No.52 ジョゼフィーヌ回想録三


 王宮に入り一月が過ぎた。王宮の生活は未だに慣れない。

 クリスティーナ王妃やデン様のお世話をするものだと思っていたのに、お二人に会うことはあまりなかった。クリスティーナ様はほとんど隔離されているような状態だし、デン様は乳母によって会う時間を決められていた。しかも、運悪く私が王宮に入ってからますますクリスティーナ様の容態は悪化してしまっているらしい。


 一緒に王宮に入ったイデアも、王宮の生活が体に合わないのか、体調を崩すことが多くなり、あまり会えていなかった。元々体の線も細く体質的にも弱かったイデアは環境の変化と緊張からか、負担が一気に身体へと表れたのだろうと医師が言っていた。


 ただ、それでもイデアは王宮を出ることはしなかった。私を一人残しては行けないと、王宮を出るときは、必ず私と一緒なのだと言って聞かなかった。最後に会った時、やせ細ったイデアは私に微笑んでいた。心細い気持ちも確かにあった私には彼女の言葉がとても嬉しく、そして何よりも勇気をくれていた。


 王宮では、三日に一度コルフェ陛下と夕食をすることが決まっている。もちろん私と陛下だけでなく、他の宮中の方、貴族の方々、将軍などさまざまな人と交えての夕食だ。時々、デーズもその夕食に顔を出していたが、私と目を合わせることなく、口も利いてはくれなかった。


 宮中での私の役割は殆どなかったが、時たま、クリスティーナ王妃と会い、身の回りのことをお手伝いすることもあった。そして、それが私の唯一の役割だった。



 その日は珍しく、王妃の容態が良いからと、私は午前中からクリスティーナ王妃に呼ばれていた。


 ベットに腰掛けながら、優しく微笑む王妃は小さな声で言った。


「ジョゼフィーヌ、もしかして陛下はまだご機嫌が悪いのですか?」


 その言葉に私は思わず苦笑する。


「ええ、陛下とお会いするのは三日に一度の夕食時だけなのですが、いつも眉間にシワを寄せ無言で食事をなさっていますよ」


「そう。ほんと困った人ね。もしかしてお酒を多く召し上がってはいませんか?」


「そうですね。食事の最後は決まって酔いつぶれています。よっぽど妃殿下に会えないことが寂しいようですよ」


「ふふふ、陛下はただの子供よ」


「陛下とお会いしないのですか?」


「私も会いたいのだけど、今は殿方との接触は禁止されているの。邪気が取り付くからダメなんですって。本当はデンにも会いたいのだけど……。

ジョゼフィーヌ、息子のデンは元気にやっていますか?」


「ええ、元気です。乳母のマドレーがデン様を溺愛していますよ」


「マドレーは私の侍女だったの。きっと孫のように思っているんだわ。デンが皆に愛されているのなら何より、私も健やかな気持ちで逝けます」


「何を仰るのですか。クリスティーナ様、いけませんよ」


「ジョゼフィーヌありがとう。でも、いいのよ。私の体が、もう、どうにもならないことは私自身が良く分かっているの。さっき、邪気が私に取り憑かないようにと言ったけれど、本当はね、逆なのよ。私はすでに邪気に取り憑かれてるわ。間もなく死ぬのは私の方。だから陛下が私に近づき、陛下までもが汚れてしまうのでは、と周囲はとても心配しているの。でも、その心配は分かるわ。だって私も同じように心配だもの。だから、私は陛下に会わない。次に会うのは、私が死んでから。陛下にはこの国と共に、いつまでも健やかにいてもらいたいのです」


「そんな……それではクリスティーナ様があまりにもお辛いです」


「ふふふ、そんな事ないわ。私は幸せよ? だって、デンが皆に愛されているんですもの。デンの星名も、もう決まっているの。カミール。カミール・デン・クレイン素敵でしょう? あの子の星名を授けられる五歳まで、私は生きられない。でもいいの。私は十分幸せです。でも陛下は……陛下は大きな子供だから。誰かが陛下を慰めなくてはね」


 クリスティーナ王妃は優しく微笑みながら、私の手を握って続けた。


「私がいなくなった時、貴女が、陛下をお慰めしてはくれませんか? 貴女の知性と包容力で陛下を安心させて欲しいのです。もう、私には陛下を抱きしめることは叶いませんが、貴女なら……貴女ならこの国の母になれます。どうか陛下をお頼みします」


