No.28 制裁


 なんで……………。


 あの優しいカミール王子の香りがグエン王子からもする。以前はムスクの匂いだったはずなのに。


 ーーーーーー嫌だ。


 カミール王子と間逆な彼が、同じ匂いで、私を上から押さえつけて、笑う。

 同じ兄弟なのに、同じ王子なのに、彼は全然違う。優しさもないし、自分の私利私欲のみで動いている。

 それなのに匂いは全く同じだった。私の好きな良い香り。それがものすごく嫌だった。


 私を見下ろし笑っているグエン王子の瞳が何処か焦燥しているようにも見えるのは何故なんだろう。こんな時でさえ、ふと冷静にそんな事を考える自分に笑えてくる。


 両手を押さえつけられている私は、どう足掻いても身動きは取れず、力を込めてもビクともしない。

 彼の手が私の首筋を撫でた。


 ああ、もうダメなのかな……。


 そう思ってギュッと目を閉じた時「がはっ」と異様な呻き声が聞こえ、驚いて目を開けた。


 私の手はいつの間にかグエン王子の手をすり抜け、彼の喉仏の辺りを鷲掴みにしている。

 彼の瞳は驚きの余り目を見開いたまま、瞬きもせずに私を見ていた。


 …………え!?


 エリザベート!!?



「うっ……ぐっ」



 私に馬乗りになっていたグエン王子の重みがどんどん無くなっていくと同時に、私が掴む首元に親指が食い込んでいく。

 形勢は完全に逆転し、驚きに満ちていたグエン王子の表情はだんだんと苦痛の色へと変わり始めていた。 

 顔は真っ赤になっていたのが、だんだん赤紫色になっていき、目の焦点は合わなくなってきている。

 私の親指の爪は彼の喉に食い込みすぎて肌を破り、血が首筋を伝っていった。


 ダメっ!! 待って!! 死んじゃう!!


 私が心の中で叫ぶと、すっとグエン王子の首から私の手が離れる。


 けれど安心する間もなく、私の手は咳き込むグエン王子の胸ぐらを掴み上げ、私の足が彼の急所を容赦なく蹴り上げた。


 ーーーードス


 ーーーードス


 声もなく蹲るグエン王子に畳み掛けるように更に何度か股間を蹴り上げる。鈍い音と一緒に「ひぃっ」と小さな泣き声を聞いた瞬間、私の背中にゾクリとしたものが走り、小さく身体を震わせた。



 だっ、ダメっ。もう止めて!!


 エリザベート、もう良いでしょ!!?


 心の中で叫ぶのに、私の身体は自分の意思で動かす事が出来ない。完全にコントロール不能だった。


 グエン王子が痛みに悶える中、彼の前髪を掴み上げて顔を私に向けさせる。痛みに耐えられず、ボロボロと泣く彼の顔を見た瞬間、私の口角が勝手に上がっている事を自覚した。

 彼の瞳に恐怖の色が浮かんでいる。


 終わった………。


 私の人生が間違いなく終わった。


 心の中とは真逆に私の身体は喜び、『もっと』そう言っているようだった。エリザベートの悪癖が完全に表に出ている。そう思った。

 でも、まだこんなもんじゃい。その警告がすぐに頭に浮かび、エリザベートの地下牢を思い出す。

 彼女の悪癖はこんなもんじゃ無い事を知っている私は心の底から焦っていた。


 本気で殺してしまう。


 グエン王子をこのまま痛ぶりながらエリザベートは躊躇う事なく、いとも簡単に殺せてしまうのだ。

 何とかしないと、その一心で私は自分の口に集中する。


「あや……謝って」


 奥歯を噛みしめて何とか振り絞るように声を出した。カトリーヌの時のように謝って貰えば何とかなるかもしれない、そう思ったから……。


「悪がっだぁ」


 すぐに、引きつる声で泣きながら謝るグエン王子は、すでに数分前の私を脅していた面影すらない。その姿は情けなく、無様だった。

 もう十分だと思う私とは真逆に、私の体は、掴む彼の前髪を床に向けて投げるように離すと、グエン王子の身体は簡単にバランスを崩しそのまま倒れ込んだ。


 私の足が勝手に動く。


 ダメだ。止まらない!!


