そしてその目には懐かしい狂気が宿っていた。
ああ、これはあのお嬢様だ。私はその瞬間、心が震えた。
今までその片鱗としてしか現われる事が無かったお嬢様が、今目の前にいらっしゃる。眠ることもなく、周囲を睨みつけている。
歓喜に震えるその喜びを悟られないように、私は静かに頭を下げ、お嬢様の指示に従った。
それからの時間は幸せでしかなかった。お嬢様は見事な手捌きで、庭師を名乗る男の首を切った。飛び散る血をうっとりと見つめるそのお姿は鳥肌が立つような美しさだ。
そして私の高揚感はさらに高まっていた。驚くことに、ただ残忍なお嬢様ではなかったのだ。以前のお嬢様は、短絡的で、欲望のままに行動される事が多かった。しかし、今のお嬢様は、狂気を宿しながらも知的で、計画性があったのだ。更に言えば、お嬢様の知識が私の考えも及ばない、底知れないものとなっていた。王族や貴族が信仰するカミはもしかしてお嬢様なのではないかと思うほどだ。
美しいエリザベートお嬢様は容赦なく、学園で牙を剥いた生徒にすぐに報復した。とても楽しそうに、恍惚としながら報復する姿は懐かしくもあった。そして残忍でありながら手際の良いお嬢様の行いに、私は喜んで己の力を全力で使った。それは本当に久しぶりだった。
お嬢様は前のように感情で理性を失うことは無かった。ただ殺戮を楽しむだけでなく、そこには何か計画性があるように見えていた。
鼻歌を歌いながらリリー嬢の体に丁寧に針を刺していくお嬢様に、私は思わず聞いていた。
「お嬢様、これは一体何を?」
「ふふふっ。マリア、貴女も知っているでしょう? 悪魔の存在を」
「悪魔ですか? 以前お嬢様がご自身は悪魔だと仰られた、あの悪魔ですか?」
「えぇ、そうよ。その悪魔。悪魔は美しく残酷で残虐なの。私にピッタリでしょう? そして貴族はね、神を信仰しているの。神は救うもの。悪魔とは対比の存在ね。でもね、悪魔も神も架空のものだから実際には存在しないのよ。でも私はここに悪魔を存在させようと思っているの」
「存在しないものを存在させるのですか?」
「ええ、その通り。そもそもこの国は馬鹿だと思うの。何故、神を貴族の特権に使うのかしらね。それでは、何の意味も無いのに」
「そうなのですか? しかし平民は関わっていけないものでは?」
「ふふふ、マリア、本来最も神を必要とするのは平民なのよ? 救いを多く求める平民の方が神は深く浸透するの。それが信仰。そしてそれを操るのが貴族や王族。それなのに平民を容易くコントロールできる神の信仰を何故、平民に禁止するのかしらね? ほんと、馬鹿だと思わない?」
「では、お嬢様は……」
「そうね。手始めに神に相反する悪魔の存在を実際に作るの。事実と虚構を混ぜれば、人々は信じやすくなるわ。特に悪魔は恐怖を司る存在。危機管理の鋭い人々ほど、浸透しやすいでしょう。特に、害ある噂は広まるのが早し、悪い出来事は勝手に悪魔へと結びつけていくでしょうね。そして、悪魔の存在が広まれば、その反対の……」
「神、ですか」
「そう。救いを求める人々は神を信じやすくなる。そして、悪魔を止められるのは神だけだと言えば皆が神を求めるわ。それを貴族だけではなく平民に浸透させるの。手始めは貴族街からだけど、悪魔の噂はすぐに平民にも広がるでしょうから、そしたらもう…ね? ふふふ。リリーちゃんには悪魔の存在を皆に信じてもらうために生贄になってもらうの。全身針だらけ、この異様な姿は悪魔の儀式にピッタリでしょう? 皆んなきっと驚くわ、楽しみね。ふふふ」
その時私は、お嬢様の底知れない計画に心を躍らせていた。そして私がお嬢様の偉大な計画に加えてもらえること、そんなお嬢様の隣にいられることに、心から幸せを感じていた。
屋敷へ戻る時、お嬢様は私に言った。
「ねぇマリア、もう気づいているでしょう?」
「何についてでしょうか」
「私についてよ」
「……」
