第2話

 女将であるおつるに散々っぱらどやされたあとの板場。


 孝介は佐吉と顔を突き合わせて、自分の作った汁を片手に泣きそうな顔でしょぼくれていた。


「まあ、とりあえずもう一度飲んでみろや」


 佐吉にそう促されて、孝介はその椀の中に引かれている澄んだ出汁の香りを嗅ぎ、そして小さくため息をついた。


 冷めているのに、そこから立ち上る素晴らしい香気。


 鰹節の良いところだけを薄く切り出した削り節を使い、しかも生臭みを極力出さぬよう注意を払ったことの良くわかる品のいい香り立ち。


 まさに、一級品の汁だ。


 それだけに、孝介にはそれのどこが悪いのかさっぱりわからない。だからこそ椀の水面をじっと見つめるほかないのだ。


 椀の具は三つ葉も鞠麩、どちらも生臭みと相性が悪い。


 それだけに、これ以上ないくらいに気を使った。


 孝介は、改めてその汁を一口すする。


「やっぱり、うまい」


 吸ってみて、唇の間からすすり込まれる汁は、舌の上でまず典雅な三つ葉の香りをふわっと漂わせたかと思うと、後を追うようにほんのりと鰹の香りを漂わせ軽やかな旨味が口内に広げた。


 そして、その旨味が、先に広がっていた三つ葉の香りに合わさってなんとも言えない味のにしきを口内に織り上げる。


 孝介は訝しげな表情のまま小さく息を吐くと、そのまま箸で鞠麩をつまみ上げ口に入れた。


 するとこちらも、まずは三つ葉の香気をまとって口に転がり込むと、舌と顎の力でじゅわっと潰れ、中から旨い出汁が小麦特有の香ばしさを連れて溢れてでてくる。


 さらに、やや時が経って頼りなくなっているものの、孝介が一から選んだその特級の鞠麩は、心地よいクニュクニュとした感触が艶やかで官能的ですらある。


「まちげぇねぇ」


 やはり、うまい。


「佐吉の兄(あに)さん、いってぇこれはなにがいけねぇんですかい」


 そう呻くように問う孝介の目の下のくまが、もう別人のように濃い。きっと、ここ数日しっかりと寝ることもできていないのだろう。


 それもそのはず、孝介の椀がおつるにはねつけられたのは、もうこれで十二度目。そのたびに、牛が蝿を叩くように追い払われているのだから、こうなってしまうのも仕方がないように思えた。


「おめぇな、それ、誰が食うんだい」


 救いを求める孝介に、佐吉が切った口火はおつると同じ言葉。


「へぇ、ですから、糸問屋の播磨屋さんのご隠居の古希の祝いにでござんすよ」


 いま孝介が考え悩んでいるのは、古希の祝い膳。糸問屋「播磨屋」の隠居で、未だに衰えを知らずピンシャンとしていている傑物、播磨屋六輔の祝膳に添える椀なのだ。


 しかもこれには、孝介の出世もかかっている。


 最初にこの話をおつるにされた時は、祝いの膳に添えるにふさわしい椀をこしらえたら、先代の決め事を破って次板にしてやる。という話だったのだ。それだけに、孝介は出世の夢を見て天にも昇る心地であった。


 というのも、次板になるということは包丁人になるということ。


 孝介の年で椀方というだけでかなりのものだが、これが板場に出る、つまり正式な板前になるということになれば、もうそれは異例の大出世。それも浅草の桜屋の次板に十七やそこらの若造がなったとなれば。


 これはもう江戸市中の粋人にくまなく広まる大出世なのである。


 それだけに、孝介は己のすべてをこの難題に賭けた。


 で、今、孝介は、天に登るどころか地獄に向かって追い込まれ、その釜を覗いているような心地なのだ。一端の料理人としては情けなくも、兄と慕う佐吉に助け舟を乞うくらいには。


 しかし、佐吉は分かりいい答えをくれない。


「すまねぇな、それが答えだ」


「どういうことですかい?あそこの隠居には好き嫌いがありますんで?」


「そういうことじゃ、ねぇ」


 佐吉はそういうと、腕を組んで「さて」とつぶやき、続けた。


「なぁ孝よ、料理ってのはどこで作る」


 その言葉に、孝介は心で深くため息を付き、それでも真剣な面持ちで「どこで、ですかい」と答えた。


 というのも、この佐吉という男はよくこういう謎掛けのようなことを口走って下のものを混乱させるている男なのだ。そして、佐吉を慕う孝介ですらそれがどうも気に食わないでいる。


 兄さんも、スパッと、教えてくれればいいものを。


 孝介は、そう悪態をつきながらも考える。きっと、腕や道具という答えを佐吉が求めていないことは瞭然だし、人情なんて薄甘いことを口走るような男でもない。


 となると、だ。


「精進でしょうか」


 やっとのことで答えた孝介に、佐吉はブンブンと頭を振ってその答えを切り捨てた。


「ちげぇよ」


「じゃぁなんでやんす」


「そりゃな、頭だよ、孝の字」


 その答えに、なんとも合点の行かない表情を浮かべた孝介。それを見て、佐吉は噛んで含めるように話し始めた。


「あのな、おれたちゃ遊びで料理を作ってんじゃねぇんだ」


 と、佐吉は、遊びと言われて孝介がいきり立ちそうになるのを手で制し、そのまま続ける。


「別にお前が遊びで仕事してるなんざ思っちゃいねぇよ。ただ、料理屋の料理ってのは遊びでも酔狂でもねぇ、商売だってことだ」


「そんなことは、あっしにも!」


 ここで孝介は佐吉が制したにもかかわらず声を荒げた。


 というのも、その言葉はとても聞き捨てならない物言いだったからだ。しかし、それでも佐吉は、穏やかな表情のままやはり手で制して続ける。


「わかってら、そんなことはよ。そうじゃねぇんだよ、なんていうかな、そうだな……」


 と、佐吉は、言い終える前にふと気づいた様子でだしぬけに懐から小さな紙包みを出して孝介に投げてよこした。


「ま、そのなんだ、これでも飲んでまずは身体をいとえ、そしてそっから考えればいいこった」


「なんですかい?こりゃ」


「竜胆だよ」


「りん……どう、ですかい?」


 受け取った孝介は、そのちいさな紙包みを手にすると、それをかざして透かしてみた。どうやら中にはいっているのは草の根を乾かしたもののように見える。


「そりゃな、深川の竹庵先生に頂いた胃に効く薬だ」


「胃、ですかい?」


「ああ、最近、おめぇはそれで寝れてねえんだろ」


 いわれて孝介は、慌てて胃の腑のあたりをキュッと押さえた。図星だったのだ。


「ま、それ飲んでりゃ、わかるかもしれねしな」


「へ、へぇ」


 なんでぇ、また謎掛けじゃねぇか。


 気まぐれに見せた佐吉の気遣いに、ほんの少し心をほだされかけていた孝介も、それが結局謎掛けの一部であると知って少し鼻白み、それでもその包みを大事に懐にしまった。


 胃の腑がいてぇのは、間違いねぇからな。


 そう心でつぶやいて、孝介は佐吉に丁寧に頭を下げた。

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