「ちゃんとっ……」


 私の足が、この踵が、グエン殿下のこめかみにゆっくりとめりこんでいった。


「謝って!! 早くっ!!」


「いってぇぇぇぇどけてくれ!! いでぇぇぇ」


「違う!! そうじゃなくて謝って!!」


 この光景はカトリーヌの時と同じだ。

 でも明らかにカトリーヌの時より酷い、ただ体重を加えてた彼女の時に比べ、今はねじり込むようにグリグリと踵を動かしながら体重を加えている。


「ぐあぁぁぁぁぁぁっ!!」


「だからっ違う!! 早く謝れぇぇっ!!」


「ごめ"んなざいぃぃぃぃ」


「足りない!!」


「いたぃ! いだぃ! いだぃ! ……づいませんでした、もうしわけありまぜん……ひっく………いだぃ……ほんとうに……ゆるじて」


 ギリギリと靴から音がする。止まらない。


「もっと!!」


「ごめ"んなさい。ごめ"んなさい……ごめんなさい……ごめんなさいぃぃぃぃ」



 私の足がようやく、こめかみから離れて止まった。

 それでもグエン王子はうわごとのように「ごめんなさい………ごめんなさい」そう繰り返し言い続けている。


 泣きじゃくるグエン殿下を見下ろしながら呆然と立ち尽くす私は、完全に自分の人生の終わりを悟っていた。


 華やかさは求めずとも、何とかこの貴族社会で何不自由なく生きていけるように努力し、エリザベートの悪癖もコントロールできていると思ったのに、駄目だった。


 私の人生は今まさに、全部、真っ黒になった。


 呼吸を整えながら私は膝から崩れ落ちる。


 目の前のグエン王子は頭を抱え蹲り、泣きながら譫言のように何度も何度も謝っていた。その様子はまるで怯える子供のようだ。


「あの……」


「……ひぃっ」


 大丈夫だろうかと心配で少し近づいただけでグエン殿下は尋常ではない怯え方をする。

 ダメだ。間違いなくトラウマ決定だ。プライドも何もかも私がズタズタにしてしまった。


 それでも彼は不幸中の幸いか、まだ生きている。


 出来れば記憶改竄、いや記憶喪失にでもなっていただければ、今の出来事は無かった事に……現実逃避からそんな奇跡を望んではみたけれど、どうにかなる訳もない。


 とりあえず、やれるだけの事はやっておくべきだろう。まずは丁重に介抱しなくては、絶望にはまだ早い、多分……。


「マリア、マリア! 来てちょうだい」


 私の言葉に慌てたマリアが入ってくると、蹲って倒れているグエン王子を見て、マリアが言った。


「あら? 生きてらっしゃる。殺さなかったのですか?」


 ちょっ、え? ……何言っているのマリア。


「殺す訳ないじゃない。そんな意外そうな顔しないで」


「申し訳ありません。グエン殿下の悲鳴が聞こえたのもので、私はてっきり……。

お嬢様に下劣な目を向けているのは承知しておりましたから。ただ、私みたいな侍女がグエン殿下に忠告する事も失礼に値しますので、出来ませんでした」


「ん? それは私に忠告するのではなくて?」


「お嬢様にですか? 何故?」


 何故って……ダメだわ。


 きょとんと首を傾げるマリアは全く意味が分からないようだった。有能だけど本当にこの手の話は無意味。

 私は小さなため息を吐いて「グエン殿下をお願い」そう伝えた。


「畏まりました」


 マリアは短く言うと、泣きながら蹲るグエン王子の側により、手際良くその状態を確認していく。まるでその姿は医師のようだった。


「随分と慣れているのね」


「お嬢様に一から教えて頂きましたから」


「医術を?」


「医術? いいえ、違います」


 あ……もしかしてダメなやつ? マリア、エリザベート側近の侍女だもんね。うん。


「もういいわ、だいたい分かったから。それから……次が無い事を祈るけど、今度は王族だろうが何だろうが忠告してあげて。それによってマリアが咎められても、私が責任取るから大丈夫よ。だって次は本当に殺しちゃうかもしれないもの」


