No.31 怒りの感情


 王の召喚から数日が経ち、今日から学院に行くことになった。


 朝、久しぶりに学院へと向かう為、屋敷の表から馬車に乗り込む。

 普段から先に馬車に乗り、私に対して嫌味や小言を言うカトリーヌの姿は、そこにはなかった。

 王の間で少しばかり笑顔を見せた彼女に、正直ホッとした部分もあったけれど、結局あれからまた、殆ど自室から出てくる事はなかった。


 今までカトリーヌと一緒に馬車に乗り、登校していた朝だったのに、こうしてカトリーヌの姿が見えないのが、こんなにも寂しく思うなんて。最近、色々ありすぎたせいで、私も情緒的になっているのかも知れない。


 馬車が学院に着くと、楽しそうに笑う生徒達が歩いている。それは普段と変わらない風景だった。通い始めて、まだ日も浅く、慣れたとは言えない学院生活だけれど、近頃の出来事を考えると、この風景にさえ少しだけ落ち着くような気がした。


 それなのに……。


 和やかに浸っていた私の気分もすぐに違和感へと変わる。教室に入る時、明らかに生徒の視線がチクチクと刺さるようなものに変わっているような気がした。


 私がいつも見られている事に変わりはないけれど、なんだろう。この視線は……。



 自分の席に着くと前の席にはすでにデジールが座っていた。いつも挨拶だけは、必ず交わす私は、デジールに声をかけようとしたけれど、異様な視線が強くなったような気がして思わず動きを止める。私に気づいたデジールと目が合ったが、いつもの様に嬉しそうに笑うのではなく、何故か私の事を酷く心配そうに見ていた。



 変だ……。

 やっぱり何かがおかしい。



 私はゆっくりと周囲を見渡した。目が合う人は誰もいない。それなのに何故か居心地の悪さが増したような気がして不安になる。


 いったい何が違うんだろう…………。


 私が分からない不安を抱いていると、教室にリリーが入ってきた。リリーはいつも一緒にいる貴族の生徒二人を、従えるように連れ、一直線にデジールの元へと向って歩いていく。


「あら、デジールさんじゃない。まだ学院にいらっしゃるの? 本当に困った方ですね。何度言っても理解してくれないんですもの。そろそろまた、痛い目にあわせないと駄目かしら。ねぇ?ミーシャさん」


 リリーがクスクスと笑いながら言うと、一緒にいる二人の生徒の内、髪の毛が左右にカール巻きされている、生徒の方が頷いた。ミーシャと呼ばれたカール巻きの子はニヤリと笑いながら、いきなり小さなナイフをデジールの机の上に突き立てる。


 ーーーーガン!!


 響いた音と目の前で起きている出来事に、私はビックリしながら揺れるカール巻きを見ていた。

 ミーシャはデジールの耳元に顔を近づけて囁くように「さぁ、授業の始まりですよ。頭が悪い子は体で教わりましょうね。デジールさん」そう言った。


 デジールは硬直したかのように動かない。


 交代とばかりにリリーが机に刺さっているナイフを引き抜き、デジールの頬にペチリと当てる。



 な、何これ……学院でなんてことしてるの…………?



 デジールから聞いていた話が、現実に私の目の前で繰り広げられている。これがリリーの本当の姿? リリーと一緒にいる二人はデジールを蔑みながら、クスクスと笑っている。


 なんで……。


 リリーも、一緒にいる子も何でこんなこと平気で出来るの? 楽しそうに見ていられるの? こんな事許されない、許されるはずがないのに。



 きっと今と同じように、この教室で、こうやってデジールの胸の傷ができたのだろう。

 酷い……許せない、許せない。貴族!!


 ーーーーガタン!


