第4話
「では、今日の椀、もいっぺん作らせていただきやす」
大盛況に終わった、播磨屋の祝宴。
しかし、孝助の椀をまだおつるも佐吉も食してはいない。時間が足らずぶっつけになってしまったその椀の実力は播磨屋六輔のえびす顔の具合でしか、知らないのである。
そこで、宴のあと、ここでその味を確かめようというわけだ。
「では、まずこの穴子を使いやす」
「椀に穴子とはね……」
佐吉は、流れるような手さばきで穴子を割く孝介の姿に低く唸る。
穴子はうまいが、庶民の魚。いわゆる下魚。それは、料亭の椀に沈んでいていい魚ではない。
佐吉はほとんど疑いの眼差しといった風情で、その姿を見つめた。
「では、ここで骨切りをいたしやす」
「穴子に骨切りだよ、あたしにゃ思いもつかないね」
骨切りは、普通は上方でよく食される
もちろん、穴子にも小骨はおおいが鱧ほどではない、しかも江戸っ子は穴子の骨なんか気にしちゃ男がすたると息巻いて、まさか穴子の骨切りをしようなんぞとは思いもつかない。
さらに、骨切りで身に傷をつければ大事な穴子の味が抜ける。
特に、あの冬に向けて乗りはじめる脂がスルリと抜けてしまう。
はずなの、だが。
「いやはや、こんなにあっさりとしていてふうわりと柔い穴子は初めてだわい」
そう言って満面の笑みを浮かべた播磨屋の隠居の顔が浮かぶから、ふたりとも孝介の奇行に口を挟むことができない。
「で、ここで、炭火で炙りやす」
「たく、それじゃ、まったくうなぎだぜ」
佐吉は唸る。
「出汁は、今日使ったものを温めておりやす。穴子の骨で出汁をとった、濃いめの出汁でございます」
出汁は蕎麦出汁のように濃い味で、少々砂糖まで入っている。
少なくともそれは、料亭の椀の出汁ではない。
「ここで、熱いうちに穴子を短冊に切って、出汁に沈めやす」
訝しげな佐吉の前で、孝介は手際よく脂がジュウジュウと音を立てる穴子を串から抜き、サクッサクッと皮目の香ばしさが音でわかるほどに心地よい音を響かせて短冊に刻むと、それを片手鍋に張ってある出汁の中にジュウッと小気味良い音とともに沈めた。
そして、片手に木さじを持つと、出汁に浮く小さな焦げと脂を掬っては捨てる。そして、丁寧に焦げと脂を掬い終えると、それを椀に張って体裁を整える。
上に添えるのは山椒の葉。パチンッと小気味良い音を響かせてそれを叩いてから出汁の上に泳がせると、静かに椀に蓋をして、孝介は佐吉とおつるの前にそれを差し出した。
「お味見の方、よろしくお願いいたしやす」
「はい、たしかに」
「うむ」
お鶴と佐吉は、うやうやしく椀を手に取ると、順にすすり始める。
「いただきます」
おつるはそういうと、ゆっくりと出汁をすする。
「ああぁ、おいしい」
おつるは、目を細めて感じ入る。
「それじゃ俺も」
おつるが恍惚の表情で出汁をすするのをみて、佐吉はまず穴子を掴んで口に放り込んだ。
そして、眼を見張る。
「おい、こりゃ、本当に穴子かい?」
まさか目の前で割いて焼いていたのを見ていないわけもない佐吉だが、あまりの味についそう口走った。
確かに、味は穴子だ。
しかし、しつこい脂っ気は露ほどもなく、それでいながら身にしっかりと蓄えてある旨味。そして、香ばしい皮目のクニュリとしたなんとも言い難い極楽のような感触、噛んだ瞬間にとろりとくる舌触り。
しかもこの穴子は、少し噛みしめるだけで、中からじんわりと染み出した出汁とともにホロリと
佐吉は、たまらず出汁をすする、そして、更に目をみはった。
料理屋で出すには、下品なくらい甘ったるく味の濃い出汁は、穴子を沈めたことでその強い旨味に押されて、とたんにフッと上品になった。しかも、それが解けた淡雪のような穴子の身とともに口内を満たせば、もう一度そこに穴子が生き返ったかのように再びくっきりとした旨味の稜線を描くではないか。
いや、生き返ったのではない。更に旨味をまして、鯛や鮃に劣らぬ魚に身を変じてしまっているようだった。