 クリスティーナ様の突然の言葉に私は何も返せなかった。


「困らせてしまってごめんなさいね。でもジョゼフィーヌ、返事はしなくていいのです。これは単なる私の願望。少しだけ心に留めて置いてくれるだけで良いのですよ」


「クリスティーナ様……」


「貴女の良いところは、そこで戸惑うところね。ステイン家の方なのに、貴女には嘘がないように見えるわ。陛下はね、貴女みたいな女性がお好きなんですよ」


「私が? いつもからかわれてばかりですよ? 顔もいつも怖い顔ですし」


「ふふふ、あの人らしいわね。最初は私に対してもずっと仏頂面だったわ。いつも偉そうにしてたのよ?」


「クリスティーナ様にもですか? 信じられません。 最近は兄のデンゼンも陛下に習うとかで私に対して威張り散らしてくるのです。だから私、殿方は苦手です」


「ふふっ。陛下とデンゼン公は凄く親しい友人ですからね。良い関係です」


 そう言って、クリスティーナ王妃は窓の外を眺めた。その眼差しは何処か悲しげに見え、切なくなる。何か言葉をかけようかとも思ったけれど、結局何も浮かばず、共に窓の外を眺めるだけだった。


 それから三日後の事だ。容態が急変したクリスティーナ王妃が亡くなった。死に目に会う事さえ許されなかったコルフェ陛下は、荒れに荒れた。静粛な場である王妃の葬儀でさえも、コルフェ陛下は飲み続けたお酒のせいで泥酔しながらだった。


 クリスティーナ王妃が亡くなってから慌ただしく過ぎていった日々も、少しずつ落ち着きを取り戻していったが、私はまだ王宮に留まったままだった。理由は遺言みたいに残した彼女との会話が心に残っていたからだ。ただ、それでも陛下をなだめることも慰めることも私には出来なかった。それ程までに陛下の心は閉ざされ、誰も人を寄せ付ける事を許さなかった。


 そんな日々が続いていたある日の夕食会の時。その日は珍しく陛下はお酒を飲んでいなかった。ただ、その時の瞳は恐ろしく鋭く、明らかに何かが可笑しかった。  



 今思えば、その時、薄々感じていた身の危険を信じていれば良かったのかもしれない。いいえ、違うわね。その前から……クリスティーナ王妃の容態が悪くなったと聞いた時には王宮を出れば良かったのよ。己の判断を怠り、ただただ、周囲に身を任せていた私は本当に愚かだった。王宮を軽く考えていたの。


 あそこは恐ろしい場所だと本当の意味で知らなかった。いえ、私は知ろうとしていなかっただけね。



 その夕食会で事は起きたわ。


 私は夕食会の席で、陛下と目を合わせないようにずっと下を向いていた。陛下の前に食事が並べられ、ワインが注がれた時。


ーーーーガッシャーン!


 突然、食器が割れたような音にビックリして視線を上げると、陛下は立ち上がり、拳を強く握りしめていた。

 陛下の足元の周囲には、料理が散乱し、食器も割れて散らばっていた。


 皆が呆然としながら、陛下に注目していると、顔を上げた陛下は私をキツく睨みつけた。


「お前がクリスティーナを殺したのか?」


「え?」


 突然投げかけられた言葉の意味が分からず、だだ、びっくりして反射的に立ち上がる。

 ガタリと椅子の音が響く中、コルフェ陛下はそのままゆっくりと、私の方へと歩いてきた。


「お前が王宮に来てから、クリスティーナは急速に弱り、仕舞いには亡くなった。何故だ!?」


 私は陛下の言葉が理解出来ず困惑し、助けを求め周囲を見渡した。でもその時、誰とも目は合わなかった。皆んな明らかに私を見ないように目を逸らしている。


「へ、陛下。どうかお気をお沈めください。誤解です」


「うるさい! 黙れ!」


 陛下の目は血走り、私に対しての敵意、憎しみが込められていた。私の髪を思い切り掴むと、引っ張りながら私を床に叩き付けた。


「っきぁっ!」


 何も出来ない私は、その場に倒れただ蹲る。


 陛下は私を容赦なく足で蹴り、物を投げつけ、殴りつけた。

 私はただ、泣き叫び、痛みに耐えながら時間が過ぎ去るの待つことしか出来なかった。そして、涙で滲む視界に映る周囲の人に、私を哀れむような表情をしている人は誰もいなかった。その時ようやく私はハッと気がついた。彼らは私を見て笑っているのだと。


 辱められた。私はそう感じた。


 誰かに嵌められたのか。それとも、もともと陛下から恨まれていたのか、私には分からない。でも、その日の夜、私は人生で初めて男の人に恐怖……いいえ、人間が心底怖いと感じた。