 私は怒りのままに勢いよく立ち上がり、リリーの前に立ちはだかった。


「何をしているの!? リリー! 今すぐに、お止めなさい!! 貴女はいったい、何のつもりで、そのナイフをデジールに向けているの!?」


「あら、エリザベート嬢、ご機嫌よう。貴女こそ、何故、こんな平民を庇うのかしら? 下々の者をステイン家である貴女が庇うなど、呆れたお方だこと」


「何ですって? 呆れているのは私の方よ、ここは貴族院であって、学び舎なのよ。あなた達みたいに、こんな馬鹿なことをする所ではないわ!!」


「貴女こそ何を仰っているのかしら。エリザベート嬢、ここは貴族院。本来、貴族ではない平民がここにいること自体、可笑しなことでしょう?」


「ーーーーなっ、だからと言って、このような行いは許されることではないわ。あなた方の貴族としての品位を疑います」


「品位? 品位ですって。まさか、あなたに品位を問われるとは思わなかったわ。ふふふっ」


リリーは堪えきれないと言うように口元に手を当てながら笑う。


「何よ、どういう事?」


「あら、ご本人はご存知ないのね。本当、お幸せだこと」


 何だろう、リリーが凄くムカつく。たかだか、こんな小娘、そう思う気持ちも、ちゃんとある。けれど、小娘だからこそ腹ただしいのか、何なのか。湧き上がる苛立ちと怒りが、自分で制御ギリギリ、そんなところまで来ている感じがした。

 こんな気持ちは初めてだ。凄く気分が悪い。


「私が何を知らないって言うの?」


 私がリリーに問いかけた時、私の後ろにいた筈のデジールが、私を庇うように前に立った。


「デジール、そこを退きなさい」


「申し訳ございません。エリッサ様、でもここは退けません。リリー嬢と私のことにエリッサ様はなんら関わりないことです」


 その言葉にリリーが憤慨した。


「私達の話に入ってくるなど、下々の分際で、どこまで無礼なのかしら! 恥を知りなさい!!」


 リリーは言いながら、持っていたナイフを振り上げる。


「危ないっ」


 私は反射的にデジールを庇う為に突き飛ばそうと押した。それなのに、デジールの背中は動かなかった。頑なに動くまいと、私の前に凛と立つデジールの、その背中から強い意思が伝わった。

 顔を庇うように構えるデジールに向けてリリーは容赦なくそのナイフを思い切り振り下ろす。


 ーーーーザシュッ!


「え………?」


 私はその光景に唖然とするしかなかった。

 みるみるうちに、ポタリ……ポタリ……と伝い落ちていくデジールの血。


「で……デジール……………?」


私はデジールの両肩を掴みゆっくり、リリーから引き離した。


リリーの手にナイフはない。

満足そうにニッコリと笑うリリーの顔に吐き気にも似た、ドス黒い感情が自分自身に湧き上がる。


 赤い血が目に焼き付くように離れない。

 デジールの苦痛に歪むその顔が離れない。


 デジールの、その左手にナイフが突き刺さっていた。


「ーーーっ!!? デジール!! 大丈夫!?」


 デジールは痛みに耐えながら、それでも私を安心させるように笑い、小さく頷く。


 視線の端に見えた、リリーの足が一歩前へと近づき、私は思わず怒鳴った。


「下がりなさい!!」


 動きを止めたリリーはそれでも可愛らしく小首を傾げると「あら、何故? 傷つけて何が悪いのかしら? 下々の分際で貴族の間に入ったデジールさんに教育をして差し上げたまでです」


 そのセリフを聞いた瞬間、私の脳内でブチリと何かが切れる音がした。


 ーーーーーバッシーーーン!!!!


 何をしたのか、自分さえ分からなかった。ただ、周囲の息を呑むような悲鳴と、ジンジンと酷く痛む右手、そして倒れ込んだリリーを私は見下ろしていた。

 すぐに、自分が怒りのまま、リリーを思いっきり殴ったのだと理解する。後悔など全くない。デジールを思えば足りないくらいだ。


 おおよそ、殴られた経験などないリリーは酷く動揺しながらも私を睨みつけている。

 リリーの取り巻きの女子が慌てたようにリリーを囲み、一人が私に向かって「何するのよ!!」と怒鳴った。キャンキャンとよく吠える小娘を前に、私の頭は冷静になっていく。今一番優先すべき事は何かと考えた私は、ニヤリと笑らいながら、その娘を見つめた。


