No.17 デジール日記 その二


 休みの一週間なんてあっという間に過ぎた。私はまた、あの地獄の貴族院に通わなければならない。母は止めたけれど、私は貴族院に通うことにした。

 それは、ひとえに父の足を引っ張りたくなかったからだ。平民の父が外交官として国のために働いている。これ以上休んで、学院を辞めることになれば、やはり平民の娘だと、父が悪く言われるのは絶対に嫌だった。

 父からの手紙さえ来てくれれば、ちゃんと手続きを踏まえて学院を辞めれば、父の外聞は守られる。私が何と言われようとそれは構わなかった。



 重たい気持ちで学校へと足を運び、震える手で地獄への扉を開いた。飛び交う暴言を覚悟していたのに、私の想像とは違って教室の中は異様な緊張感が漂っている。

 その、ピリピリとした、皆が何かを伺っているような緊張感に、初めはエーム殿下がいらっしゃるのかと思ったけれど、エーム殿下の席は空席だ。

 私は周囲を見渡した。クラスメイトはチラリと私を確認しながらも、存在などまるで無いような……私の事などどうでも良いような、そんな感じだった。

 まるで最初の頃に戻ったかのような感じだ。あのリリー嬢も静かに席に座っているし、嫌な貴族の男子、アイヴァンも席に座っている。何時もはうるさく騒いでいるのに……。


 私は席に着き、ぼろぼろのノートを広げた。


 いったいこの教室に何があったのだろう。不思議に思いながら授業の準備をしていた。


 数分後、何故か凄く良い香りがふわりと私の鼻を掠める。その香りに誘われるように私は振り返った。

 空席のはずの席、そこには見たことがない、美しい美少女が座っている。その余りにも美しい姿に、何故か周りが少し輝いているようにさえ見えた。


 その儚げな眼差し、小さな赤い唇、もはや芸術の域だと思ってしまう彼女の美貌に私はただ、ぼぉーっと彼女を見つめてしまった。


 私の視線に気付いた彼女は、少し戸惑った表情をした後、ニッコリと微笑む。


 その笑顔はまるで、花が綻ぶような微笑みで、私はその笑顔に自分の心が癒される感覚を覚えていた。


 『キレイ……』


 思わずそう呟きそうになった瞬間、教室の扉が開く音と一緒に先生が入ってきた。

 私は慌てて前を向く。


 反射的に前を向いてしまったが、思わずハッとした。彼女の胸には金色の貴族のバッチが付けられていたのだ。


 また、失敗した。


 無遠慮に見つめて、私は頭を下げる事さえせずに前を向いてしまったのだ。


 あぁ、私はなんて失礼なことをしてしまったんだ。エーム殿下の件といい、本当に私は浅はかだ。


 自分の愚かさを、ただただ悔やんで沈んでいるうちに、授業が始まる。


「おい、デジール。まさか、また教科書が無いのか!?」


 その怒鳴り声に「はい。申し訳ありません」と私は反射的に答える。

 それはもう、身についてしまっていた。

 だって、教科書はまだ届かない。


 顔を上げると、地理学を教えるマシュー先生が私を睨みつけている。


 そうか、今日は地理学だった……最悪だ。


「いいか!? デジール! 今のお前の態度なら、地理学は落とすぞ!! 教科書もろくに用意できないくらいなら学院を辞めろ」


「申し訳ありません」


 私は謝ることしか出来なかった。マシュー先生は、貴族の生徒を担当する事が多い。だから、平民の生徒達には、キツくあたると学院内では有名だった。

 マシュー先生自身も貴族の出身ではあるけれど、その地位は低いらしく、苦労しているらしい。その劣等感のせいか、私達平民には本当に厳しく接してくるのだ。


「もういい!! お前みたいな、ろくに授業を受ける気など無いやつは廊下に立って反省していろ!!」


 教室の外に出ていろと言われる事も、それによって授業を受けられないことも、既に当たり前のようになっていた私は、すぐに立ち上がり、一礼してから廊下へと向かう。