 最後の方は良く覚えていない。気づいた時には、私は牢獄で転がっていた。手には枷が嵌められ、体は起き上がる事すら出来ないほど、ボロボロだった。


 涙は枯れて、ただただ。呆然としていた。


「ジョゼ、お前という女は本当にステインの女なのか?」


「にい、さん?」


 聞き覚えのある声に、無理矢理顔だけ上げると、そこには兄のデーズが立っていた。デーズは腕を組み私を蔑むように見下ろしている。


「よくもステイン家に泥を塗ってくれたな、ジョゼ」


 喉が枯れ、詰まりながらも私は必死に声を出す。


「私が……?」


「今、王宮ではお前が王妃を呪い殺したと噂が広まっているんだぞ」


「そ、んな……私は何も」


「何も? 馬鹿め。ジョゼ、何もしなかったが故に今、お前がその惨めな結果になっているのだろう」


「どういうことです?」


「お前はな、まんまと嵌められたんだ。クソのハイン・マクニールにな」


「ハイン?」


「陛下に媚を売るのが上手い奴だ。旧家であるのは確かだが、ずっと冴えなかった家だった。だが最近、王宮ではだいぶデカイ顔をしているぞ。会ったことはないのか?」


「たぶん……」


「ふん。だから甘いと言っているんだ。お前は王宮でいったい何をしていた? そのハインが噂を広めていたんだぞ? お前がこの王宮に呪いをかけたとな」


「そんな……」


「だが、ハインが噂を広めた確証はない。奴は随分と姑息なようだ。尻尾を出さん。つまり、噂の出所を着きとめようとしても、ただハインの名がちらつくだけで、なんら証明するものが無い。お前はただ嵌められ、ステインの名を貶めた。

ジョゼ、お前はもう少し利口で、用心深い奴かと思ったが、あんなハインのような虫けらに嵌められるとはな。

何故、王妃が亡くなる前に、陛下に近づかなかった? お慰めしなかった? 共に悲しんでやらなかった? お前もステインの女なら、次の正室になるように画策する頭くらいはあっただろう。

何故、色を使わず、王宮にいるんだ?

お前がもっと陛下の近くにいれば、こんなことにはならなかったのに……」


「私が陛下の……」


 自然に思い浮かぶ陛下の顔は、私が憎いと血走った目で訴えていた。


 枯れたはずの涙が自然に溢れる。


 駄目だ、怖い。


「今の陛下は傷心のあまり周囲を見る事が出来ていない。今後ステイン家も何かお咎めあるかもしれん。悪いが、俺はお前を見捨てるぞ」


「兄さん……」


「それでも、運がよければ、ステインの領土でお前は隔離だ」


 デーズはそれだけ言うと、そのまま振り返る事もなく牢から立ち去ってしまった。


 数日後、イデアが泣きながら私のいる牢に駆け寄ってきてくれた。


「ジョゼ……ジョゼ。ごめんなさい。私は何も出来なくて、友達なのに……友達なのにっ」


「イデア、いいのよ。これは私がいけないの。ごめんね。私の為に泣いてくれてありがとう」


「私、今ね陛下にジョゼの事を許してもらえるように嘆願しているの。だからもう少し待ってて。出来るだけ早くジョゼを王宮から出してあげるから、そしたら、また一緒にヨーワンで遊びましょう」


「イデア……気持ちは嬉しいけど、それは駄目よ。そんなことしたら、貴女まで危なくなるかも知れない」


「違うわ、ジョゼ。この王宮に私が来たのは、貴女が私とお友達だと言ってくれたからよ。王宮に入る時、ここを出る時は一緒にと約束したじゃない。だから、私にやらせて。

それに、今の陛下は以前より落ち着いて見えるわ。だからきっと大丈夫。私を信じて」


 私はボロボロと涙を零しながら、牢の隙間からイデアの手を握った。


「ありがとう。イデア……」


 それから二週間後、突如私は牢から出ることができた。イデアの説得で陛下の気が変り、私は許されたのだ。


 でもイデアは私と共に王宮を出ることはなかった。イデアはコルフェ王の傍に居ることを選んだのだ。


 最初はとにかく困惑した。何故イデアがと。


 でもそれは後にイデアから貰った手紙で分かった。イデアは私の為に陛下に近づき、陛下の者となった。そして私を許すように嘆願したのだ。


 イデアからの手紙の最後には王宮を一緒に出れなくてごめんなさい。そう書いてあった。


 結局私は、王宮で全てを失った。地位も、名誉もそして友人も全て失ったのだ。


 コルフェ王は王妃を亡くされ、悲しみのままに、噂を信じ、私を罪に処した。でも、本当にそうだろうか。噂など、口実なのではないのだろうか。

 そもそも、こうして私が簡単に許されることはおかしいのだ。本当に噂を信じていれば、私はもう死んでいるはず、でもこうして生きて許されている。


 きっとコルフェ王はただ、己の悲しみを誰かにぶつけたかったのだろう。それがたまたま私だった。


 コルフェ王は己の感情のままに私を殴ったのだ。


 今ではそう思えてならない。


 あの血走ったコルフェ王の目が、こびりつき離れない。未だに私は王に恐怖する。


 そうして、解放された私は王都ガーデンから離され、ステイン領のバストーンでひっそりと、隔離されたの。兄であるデンゼンは最後まで私を許してくれなかったわ。


 きっとそれは今でも変わらないと思う。

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