「貴女、誰にものを言ってるの? 私を誰だかご存じないの? なら、私の噂もご存知ないのかしら? あまり生意気な事を仰るようなら、貴女を、こ・ろ・す・わよ?」


 これくらい脅せばすぐに引くだろう、そう思った。私はデジールの手当てを早くしたい、その一心だった。

 案の定、取り巻き達は、後ろに下がり、それでも私を睨みながらリリーを抱えて連れて行った。

 教室を出て行こうとするリリーの背中に向けて私は「リリー、この事は決して忘れませんよ」そう思わず口にしていた。リリーは何も言わずに無言で出て行く。


 すぐにデジールに向き直り、ちゃんと傷を見ると、その左手にはだいぶ深くナイフが刺さっているのが分かった。ここで抜いたりはしない方がいいだろう。頭ですぐにそう判断すると、止血出来そうなものを探して、自分の首に巻かれているスカーフに手をかけた。


「エリッサ様のスカーフが汚れてしまいます」そう言って抵抗しようとしたデジールを叱り付けながら、私は自分の首に巻いていた制服のスカーフをデジールの手首を止血する為にキツく縛る。


「よし、とりあえず、これでいいわ。すぐに医務室に行くわよ」


「エリッサ様、もう十分です。私は大丈夫です。こんな事、大したことではありません。それよりも………」


「バカ!! 何言っているの!? これは大したことよ!! あなたみたいな娘が傷つけられることなんてないの。こんなに綺麗な手を誰も傷つけちゃいけないの。さぁ、すぐに医務室にいきましょう」


「エリッサ様、駄目です。私みたいな身分の低いものと一緒にいては」


「デジール、もう良いの。そういうのは、もう良いのよ。さぁ行きましょ」


「でも………」


「なら、これは命令です。それならいいでしょ? 私のわがままだと思って、さぁ早く」


 私は半ば無理矢理デジールを抱えながら医務室へと向った。


 医務室に着くと、そこにいた先生はすぐにデジールの傷を確認し、手際良くそのままナイフを抜くと、縫合し始めた。


 私はてっきり応急措置くらいで、すぐに医師の元へ行くのかと思っていたけれど、そこはさすが貴族院とも言える。どうやらこの医務室では大体の怪我などは治療できるらしい。


 デジールの縫合の最中に丸眼鏡の女教師、ミーナ先生が医務室に入ってきた。


「デジールさん、事情は聞きましたよ。貴女がリリー嬢に襲い掛かったと。全く、本当に、何度注意すれば……」


「え…………?」


「リリー嬢の方がしっかりと抵抗してくれたおかげで、幸いにもリリー嬢の方は軽症で済んだようですが、それでも結局はお互い怪我をしたんですってね?」


 ミーナ先生の言葉を聞いた私は、すぐに反論した。


「いいえ先生、それは違います。リリーがデジールに襲い掛かったのです。一方的に怪我を負わされたのはデジールの方です」


「ですが、リリー嬢の頬が真っ赤に腫れていました。彼女はすぐに帰られましたが、あれは襲われたとしか……」


「あれは私が殴ったせいです。デジールは何も悪いことはしていません」


「そ、そうですか、ですが揉め事はいけません。デジールさんには厳重に注意をしなくては」


「注意をすべきなのはリリーですよ。もちろんリリーを殴った私も悪いですが、最初にリリーがデジールを、刃物で脅して切りつけたのです。デジールはこんな大怪我をしたのに、何故デジールが注意されるのですか」


「リリー嬢がデジールさんを切りつけたのには、事情があったのです。そして、その問題の発端は、デジールさんにあります。エリザベート嬢、この件については、これでおしまいです。あなた様もこんなくだらない問題に関わらず、今はお家の心配をなされてはいかがです?」