 教室の扉を開こうとしたその時だった。


「先生、少々よろしいですか?」


 小鳥の囀りかのような可愛らしい声が、静かな教室内に響いた。その瞬間、クラスメイトの全員が彼女に視線を向ける。


 私の後ろに座っていた美少女が手を挙げながら、すっと立ち上がっていた。


 私は教室内に漂う、この異様な雰囲気にようやく納得した。この緊迫感は彼女が本当に特別な方なのだからだと。


「ど、どうしました? エリザベート嬢」


 驚きに目を見開いたマシュー先生が慌てたように答える。


「あの、申し訳ありませんが、私も教科書を忘れてしまったのです」


「左様ですか。エリザベート嬢は転入してきたばかりですからね。ああ、そうだ。私が持っている予備の教科書をお貸し致しましょう」


「いいえ、先生、それでは示しがつきません。私が教科書を忘れたことは事実、これは恥じるべきことです。ですから、私も廊下に立たせて頂きます」


「いっいえ、そんな事はありません。エリザベート嬢にそのような事はさせられません」


 慌てて否定するマシュー先生に、彼女はゆっくりと首を振る。その仕草のどれをとってもただ美しかった。


「このような事を学ぶのが貴族院だと父に教わっています。過ちをキチンと正し、恥を認め、前に進む努力を学ぶ。私はその言葉に感銘を受けました。ですから、私も同じように廊下に立ちたいのです」


「………………」


 マシュー先生はそれ以上なにも言わなかった。いや、言えなかったのだろう。いつも自信満々なマシュー先生があれほど動揺する姿を私は初めて見た。


 先生は彼女をエリザベート嬢と呼んでいた。美しい彼女は、いったいどんな方なのだろう。そう思いながら廊下に立つと、そのエリザベート嬢は私のすぐ隣に立った。


 何となく恥ずかしくて俯いていると、彼女は私を覗き込むように見て、少しだけ悪戯っ子のような顔をして微笑んだ。


「本当はね、教科書忘れたのって嘘なの」


「…………え?」


「貴女と、お話がしたくて。お姉様にはバッチの付けていない方とはあまり喋るな、と言われてはいるのだけれど、私はどうしても色々聞きたいの。この国の事とか貴女の生活の事とか、だから、聞かせてくれない? せっかく廊下で二人きりなんだもの。色々お話しましょ」


「そんな、私のような者がお話相手では……」


「私は貴女をただの平民なんて思っていませんよ。平民の方がこの貴族院に入学するには優秀でなければならないと聞いています。それに、せっかく同じ貴族院の同級生なんだし、私のような者、などと卑下せずに是気お話しさせて下さい」


 彼女の輝く瞳に私は吸い込まれてしまいそうになりながら、私はそれでも辛うじて首を振る。

 エーム殿下の時もそうだった。ただ貴族の方の優しさが嬉しかったのだ。だから素直に頷いてしまった。そしてそれが失敗だった。


 今はエリザベート嬢が素敵だからこそ、私とは関わるべきではないと思う。もし私と関わってエリザベート嬢まで陰で何か言われてしまったら……そう思うだけで背筋がゾワリとした。


「あの、本当に私には勿体ないくらいの、とても嬉しいお言葉をありがとうございます。ですが、私は、今現在リリー嬢に目を付けられているのです。ですから、私のような平民に声を掛けるのは得策ではありません。エリザベート嬢の品位を疑われてしまうのは心苦しいのです。どうぞ別の方に聞いてみてください」


 私の言葉に意外そうな顔をしたエリザベート嬢は小さく小首を傾げた。その動きがあまりに可愛らしく、同性の私でさえ、きゅんとしてしまう。

 恐るべしエリザベート嬢の美貌。


「リリー嬢に目をつけられているの? マクニール家のリリー嬢よね? それなら大丈夫よ。安心して、私も彼女とは気まずい関係なの。逆に都合が良いわ。ふふっ、お互いリリー嬢には気まずい同士ですね」