「ふふふ。あら、本当に素直ね。でも、マリアの考えは正解。簡単に説明すると今の私と、記憶を失った私とは人格が違うわ。今の私の行動はきっとエリッサは覚えていない。だからそのつもりで接して頂戴。マリアには苦労を掛けるけど、今後の動きを伝えておくわね。私を、エリッサを上手く導いてちょうだい」
「私が…ですか」
「そうよ? だって私が頼れるのはマリアだけですもの。でも、きっと楽しい事になるわ」
「お嬢様は、もしかして今起きている王族の事も……」
「ふふ、今この国は隙だらけ。ステインに牙を向く相手が誰であろうと容赦はしないわ。そしてそれが王族でしょう?」
楽しみだとクツクツ怪しく笑うお嬢様に、私は思わず微笑みながら頷いていた。
でも、それからすぐに私は失敗した。いや、失敗というより、結果的にお嬢様を裏切ってしまったのだ。
お嬢様の指示により別行動で王都からバストーンへ移った私は、デンゼン様の所有している書類や書籍をすぐにバストーンの屋敷内へと運ぼうとした。
丁度、屋敷の中からは慌てた様子でお嬢様が駆けてくる。
その姿を見た瞬間、優しげに私を出向かうお嬢様様を目にし、私はお嬢様が変わられたのだと理解した。そしてその途端、私は明らかに落胆したのだ。今のお嬢様は嫌だ、冷酷で残忍なお嬢様が良いと、そして、優しいお嬢様などいなくなれば良いのにと、そう願ってしまった。
それは主人に対して、侍女としてあってはならない事だった。
きっとそれが顔に出ていたのだろう。
私に駆け寄ったお嬢様と目が合った途端にお嬢様の足は止まり、不安と悲しみが混じったようなそんな顔をされていた。
気づいた時にはもう遅かった。お嬢様の部屋に入り、私はお嬢様に答えを求められた。お嬢様が違う人格である事を知っている、それについて私は嘘はつけない。勿論弁明もした。けれども、お嬢様はただ悲しそうな顔で、その顔のまま静かに私の解雇を告げたのだ。
私の頭は真っ白になった。お嬢様はただ寛容なだけでは無かった。私の心の内を見透かし、私の裏切りをお嬢様は許さなかったのだ。しかし、それは当然だった。私はお嬢様を裏切ったのだ。
それからの記憶はもう覚えていない。フラフラと歩き、お嬢様の面影を探しては絶望感が押し寄せる。その繰り返し。私の世界は真っ暗で、すでにここがどこなのかも分からなかった。
ふと、酷い匂いと男達の声がぼんやりと聞こえ、少しだけ意識が浮上した。けれどもその時には自分の身体を動かすことも億劫だった。視界はぼんやりとしか見えず、何をされているかも何も感じない。度々殴られる痛みさえも何処か他人の身体のように感じた。
「コイツ、本当に何にも反応しない女だな。流石にもうつまらないぞ、このデク人形」
「モーデ。もっと殴ったら泣くんじゃねぇか?」
「いや、散々殴ったが、ダメだった。また気を失うだけだろ。それに顔が腫れすぎてそろそろ萎えてきたしな」
「ククッ、確かに。でもコイツ、こんなボロ雑巾みたいな癖してあのステインの侍女だろ? 持ち物にステイン印の紹介状があったらしいじゃないか。ほんと、ざまぁないな。すでに没落寸前だが、いいきみだ」
……ステイン
あぁ、そうだ。私はお嬢様を裏切った。あの悲しそうな顔が忘れられない。私は罰せられるべき人間だ。私は罰を受けるべき人間だ。
グイっと髪を掴み上げられる感覚に痛みは感じない。クツクツと笑う男の声だけが妙に頭に響いた。
「オラ、起きてっか?」と髪を掴みながらグラグラと頭を揺さぶられる。ブチブチと毛が抜ける音が気持ち悪い。
「この女、使い物にならなくなったら、ステインの屋敷の前にこのまま捨ててやろうか。ステイン家の、貴族のヤローどもどんな顔するか見ものだな」
いやだ…それは、ダメだ…嫌だ。私を好きにするのはいい。だがステインに、お嬢様にこれ以上迷惑はかけたくない。
「……ろ…せ」
「お? この女、何か言ったぞ」
「……私を殺せ」
