第3話
「頭で作るねぇ」
豆腐と飯だけの簡単な晩飯を済ませてごろりと横になっていた孝介は、薄い天井を見つめて呟いた。
「くそ、寒くなってきやがった」
最近めっきりと冷え込み始めた江戸の街。
どこを塞いでも必ずどこかしらか風の吹き込んでくるこのぼろ長屋に寝転がっていると、まるで、枯野の真ん中に寝ているような気さえしてくる。
そしてその寒さが、凝った心と痛む胃の腑に響くからたまらない。
「どうして佐吉のお
誰も聞いていないのをいいことに、孝介はそう毒づいてため息をつく。
そりゃ孝介にも、何でも口で教えればいいわけではない、ということくらいは分かっている。いるのだが、だからといって余計に難しくすることはないだろう、と、佐吉の顔を思い出しては心に苦いものが湧いてくるのを感じるのだ。
「苦味といえば、三つ葉の苦味。ありゃもうひと工夫できたかもしれねぇな」
孝介はそうつぶやいて、少し腰を浮かす。
「……いや、そんな、小手先の話じゃねぇよな」
そう唸ると、目の玉の裏に不意におつるの鬼の形相が浮かぶ。
もうあれで還暦間近なはずなんだが、後添いはおろか貰い子もせず、それこそ百年は生きてやるといった風情で働いている女丈夫の顔は、孝介の椀がその程度のやりくりでどうにかなるものではないことを如実に物語っていた。
うん、わからん。
孝介は心中でそうつぶやくと、ごろりと体の向きを帰る。
と、ふと
「そういや、播磨屋の実家じゃ兎汁に根三つ葉を入れるって言ってやがったな」
いつだったか、茶飲み話に聞いた頃がある。思い出して、孝介は頭の中でその味を組み立てていく。
味噌仕立ての汁、精の強い兎の出汁、そして、滋味をたっぷりと含んだ癖の強い根三つ葉の味と香り。これが三位一体、渾然となって、その旨さがありありと頭の中で思い描ける。
「うまそうだ、が」
流石に、料亭の椀物で兎汁はねぇな。
誰に出す料理なのか、の答えにその人物の郷土の味と思ったのだが、さすがに無理があるようで、孝介は深いため息をつく。
「料亭は、田舎料理を出すところじゃねぇ」
たとえ、公方様が現れたって間違いのねえような、スッと透き通っていて切れ味の良い、一振りの業物ののような汁でないといけねぇ。
しかし、だ。
「俺に、あの汁よりも切れる椀が作れるものかね」
頭によぎるのは、昼に駄目を出されたあの汁。
あの汁が出来上がったときは、我ながらその味に感動を覚えたものだった。しかし、結局はあれ以上のものを作らないといけない羽目になってみると、そのできの良さが逆に恨めしい。
「いってぇ、なにがわるいんだ」
孝介は唸る。
言うまでもないが、出汁は申し分ない。
糸屋を意識した鞠麩も縁起の良いものだし、普段は公方様を憚ってあまり口にしない三葉を出すと言うのも江戸っ子好みな趣向が効いている。
わからねえ。
孝介が頭を抱えると、佐吉への恨み言がまた蘇ってきた。
「だいたい佐吉の兄さんだって、もとは読み書きのできねぇ信州の田舎もんじゃねぇか、なんだって頭を使えなんて言うんだろうね」
俺は、料理しかできねぇ。父上と母上から、それ以外の才はもらっちゃいねぇ。そういえば、父上や母上の里でも兎汁を食うって言ってたっけな……。
と、ふいに孝介の腹の底で「ぐぅ」と虫が鳴いた。
「ああいう田舎料理は、食い意地がついていけねぇや」
孝介は苛立たしげに頭をかく。
ああいう味の濃い物は、一見身体にきつそうに思えるが実は食欲が無いときほど胃の腑を刺激して食欲を出させることがある。塩辛いものを年寄りが好むのは、そのせいもあるのだ。