 エリザベート嬢とリリー嬢が気まずいとはどうしてだろう? っていうか、マクニール家のリリー嬢と気まずいってエリザベート嬢は大丈夫なんだろうか。


「あの、リリー嬢と何か?」


「ええ、以前、晩餐会でお会いしたのですが、彼女の誕生日会を台無しにしてしまったんです。それ以来気まずくて」


 なるほど、エリザベート嬢はリリー嬢の晩餐会に招待されるほどの爵位の家の方なのね。確かに教室での雰囲気や彼女から放たれるオーラは只者ではないと思わせるけど、いったいどちらの家の方かしら。


 エリザベート……エリザベート……。

 何処かで聞いた事あるはずなんだけど……思い出せない。


「そう言えば、急に話しかけたりしてすみません。私の自己紹介がまだでしたね。私はエリザベート・メイ・ステインと申します」


 略式なのに優雅なお辞儀をするエリザベート嬢に対して、私も名乗らなければならないと分かってはいたけれど、その名前を聞いた瞬間、頭がショートしたかのように停止した。


 ス、ステイン!!!?


 ってあのステイン家!!? 貴族の中の貴族。噂では王より権力を持っているとも言われているあのステイン!!!?


いやいや、待って待って、ダメよ!! 落ち着いて。


 え? 本当にあのステイン家!!?


 確かに、ステインの三女は私と同い年と聞いたことがあったような……。


 でも嘘でしょ!? 私の前に立っているのはあの三女エリザベート・メイ・ステイン?


 ステイン家とは目を合わせるな、過ぎ去るまで下を向いて、ただ頭を下げていろと言われる、あのステイン家!?


 私の驚きは落ち着く事もなく、あまりの出来事に目を見開いたまま固まってしまった。


 優しく微笑むエリザベート嬢はなんて事ないように「そう、驚かないでください。ただの金持ち貴族なだけですから」と言うけれど……。


 ……いっ、いやいやいや!! ただのお金持ちとは訳が違う。この国の豊かさはステイン家が与えたものよ? 国民皆んな知ってるし!! 王様でさえステインには敬意を表示、諸外国にもその財力と権力でステインの財閥を広げていっている。


 この国最大の名家ステイン。


「もっ申し訳ございませんでした。存じ上げなかったとはいえ、エリザベート様に失礼な真似をして」


「だから、そんなに硬くならないで、私も貴女のお名前を知りたいの。教えてもらえませんか?」


「はっはい。私はデジール・ミーレイと申します。父が外交官をしています。それで、えっと、わ私も父のようになりたくて、貴族院で学ばせてもらっています」


 感心したように頷くエリザベート嬢に私は自分が何を喋っているかもよく分からずに、名乗った。


「そう、お父様が外交官なのね。それでは様々な国の事をお父様から聞いて、貴女も外交官の道を進みたいと?

デジールさん素晴らしいわ。やはり私と是非お友達になって下さい。理由が必要なら、そうですね、同じリリー嬢と気まずい中同士というのはどうでしょう。ね? 仲良くしましょ」


「でも、私は……」


「大丈夫、貴女が不安になるような事はありません」


 彼女の輝いた瞳にこれ以上逆らう事は出来ず、私は思わず「はい」と答えてしまっていた。

 いずれ、エリザベート様との仲が知られるよな事になれば私はまた、リリー嬢に攻撃をされるだろう。けれどリリー嬢も流石にステイン家の公爵令嬢であるエリザベート様には何も言わないはず。


 どうせ、父の手紙が届くまでの間だ。

 大丈夫。きっと大丈夫。


 そう思いながらも、言い表せない不安感が私の心の中にジワリと広がっていた。

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