「くだらない……?」


「ええ、エリザベート嬢、あなた様にとってはくだらないことです」


「くだらなくない!? くだらなくないです!! 女の子が刃物で傷つけられたんですよ。何も悪いことしていないのに。私は絶対許せません。こんな事、まかり通っちゃいけないんです」


「はぁ、でもここは貴族院です。貴族ではないデジールさんがいらっしゃる事が特別であり、それにも関わらず、貴族院で問題を起こすこと自体、学院にとってデジールさんは処罰対象になります」


「貴族ってそんなに偉いんですか?」


「ええ、それは勿論。凄く尊い方々です」


「所詮、平民も貴族も同じ人間ですよね」


「いいえ、貴族は……これは私みたいな身分の者があまり言ってはならない言葉ですが、貴族とは神に認められた方々、平民とは血も違います。存在そのものが違うのです」


 何それ、貴族も平民も全く同じじゃない。同じ赤い血が流れている。それに私はリリーよりもデジールのほうがよっぽど尊いと思える。こんなの間違っている。絶対間違っているよ。


「もう、良いんです。エリッサ様、私が引き起こした不始末です」


 縫合の痛みに耐えながらもデジールが私に言った。

 ミーナ先生はその通りだと頷いて「以後気をつけなさい」その一言を残して医務室から出て行った。

 ミーナ先生は結局、デジールの傷の具合も含めて心配をする様子を見せることはなかった。私はミーナ先生に対しての強い不信感と憤りを感じながら、デジールに向き直る。


「デジール、貴女は悪いことなど一切していないわ。不始末なのはリリーの方なのよ」


「いいえ、私が悪いんです。それに、エリッサ様にはこの件に、関わってほしくないのです」


「どうして?」


「エリッサ様……エリッサ様はやはり、まだご存じないのですね。先程のミーナ先生の様子を見ても明らかでしたが。

 今、ステイン家の噂が流れていて、その噂が凄い勢いで広まっているのです。その噂の内容が、その、カミール王子が毒殺されたのだと、そして婚約者だったカトリーヌ様こそが首謀者なのだと……」


「えっ!? なにその噂……」


「私はカトリーヌ様がそんなことするお方ではないと知っています。でも、この噂が今、凄く、凄く広まっていっているのです。

こんなとても酷い噂が……」


「お姉様が、カミール王子を……?」


「そうです。ですから、この噂のほとぼりが冷めるまで、今は、エリッサ様に何も関わらずに静かにお過ごし頂きたいのです。私のような者に関わり、更に変な噂が流れたり、エリッサ様にご迷惑をかけたくはありません」


「ありがとうデジール。その気持ちだけで本当に嬉しいわ。でも貴女は今、そんなこと気にしなくていいのよ。ただ自分の身の安全だけ考えなさい。貴族に広まる噂なんて私は気にしていないし、ステイン家はそんなにヤワじゃないわ」


「確かにそうかもしれません。でも、リリー嬢を始めとして教師までもが、エリッサ様に対しての態度を変えています。以前とは全く違うのです」


「そうだとしても、私はエリザベート・メイ・ステインよ。安心してデジール。まず一番に考えなければいけないのは、貴女のその傷のこと。私は貴女の体が心配なの。今は私の事より貴女のことよ。ね?」


 不安そうな顔を見せながらも、小さく頷くデジールの背中を、労わりながらゆっくりとさする。あと少しで、手の縫合は終わるだろう。


 この医務室で、私はステイン家の……いや、カトリーヌの噂を知った。確かに凄く嫌な噂だと思う。でも、そもそもこんな噂が広まること事態どうしても、不吉な感じがしてしまう。


 莫大な富を得ているステイン家への妬みや、ひがみからくる噂だと思いながらも、でも、そうではないかもしれないと、予感のようなものが私の中に、ほのかに感じられた。


 ただ思うのは、この噂を今のカトリーヌには絶対聞かせちゃ駄目だと言うこと。私は不安を胸に、カトリーヌを思いながら、痛みに顔を歪めるデジールの小さな背中をさすり続けた。

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