しかも、年寄は舌が鈍いからなぁ。
腹をさする、どうやら動き始めているらしい。
「たく、しょうがねぇな」
孝介は吐き捨てるようにそういうと、床に突っ伏して頭を抱えた。
というのも、ここ数日、夜の夜中に食い物のことを考えていると、そこからすぐに胃の腑に鋭い痛みがやってくるからなのである。
ちくしょう、腹減るのが一番痛みにゃ悪いんだ。
と、孝介の頭にひとつひらめくものがあった。
「そうだ、竜胆だ!!」
孝介は懐を探る。そこには小さな紙包みがあり、中には刻んだ草の根が入っていた。間違ってもこのまま食うものじゃないだろうし、どうやら煎じるらしい。
「そうと決まれば、いざ鎌倉よ」
胃痛に苦しんでいる最中とはいえ、そこはそれ、孝介は料理人である。
あっという間に支度を整えて、またたく間に竜胆の根を煎じると、湯呑いっぱいの煎じ薬があっという間に出来上がった。
ただ、それは決してうまそうではない。
「くぅ、苦ぇんだろうな、まったく」
孝介は小さく悪態をつくも、意を決して湯呑の半分ほど飲み込んだ。
「ぐぅぅ」
と、思わず苦痛の息が漏れる。
というのも、まあこの竜胆の煎じ薬、苦いなんぞというものではない。口に入った途端、無数の小さな針で舌を刺されたような刺激が広がり、口を抑えてのたうち回りそうなくらいの苦さであった。
「むううう」
うなりながらも、仁王のような顔でうずくまる孝介。
もしかすると、効果を期待して気合を入れて煮出したせいか、普通より苦くなっているのかもしれない。証拠にその煎じ薬は、段々と舌の感覚を麻痺させていき、料理人の孝介に一抹の不安を感じさせるありさまだ。
「かっ、かはっ、おい、こりゃでぇじょうぶなのかい?!」
これで舌が死んじまったりでもしたら、泣くに泣けねぇ。
「ま、まぁでも、こりゃ薬だからな、味はどうでも良いんだ、効きゃいいんだろうけど」
と、そのとき、温かいものが胃の腑に落ちると同時に、なにやらふわっとそこが軽くなるのを感じた気がした。
舌のしびれも徐々にとれていく。
「へぇ、竜胆ってのは大した薬じゃねぇか。飲んですぐ効いてくるとは、上等の酒みてねぇな薬だな」
孝介は、感心して腕を組む。
「いや、しかしおどれぇたな。もし、あのまま舌がしびれてたら、それこそ、兎汁くれぇしか旨く感じねぇところだ……った……ん」
その時だ、孝介の頭にガツンと何かが浮かんできた。
まて、まてよ。
孝介はすっくと立ち上がると、部屋の中をウロウロと歩き始める。
……年寄は兎汁みてぇな味の濃いものを好む。
……舌がしびれて味を感じなくなれば兎汁くれぇしかうまくなくなる。
くるくると部屋の中を回り続ける孝介の頭に、様々な事柄が浮かんでは消え、最後におつるの鬼の形相がドンっと現れた。
「で、おまいさん、これを誰に食わすつもりなんだい」
そうか……そうか、そうか、そうか、そうか!
「俺は、客を見ちゃいなかった!」
孝介はそう言うと、竜胆を煎じた薬の入った湯呑を掴むと、残り半分をぐっと一気に飲み干した。
「くぅぅぅにげぇ!まずぃ!でも、おかげで頭が冴えやがる!」
孝介はそう叫ぶと、竜胆の入った紙包みを大事そうに懐にしまい、狭い長屋を飛び出していった。
着物の上から竜胆の紙包みを掴んで「ありがてぇ、ありがてぇ」とつぶやきながら。
孝介は、走った。
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