そして最後に鼻に抜ける、爽やかな山椒の風味。
「うまい、こりゃ、とんでもねぇうまさだ。よく、考えたな」
「ええ、すべてがお年を召した方の舌に合わせてあって、そうでない人間もしっかり楽しめる」
二人の褒めちぎる声と先を争って口に運ぶ様子に、孝介はなにか眩しいものを見るような、そんな表情で立ち尽くしていた。
「孝の字、おめぇは俺を超える包丁人になるぜ」
佐吉の言葉に孝介は大きく頭を振るった。
「違う、違うんです兄さん。俺は、ひとりじゃたどり着けなかったんだ、兄さんの謎掛けと女将さんの言葉があって初めて」
孝介は、嬉しかった。間違いなく喜びに打ち震える瞬間はあった。
これほどうまい椀を作れて、難しい問題を解くことができて、本当に嬉しかった。しかし、時間が経っていまこうして自分の椀を褒めちぎりながら食べる二人をみて、自分はひとりでは何もできないことを嫌というほど思い知らされているのだ。
おつるの言葉が、佐吉の謎掛けが、自分を救ってくれた。
「俺ぁなんにもできちゃいない。あの竜胆がなきゃ、たどり着けなかったんだ」
だからこそ、目の前にいて自分を導いてくれた二人に遠く及ばない、思えば思うほど、あまりに情けない力の無さを感じる。
と、おつるが呆れた口調で言った。
「はぁ、ほんとうにお前は馬鹿だね」
「え?」
孝介がおつるを見る、と、おつるは微笑みながら涙をこぼしていた。
「料理屋だってね、漁師がいて、百姓がいて、魚屋や八百屋がいて、この家を建てる大工がいて、食器作る職人がいて初めてできるんだよ」
おつるはそう言うと、板場のぬれた土間に降りてその場に平伏した。
「お、女将さん!何をっ!!」
孝介はおつるを抱き起こそうと近寄る、しかし、佐吉がそれを制した。
「孝介、わたしがこうして料理屋の女将ができるのも、全部あんたたち職人のおかげだ。わたしだってひとりじゃ何もできゃしないんだよ。だからこうして感謝するんだ、ありがたいって手をつくんだ」
おツルの声は、いつになくか細く、少し震えていた。
「だからね、だからこうして……」
おつるはそこまでいうと、ゆっくりと顔を上げた。
「……嬉しくって泣くんだよ」
「女将さん」
孝介は、その泣き濡れた顔をじっと見つめる。
あの日、不死の鬼のように見えたおつるの顔は、こうして見るともう随分衰えて、初めてみた数年前のそれより随分と小さくなっているような気がした。
しかも、泣きながら「ありがとうよ」と呟いて微笑むその顔は、鬼どころか、まさに観音菩薩の顔だ、と、孝介は思えた。
いや、それだけじゃねぇ、この姿は、きっと。
きっと竜胆だ。
見たことはねぇがきっと竜胆ってのは、苦くてまずいが、だからこそ誰かの身体を癒やせる力と、そして、可憐で凛とした花を咲かせる、そんな花に違いねぇ。
きっと、こんな花に違いねぇ。
女将さんみたいな、そんな花に違いねぇ。
ありがてぇ、観音様みてぇな花にちげぇねさ。
「佐吉はもう十分立派な男で、孝介もこうして一人前になった。もうわたしは、なんの心配もなくあの人のところに行けるってもんだ」
いいながら、おつるは「よいしょ」と掛け声をかけて、ゆっくり立ち上がった。
「馬鹿なことを言わねぇでくださいよ、寂しいじゃないですか」
孝介は、少し潤んだ目尻を拭いながら、そう言っておつるに手を貸す。
「でぇじょうぶだ、女将さんはこっから四十年は生きるさ」
佐吉はそういうと、孝介とともにおつるの体を支えて起こした。
「なんだいそりゃ化けもんじゃないかい」
桜屋を支えるように、おつるを両脇から支える佐吉と孝介。その姿を満足そうに見つめながら、おつるは、いつものように優しく笑っていた。
竜胆がさきほころぶように。
しかしそれが、元気なおつるの最後の姿になったのである。
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