その瞬間、モーデと呼ばれた男がケラケラと笑いながら思い切り私の頬をぶった。
「殺すわけねぇーだろ。馬鹿が」
ぶたれた勢いで、視界が反転した。その視線の先にあったフォークに思わず目が止まる。私はフォークを咄嗟に取ると自分の首めがけて突き立てた。ザクリと刺さった感触はあれど、深くは入いらない。手元を見れば己の手はモーデに止められていた。
「だぁかぁらぁ、そんな簡単には死なせねぇよ? それよりお前、元気あるじゃねぇか。まだまだ遊べそうだな。そんなに死にたいならゆっくり殺してやる。そうだな、まずは手足を折ってやろうか? せっかくだ。ついでにこのフォークで全身刺してやるよ。泣き叫べ。反応がないよりずっとマシだ」
するりと簡単にフォークを奪われると、血に濡れたフォークの先は、私の太ももへと突き立てられた。
痛みはやはり良く分からなかった。
その後、私はうわごとのように何度も殺してくれと頼み、その度に何度もぶたれフォークを突き立てられた。ただひたすらそれを繰り返し、楽しそうに笑う男の声の中で結局私は意識を手放した。
次に気づいた時には、知った顔のエルフレットが何故か苦しそうな顔で私を見ていた。
「お嬢様が心配されていた。マリア、君を探すのに苦労したんだぞ」
「……お…嬢様が?」
「あぁ、そうだ。この部屋にいた男達は逃げていってしまったが、とりあえずもう大丈夫だ。にしても随分と酷い……」
「だめ……エルフレット、私を殺して。私をすぐに殺しなさい!」
エルフレットに抱えられ何処かへ運ばれる浮遊感をようやく理解し、私は体をバタつかせ抵抗した。
「ちょっ! 大人しくしろ! それに何を馬鹿な事を言うんだ。君を殺す? そんなことしたら、私がお嬢様に殺されてしまう」
「でも、私は」
「いいか、マリア。良く聞きなさい。お嬢様は君を心配しているんだ。まずはお嬢様に会ってから今後について考えなさい。どの道この身体の傷でお嬢様に会わせることは出来ない。まずは体を癒さねば」
「なら、死なせて……」
「っ…だから、何度も言わせるな。君は私も殺すつもりなのか? 悪いが私はまだ死にたくはない。いいかい? 私は君の意思に反対するつもりはない。だから逃げる必要もない。ただ君が死ぬのはお嬢様に会ってからだ。それとも君は、君に会いたいと仰るエリザベートお嬢様を裏切るのか?」
裏切り、その言葉に私は小さく首を振る事しか出来なかった。
エルフレットは深いため息を吐きだし、私をしっかりと抱えなおす。
「マリア、とりあえず君は今、何も考えるな。何も考えず目を瞑って、ゆっくり呼吸をするんだ。いいね? 呼吸を繰り返す事だけ考えなさい」
「呼吸……」
呼吸、私は言われた通り深く呼吸をした。
そしてただひたすら呼吸を繰り返した。
……それからどれくらいの日が繰り返されたのか、意識の薄い私は一瞬夢かと思ったが、私の目の前には、やつれたお嬢様の姿が浮かび上がっていた。私の視界はどんどんぼやけ、滲み出していく。
その日は、私にとって一生忘れることの出来ない出来事になった。
※
「ベンケの旦那、ここですか? アガサの町ってのは」
「ああ、そうらしいな。まずは、オジョウの大切な侍女さんを痛めつけた奴を探すぞ」
「へい、でも侍女ですよね? バストーン邸を襲撃した兵の家族を探すのが先では? 侍女さん痛めつけた奴、顔知らないんでしょう? 探すの大変じゃねぇっすか? 兵士の家族探す方が早そうですけど」
「オラもそう思ったが、オジョウが先にそいつらだとよ。どうやら、オジョウの逆鱗に触れたようだな。この世に生まれたことを、ことごとく後悔させろと」
「へぇ……」
「じゃぁ、まぁ遠慮なく暴れるか」
ベンケはそう言いながら、二カっと笑うと、アガスの町へと入って行った。
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