「承知いたしました。でも、お嬢様は本当にお優しくなられましたね」


「は?」


「グエン殿下の首の傷痕は爪が刺さっただけです。ねじ込まれていない。傷や痣などは暫く残るでしょうが、今の所死に至る傷がありません。グエン殿下はまだ生存できますよ」


 そりゃぁ生きて貰ってないと困る!! ってマリアの着眼点はそこなの!?


 マリアが私に向ける稀に見る満面の笑みを見て、酷い脱力感が襲う。深刻な事態なのに、私の人生が終わったも同然なのに、マリアのその笑顔はグエン王子を殺さなかった私を褒め称えているようだった。


 その後、結局私は全てをマリアに任せて自室に戻った。グエン王子の様子も気になったけれど、私が側に寄ろうとするだけで酷く怯える為、近くにいても意味がないし逆に邪魔になると判断したからだ。


 部屋に戻り、やっと気持ちを落ち着ける。今後の事を考えればお先真っ暗な状態だけど、やってしまったことに対しての罪悪感は不思議となかった。  

 私が自分の意思でやったわけではないからかもしれないけれど。

 そもそも、事の発端としてはグエン王子が私を無理矢理襲った事が原因だし、エリザベートは過剰だったとは言え、結果、私を助けてくれたような感じだし。


 まぁ過剰だったけど……いや、だいぶ過剰だけど!!


 助かった事に感謝しそうになったけれど。

 ダメだ。一歩間違えば殺していたもの。感謝なんかしないわ。


 あんな悪癖……最悪よ。



 その後、しばらくして、グエン王子を診る為に屋敷に医者が呼ばれたが、ここでは治療が出来ないと判断されたグエン王子は馬車で運ばれて行ってしまった。



  翌日、聞いた話しでは、グエン王子の首の傷痕や痣はマリアの見立て通り、見た目ほどは酷くないようだった。ただ、見えない所……要するにグエン王子の息子、いや、急所に関しては手術が必要なほど酷かったらしい。その後の事は聞いていない。



 それから何事もない日が過ぎ去り、グエン王子との事件から四日後のある日、突如、王宮の使いがステインの屋敷にやってきた。

 使いの者は、赤い軍服に錦糸の飾りが付いたものを着ていて、物々しい雰囲気だった。

 胸元に斜め掛けされた、たすきのようなもには沢山の勲章のようなものが縫い付けられていて、いかにも偉そうな雰囲気の人が立っている。そして、その人に従うように、似たような形状の赤い軍服を来た兵士が数名並んでいた。


 王宮の使いの者達を部屋の中へと通すと、ただならぬ雰囲気と緊張感の中、まるで儀式のように、それははじまった。

 大きな声で高らかに名乗り、王の名と私達の名を読み上げる。

 王家の紋が入っている大きめの筒を大事そうに抱えていた兵士の1人が跪き、偉そうな赤い軍服の人へと筒の中身を献上した。

 それは王からの正式な書簡だった。



 デンゼンパパ、カトリーヌ、そしてエリザベートである私が並び立ち、赤い軍服の人の前で礼を取る。

 この後発する彼の言葉は、王の言葉だ。


 ああ、もう終わりだ。間違いなくグエン王子の事での罪状についてだろう。一生牢獄か……それとも死刑?


 どの道、最悪だ。


 王宮の使いの者は私達を見渡し、一呼吸置いて言った。


「陛下からの召喚状である」


 私はその言葉に胸が張り裂けそうな緊張感を味わいながら、静かに目を瞑った。

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